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2015年12月24日 (木)

主の降誕、おめでとうございます。

Christmas201502

新潟教区の皆様、主の降誕、おめでとうございます。

(本日、夜半のミサ説教)

主の降誕おめでとうございます。

 主イエスの降誕を祝うわたしたちは、毎年この日の夜に、教会に集まります。もちろん明日の朝、明るい中でもいま一度集まって祈りを捧げるのですが、しかしクリスマスにとって一番重要なのは、この夜のひとときにあります。教会だけではなく、日本の多くの方々にとっても12月24日の夜にクリスマスを祝うことが、いわば習慣となってきていますけれども、クリスマスの本当の意味を心で感じるためにこそ、このお祝いは夜に行われなければなりません。

 先ほど朗読された福音書には、イエスが誕生した次第が記されていました。そこには、確かにマリアがベトレヘムで初めての子を産んだときに、羊飼いたちが「夜通し羊の群れの番をしていた」と記されていますから、その出来事は夜だったに違いありません。
 でもクリスマスを夜に祝うのは、単に起こった出来事をなぞっているという、それだけが理由なのではありません。
 福音書の続きには、「すると主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした」と記されています。それは暗闇に輝く光でした。羊飼いたちが恐れをなすほどに輝く光でした。
 同じようなことが第一の朗読にも記されていました。最初に朗読されたイザヤの預言にはこう記されています。
 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住むものの上に、光が輝いた」

 「闇の中を歩む民」とは、いったいだれのことでしょうか。
 東日本大震災の津波が私の故郷である岩手県を含めた東北沿岸を襲ったあと、数ヶ月して沿岸部の被災地を訪れました。夜になると、それまで多くの人が生活する街であった地域には何もなくなっているのですから、当然家の明かりもなく、街灯もない。真っ暗闇がすべてを支配していました。この深い闇を目の当たりにするとき、大きな不安が心を支配していくのを感じました。その地で避難生活を続ける多くの方々にとっても、その暗闇は希望を奪う負の力となったのではなかろうかと思います。

 今わたしたちが生きている世界は、例えばテロの脅威にさらされて、いつ何時どこで何が起こるのかわからないという不安が確実に存在します。その中で、わたしたちの国では、かつてのような明るい未来を展望させる経済的繁栄ではなく、少子高齢化の激しく進む中で、困難な未来が待ち受けているのではないだろうかという、将来に対する漠然とした不安も深まっているように思います。加えて、世界的レベルで言えば、気候変動は多くの国に、とりわけ貧しい国々に目に見える形での影響を及ぼしはじめており、わたしたちの共通の家である地球の存続そのものにでさえ、行く手に暗雲が立ちこめているようにすら感じさせます。将来を見通せないことへの不安。はっきりと見えてこない進むべき道。まさしく、「闇の中を歩む民」とは、現代社会に生きているわたしたちのことなのではないでしょうか。わたしたちは、将来をはっきりと見通すことの出来ない暗闇の中で、不安に心を支配され、生きています。

 「死の陰の地に住むもの」とはだれでしょう。
 それは確かに生命の危険を感じるような状況のことでもありましょうが、聖書は「死の陰の地」という言葉で、人が生きる希望すら失ってしまうような「これ以上ない深い暗闇」の状態を表現しようとしています。まさしく、不信と不安にあえいでいる現代社会に生きるわたしたちこそ、「死の陰の地に住むもの」ではないでしょうか。

 さて震災発生から数ヶ月して、会議のために宮古市の近くの大槌町へ出かけました。津波の被害を免れて町中に残っていたビジネスホテルが会場です。会議が終わって外へ出ると、そこは他の津波被災地と同じように深い暗闇が支配していました。ただ一つだけ異なっていたのは、ボランティアセンターとなったそのホテルに明かりがともっていたことです。延々と広がる暗闇の中に、そこだけが煌々と光を放って輝いていました。災害の地ではない普通の町中にあれば、きっとだれ一人として気にも留めないような、そんな当たり前のホテルの明かりです。それが、真っ暗闇の中に唯一残された光として存在するとき、その普段であれば誰も気に留めないような小さな光は、多くの人の心の不安を吹き飛ばし、将来への希望を生み出す輝く大きな光となっていたのです。

 イエスの誕生は、まさしく深い暗闇の中で希望を失い不安と不信に駆られている人々への、希望の光でありました。イエスにこそ、不安を打ち破り、将来への希望を生み出す光があります。
 だからこそ教会は、クリスマスの一番重要なお祝いを、夜の暗闇の中で行うのです。
 だからこそ教会は、クリスマスの夜に聖堂の明かりを消して、小さなキャンドルに火をともして、小さな光の持つ力を感じようとするのです。なぜならば、暗闇のうちに誕生した光は、小さな幼子であったにもかかわらず、すべての闇を打ち払う力を持っていたからです。闇に輝くその光は、燦然と輝く巨大な光ではなく、今にも消え入りそうな、両親の保護がなければ長らえることのない、小さな命だったからです。

 わたしたちはこの一年、「いつくしみの特別聖年」を祝っています。
 暗闇の中で、不安に駆られている人間は、互いを十分に信用することすら出来ない相互不信に陥る可能性の中に生きています。すでにわたしたちの社会は、相互不信の塊になってはいないでしょうか。相互不信の世界は、互いを簡単に断罪する世界でもあります。良いか悪いか、味方か敵か。白なのか黒なのか。不安に駆られたわたしたちは、判断を急いで安心を得ようとします。ですからすぐに人を裁きます。寛容さを失ってしまいます。
 ネットやテレビで、心温まるお話を耳にする機会が増えました。どうしてでしょう。それは心温まるようなお話が、わたしたちの周りから消え去っていき、ぎすぎすした対立ばかりが目についてくるからではないでしょうか。結果、わたしたちは心温まる話に飢えている。

 不安と不信の暗闇に住むわたしたちに与えられた光であるイエスは、いつくしみの神そのものでもあります。あわれみといつくしみは、神の愛の別名であるとまでいわれます。慈愛という言葉がそれを表すに適しています。神は自らが創造された人間を愛し抜かれているからこそ、人間としてこの世に来られた。そのイエスは、御父のいつくしみそのものです。神はわたしたち一人ひとりを、そのいつくしみで包み込み、さらにはわたしたちがその受けたいつくしみを互いにわけ与えることを望んでおられます。

 神のいつくしみとあわれみは、今日の第二の朗読に「良い行いに熱心な民をご自分のもとして清めるため」と記されているように、わたしたちが神の方向に向き直ること、すなわち回心を求めています。いつくしみとあわれみを求めて神に向き直るわたしたちに、闇に輝く光である神は、その愛によって包み込み、将来に向かう命の希望を与えてくださるのです。

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