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2015年12月26日 (土)

暖かなクリスマスでした@新潟市内

Christmas201504
何となくクリスマスの雰囲気が感じられなくなるような、そんな暖かな(とはいえ、確かに寒くはありますが、例年と比べてはるかに暖かい)12月25日でした。心配された雨も降らず、多くの方が新潟教会の日中のミサに参加してくださいました。ミサ後にはセンター2階ホールで祝賀会も行われ、今年は子どもたちの声がたくさん聞かれる元気のあるクリスマスパーティーになりました。全員が参加して行ったじゃんけん大会では、最後に残ったのが数名の子どもたちと、最長老の一人でもある90歳に近い金澤先生。最終優勝者でした。

以下、日中のミサの説教全文です。(夜半のミサとともにあらためてホームページにも掲載します)

「言葉のうちに命があった。命は人間を照らす光であった」
 1995年に教皇ヨハネパウロ2世は、回勅「いのちの福音」を発表され、「死の文化」と「いのちの文化」という対比する二つの文化の存在を指摘されました。「文化」とは社会の価値観の柱とも言うべき存在です。そして、信仰に生きるわたしたちにどちらの文化を選択するのかと問いかけました。教皇はいのちの尊厳をないがしろにする現代社会の傾向をさまざま指摘した後に、このように記しています。
「現代世界には、いのちを脅かす重大な脅威が無数にあります。これらに直面するとき、人間はまったくなすすべがないと圧倒されてしまいます。善は、悪に勝利を収めることが出来るだけの力を持たないと感じるのです(29)」

 この回勅「いのちの福音」発表から20年を経た今、わたしたちはあらためて、現代社会がいのちを脅かすさまざまな脅威に満ちあふれていることを感じざるを得ません。わたしたちのいのちは、自らが創造された人間を愛して止まない神からの、かけがえのない贈り物、賜物です。神は自らが創造された人間を限りなく愛されたからこそ、その救いのために人となり、わたしたちにその愛に基づくいつくしみを直接、目に見える形で、また耳に聞くことの出来る言葉で示そうとされました。

Christmas201503
 今日わたしたちが誕生を祝っているイエスは、神のことばそのものです。神の知恵、神のおもい、神の愛、そしてそれに基づく神のいつくしみ。それらすべてを「神のことば」と言い表しているのです。そしてヨハネは、このことばにこそいのちがあると記しています。
 近年、日本に限らず多くの国で、寛容さとはほど遠い行動をとる人々と、それを賞賛する人々の姿が目につくようになりました。時にその不寛容さは、多くの人のいのちでさえも奪ってしまいます。

 ただでさえ技術や経済が発展している現代社会では、利己的な思想や生き方が広まりつつあり、互いに助け合うという人間関係における寛容さが薄らいでいます。その中にあって、民族間の対立や、国家間の対立、ひいてはテロの脅威といった、心の不安を増幅するような雰囲気をしばしば感じるようになっています。疑心暗鬼の相互不信には、対立を引き起こし増長する負の力があっても、寛容さを広める前向きの力はありません。そういう中で、あたかも人間のいのちには価値の違いがあるかのような思い違いすら、簡単に生み出されてしまう可能性があると感じます。極端に言うならそれは、自分たちを守るためなら、敵対するものを殲滅することは致し方がないという考え方です。異質なものは排除しても構わないという、いのちに対する尊厳の欠如です。まさしく、寛容さを失い、相互不信にあえぐ社会は、「死の文化」に彩られた社会です。教会はあらためてこの社会の中で、「いのちの文化」を強調していかなければなりません。善が悪に勝利を収めるだけの力を持っていることを、証明していかなくてはなりません。

Christmas201506
 そのような中で、教皇フランシスコは神のいつくしみを改めて強調され、いつくしみの特別聖年を始められました。特別聖年の大勅書に、こういう言葉があります。
 「神はご自分の愛を約束なさるだけでなく、それを見えるもの、触れることの出来るものとなさいます。やはり愛は、決して抽象的な言葉ではありません」
 まさしく教皇が記すとおり、神は自ら人間となり、具体的に語り行動することによって、その愛を目に見える形でわたしたちに示されました。確かにその愛は、抽象的ではなく具体的な言葉としてわたしたちの間に存在されているのです。
 その上で教皇フランシスコは、こう書いています。
「神は責任を感じています。わたしたちの幸せを望み、わたしたちが幸福で、喜びと平和に満たされているのを見たいのです」
 わたしたち一人ひとりが、神に愛されたいのちを生きる者として、喜びのうちに「いのちの文化」を生きるようにと、神は望んでおられると教皇は指摘します。

 わたしたちはこの神のことばによっていのちを受け、その愛といつくしみのうちに生きるように招かれています。そしてそのいのちの言葉を、さらに多くの人たちに伝えていくようにと招かれています。「死の文化」に彩られた世界に住む多くの人々に、どれほど「いのちの文化」が重要であるか、どれほどの愛といつくしみにわたしたちが包まれているのか。それを伝えていかなくてはなりません。
 そうであるのに、なんと簡単にわたしたちはいつくしみを忘れ、互いを裁きあうことでしょうか。幾たびわたしたちは、同じ神の愛といつくしみに包まれているもの同士であることを忘れ、対立し続けてきたでしょうか。

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 神のいつくしみは、わたしたちに連帯のうちに生きることを求めます。なぜならば神ご自身がそうされたからです。天の高みから人間を見下ろし、折に触れて恵みを投げ与えるような類いのあわれみではなく、やむにやまれぬ愛の思いに駆られて、自ら人間となりわたしたちのうちに共に生きようとされたのが、わたしたちの主だからです。わたしたちも、やむにやまれぬ思いに駆られて、同じ神によっていのちを与えられたもの同士として、相互の信頼と連帯のうちに生きていかなくてはなりません。
 教皇フランシスコは、「教会の生命を支える柱は、いつくしみです。教会の司牧行為は、すべてが優しさに包まれていなければなりません」と呼びかけます。

 また教皇は、「わたしたちの文化で、ゆるしの体験がますます減っていることを知るのは悲しいことです。ゆるしということばさえ、失われたかのようなときもあります。しかし、ゆるしのあかしがなければ、砂漠で生活するような不毛で荒れた人生しかありません」とも指摘しています。(大勅書10)

 主イエスの降誕の祝日に当たり、わたしたちは人となられた神のみ言葉のうちにこそ真のいのちがあることを、そしてそのみ言葉こそが神の愛、神のいつくしみの具体的に見える姿であり、わたしたち一人ひとりがその愛といつくしみに与るよう招かれていることを、あらためて心に刻みましょう。その上で、その愛といつくしみを、勇気を持って生き、あかしし、伝えていくことが出来るように、主の助けを祈りましょう。

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