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2016年2月10日 (水)

灰の水曜日@新潟教会

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本日は灰の水曜日であります。四旬節が始まりました。今年は復活祭が早く、3月20日が枝の主日(受難の主日)、3月23日が聖香油ミサ、3月24日~26日が聖なる三日間。そして3月27日(日)が復活祭です。四旬節について、詳しい解説が中央協議会のホームページにありますので、参照ください

大斎小斎の日にあたる灰の水曜日(大斎小斎については、こちらのリンク)、午前10時から新潟教会でミサを執り行いました。平日の昼間で、晴れてはいたものの寒い日でしたが、40人ほどの方がミサに参加してくださいました。以下、本日のミサの説教です。

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先日、日本の教会にとって喜ばしいニュースが聖座から発表されました。それはユスト高山右近の列福が、教皇様によって承認されたというニュースです。

 ユスト高山右近は、信仰を守りぬいたが故に日本を追われ、家族とともにマニラに追放処分となりました。1614年末のことです。彼の地で大歓迎を受けた右近は、直後に熱病にかかり、翌1615年2月3日に、マニラで亡くなりました。

 高山右近に関して開かれた昨年のシンポジウムで、講師のお一人が次のような趣旨のお話をされていました。

 右近を追放しようと決めた秀吉の気持ちを和らげるため、対立を避けよという周囲の忠告には耳を貸さず、「イエス・キリストの騎士」である名誉を守り通そうとした。そして説得する周囲に対して、「神に関することは、一点たりとも曲げるべきではない」と述べたといわれます。その後、すべての地位や財産を没収され、流罪の身となっても、右近はそれを感謝と喜びのうちに受け入れ、他人から施しを受ける身になったことを喜びとしていた。さらにはそういう境遇にあっても、自分が受けたものを、他者の必要のための奉仕へと回していた。右近の人生の大半は、すべてを神にゆだねる人生、すなわち殉教の人生であった。こういう趣旨のお話でした。

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 さて高山右近はマニラに追放の身となった亡くなったのですが、例えば米沢の福者殉教者たちのように、処刑されて亡くなったのではありません。病死であります。しかし今回教皇様は、高山右近を「殉教者」として認定されました。それは、殉教が、単に信仰を守るために殺されたという事実だけを意味するのではないことを教えています。殉教とは、右近のように、信仰における逆境にあっても、信仰を守るためにその人生を神に捧げ尽くし、地位も名誉も財産もすべてを奪われ、その上でその事実を喜んで受け入れ、その姿を、そして言動を通じて信仰を他者にあかしをするような生き方。殉教者の人生。そういう意味で、殉教者なのです。そこに、高山右近の殉教者としての現代的な意味があるのです。

 「神に関することは、一点たりとも曲げるべきではない」という覚悟を、現代社会に生きるわたしたちは、どのように考えるのでしょうか。「現実的判断」などという言葉をもって、自分の周囲で起こっている出来事やその中における人間関係などに翻弄されながら、その場その場で最善と考える対応をとって、わたしたちは人生の荒波を生き抜こうとしている。それが現代社会に生きるわたしたちの姿ではないでしょうか。その中にあって、往々にしてわたしたちは、「現実的判断」のために信仰における妥協を重ねてはいないでしょうか。そういう生き方を選択しているわたしたちに対して、高山右近は、人間の生きるべき姿の模範を示しているように思います。

 とはいえ、そういった厳しさをもった人生への取り組みを、だれでもが簡単に出来るわけではない。当然のことでしょう。人間の弱さは、わたしたちを妥協への道へと誘うのです。
 だからこそ、ヨエルの預言は、わたしたちにこう語りかけます。
 「あなたたちの神、主に立ち返れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、いつくしみに富み、くだした災いを悔いられるからだ」
 神のいつくしみに包み込まれるという究極の心の安らぎを、預言者はわたしたちに思い起こさせています。

 「いつくしみの特別聖年」を過ごしている今年、教皇様は四旬節メッセージで、次のように呼びかけられます。
 「この聖年の四旬節を、神のいつくしみを祝いまた実践するための集中期間として、深く味わいながら過ごすことができますように」
 その上で、教皇様は、こう呼びかけています。
 「わたしたち皆にとって、この聖年の四旬節は、神のことばに耳を傾け、慈善のわざを行うことによって自己疎外を克服するのにふさわしい季節です。身体的な慈善のわざを通して、わたしたちは食料や衣服、住居、かかわりを必要としている兄弟姉妹のうちにおられるキリストの肉に触れます。一方、精神的な慈善のわざ―助け、教え、ゆるし、忠告し、祈ること―は、自分たちが罪人であることにより直接的に触れさせてくれます。したがって、身体的な慈善のわざと精神的な慈善のわざを、決して引き離してはなりません」

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 この説教の後、わたしたちは灰を額にいただきます。灰を受けることによって、人間という存在が神の前でいかに小さなものであるのか、神の偉大な力の前でどれほど謙遜に生きていかなくてはならないものなのか、心で感じていただければと思います。司祭は灰を頭や額にかけるときに、「回心して福音を信じなさい」、または「あなたはちりでありちりに帰っていくのです」と唱えます。
 前者は、四旬節の持っている意味、つまりあらためて自分たちの信仰の原点を見つめ直し、神に向かってまっすぐに進めるように軌道修正をするということを明示しています。後者は、すでに触れたように、神の前で人間がいかに権勢を誇ろうとも、小さなむなしい存在であることを自覚して謙遜に生きるようにと諭しています。

 わたしたちすべてが、いつも、高山右近のように殉教の気概を持って、喜びのうちに「殉教者の人生」を送ることが出来るとは限りません。わたしたちは、確固たる信仰ではなく、揺れ動く信仰しか持っていないからです。弱い存在だからです。しかし、それでもそういったわたしたちを大切にし、愛し、導いてくださる主のいつくしみに信頼いたしましょう。
 この四旬節の間、神のいつくしみに包まれながら、信仰の根本を見直しいたしましょう。その上で、教皇様の呼びかけに応えて、身体的な慈善のわざだけにとどまらず、精神的な慈善のわざにも励むことの大切さを心に刻みましょう。

次の日曜日、四旬節第一日曜日には、新潟教会において午前9時半から、この地域の小教区のかたでこの復活祭に洗礼を予定しておられる方々のために、共同の洗礼志願式を行います。どうぞご参加くださり、教区の共同体の一員として新しく洗礼を受けられる方々を迎え入れるために、お祈りください。

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