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2016年2月14日 (日)

共同洗礼志願式@新潟教会

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四旬節の第一主日にあたる本日、新潟教会で洗礼志願式を行いました。昨年から、新潟近隣の教会を主に対象にして、共同で洗礼志願式を行うようにと呼びかけております。交通の便などもあり、そう簡単にすべての洗礼志願者が新潟教会に集まれるわけではありませんが、今年は、新潟教会の志願者4名に加えて、新発田教会の志願者2名が加わり、6名の洗礼志願式を行うことが出来ました。

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洗礼志願式では、まず代父母の方に、それぞれの志願者の方の祈りの生活などについて質問をし、その後にそれぞれの志願者の方の意向を確かめます。その後で、洗礼を受けたいのだという意志を自覚していただくために、一人ずつ署名をしていただきました。その上で、教会共同体が一節ずつ唱え、それを志願者が繰り返す形で信条の授与を行い、共同祈願のあとに、志願者の油で塗油を行いました。

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ミサの終わりには、洗礼式で使うことになるロウソクをお一人ずつにお渡しもしました。6名の方、どうか良い四旬節を過ごし、復活祭に向けて洗礼のより良い準備が出来ますように。

以下は、本日のミサの説教です。

 わたしたちの人生は、ありとあらゆる誘惑の宝庫でもあります。今日の福音は、イエスご自身がその宣教活動を始めるにあたって40日間の試練の時を過ごされ、まさしく悪魔からの誘惑を受けた出来事を記していました。悪魔からの誘惑とは一体どういうことか。それは、神から離れる方向へと人を誘うさまざまな力のことでしょう。というと、そういう誘惑はどこからか降りかかってくるのかといえば、実はそうでもありません。その多くは、結局のところ、わたしたち一人ひとりの心の中から生み出されているように思います。

 福音によれば、40日の試練の中で、イエスは三つの大きな誘惑を受けておられます。
 まず空腹を覚えた時に、石をパンにせよとの誘惑。次にすべての権力と繁栄を手にするの誘惑。そして神への挑戦の誘惑。この三つが記されています。
 この三つの誘惑は、今を生きるわたしたちにとっても、大きな意味をもっている誘惑ではないでしょうか。先ほども申し上げたように、それらの誘惑は結局のところ、わたしたちの心の中に潜んでいる欲望です。すなわち、第一に人間の本能的な欲望や安楽への願望。そして字義通りに権力や繁栄への欲望。そして人間こそ万能であるという、神の前での謙遜を忘れた思い上がりの欲望。すべて人間こそが世界の中心にあるという考え方で、神から遙かに離れたところへと人間を誘う、まさしく悪魔の誘惑です。そしてわたしたちは、現代社会にあって、この誘惑の直中で生きているのではないでしょうか。

 残念ながら世界の現状を見るときに、生命の創り主である神の存在は軽視され、またはまったく無視され、すべては人間の都合や欲望のために推し進められていく。その結果は、ほんの一握りの人には幸福をもたらしているのかも知れませんが、多くの人にとっては苦しみの現実を生み出し、しばしば人間の尊厳を踏みにじるような出来事、さらには生命を奪うような出来事も頻発しています。
 こうした悪魔の誘惑に対してイエスは、「人はパンだけで生きる者ではない」とか、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」とか、または「あなたの神である主を試してはならない」とお答えになることによって、わたしたちに、人間の欲望を中心にして人生を築き上げるのではなく、神のおもいを中心にして生きるように、神の思いを基礎にして人生を築き上げるようにと諭されます。四旬節は、この40日の間、わたしたちがどのような悪魔の誘惑に日々負けながら生きているのかをしっかりと見極める時です。その上で、神のいつくしみに支えられながら、神の思いを中心にして生きていこうと、神のおもいを基礎にして人生を築いていこうと、あらためて決意をするときであります。 

 さて四旬節の始まりに当たり、教会は第一主日に洗礼志願式を行うように勧めています。それは、キリスト者として生きることを望み、そのための学びと祈りの時を過ごしてきた方々が、洗礼への最後の準備をするために最もふさわしいのが、四旬節だからです。
 神の思いを中心に生きるためにはどうしたらよいのか、一人で悩むのではなく、教会はこの四旬節に教会共同体が一緒になって、ともに道を探るように招いています。その道は、わたしたちは何を信じているのか、どうして信じているのか、信じているのであればどのように生きるのか探求する道でもあります。その上で四旬節は、イエスの受難と死と復活の神秘的な出来事を祝う聖週間へとつながっていきます。言うまでもなく、私たちの信仰の根底にはこの神秘的な出来事があり、まさしく私たちは水による洗礼を受けることによって、キリストの死と復活に与るものとなり、キリストとともに死に、キリストとともに新しい生命に生きるようになります。

 今日は、昨年に続いて、主に新潟の近隣のいくつかの教会から、洗礼の準備をしてきた方々が、一緒にこのミサに参加しておられ、この後、洗礼志願式に臨まれます。
 このように集まっていただいたことには、もちろん理由があります。
 第一に、洗礼を受けキリスト者になることは、単に個人的な心の問題に終わるのではないことを実感していただくためです。宗教は、わたし個人のことであって他人は関係ないと思われがちですが、キリスト者にとって、信仰は常に共同体の中で生きられるものだからです。
 共同体のないキリスト教は考えられません。イエスご自身が、まず最初に12人の弟子という共同体を形成して、祈りをともにし、聖体の秘蹟を定め、福音宣教に送り出されました。
 洗礼を受けることによって、キリストの体の一部となるのだという自覚を持っていただくためにも、洗礼志願者として洗礼への最終的準備を始めるとき、それは共同体の中でなされなければなりません。

 第二に、なぜカテドラルなのか、です。教会共同体とは、単にどこそこの小教区教会だけを限定しているのではなく、もっと大きなつながりを意味しています。教会とは、私がミサに与る場所だけを意味しているのではなく、まさしく「普遍教会」と呼ばれるように、全世界に広がる一つの共同体を指し示している言葉です。洗礼を通して、私たちはどこかの教会のメンバーになるのではありません。それを遙かにこえた神の民の一員となるのです。キリストの体としての教会は、民族や文化や国境を越えて、この世界に一つの神の民として存在しています。その一つの群れの牧者として与えられているのが教皇です。
 この地域にあっては、新潟教区という名称の下に、一つの民が形成されていて、司教がその牧者として教皇から任ぜられています。洗礼を受けて教会の一員となることは、同時に新潟教区という一つの共同体の一員となることを意味しているのですから、このようにその牧者である私と祈りの時をともにすることで、自らが歩みをともにしようとしている共同体の普遍的な広がりの一端を感じていただければと願って、カテドラルに集まっていただきました。

 洗礼志願式の典礼では、自らの意思でこの道を歩む決意を明確にするために署名をしていただくことや、共同体の一員となることを自覚するために、キリスト者の共同体の皆が信仰のうちに共有している信条の授与があり、さらに悪の誘惑から守られ清められることを祈りのうちに願います。

 教会は今、いつくしみの特別聖年を祝っています。神を中心にして生きる人とは、まさしく神ご自身を体現しようとして生きる人でもあります。その神は、いつくしみの神です。溢れんばかりのいつくしみをもって、わたしたちを包み込もうとする神です。ですからわたしたちも、その神のいつくしみを、自分の生き方をもって、言葉と行いをもって、具体的に現していけるようになりたいと思います。

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明日の月曜日から金曜日までの予定で、司教総会が開催されます。全国の司教が集まり、さまざまな課題について話し合う場です。またその期間中、2月17日水曜日の18時から、東京のカテドラル関口教会聖マリア大聖堂で、司教団全員と教皇大使も出席して、いつくしみの特別聖年ミサが捧げられます。お近くの方は是非ご参加ください。また司教総会が実りある会議となるよう、皆様のお祈りをお願いいたします。

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