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2016年3月27日 (日)

復活の主日@新潟教会

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そして一夜明けて復活の主日。午前9時半からの新潟教会のミサは160名近い人が参加し、聖堂はいっぱいになりました。

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昨晩来られなかった方も大勢おられるので、信仰宣言の後には復活徹夜祭と同様、洗礼の水を受けて受洗の誓いを新たにしていただきました。また聖体拝領後には、いつものように、復活の卵を祝福。

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ミサ後には多くの方が残って参加してくださいましたが、カトリックセンター(信徒会館)二階ホールで祝賀会。昨晩受洗され、また堅信を受けられた方々に、小教区から聖書などのお祝いが贈られました。またこの祝賀会は、転任となるナジ神父の送別会、さらには明日から神学院へ移る岡神学生の壮行会にもなりました。歌を披露してくださった多くの皆さん、特に子どもたちに感謝します。

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以下、本日の説教です。

復活の主日
新潟教会
2016年3月27日

「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」

皆様、御復活おめでとうございます。

 あの主イエスとの最後の日、囚われの身となった主イエスを目前にして恐怖におそわれ、人間としての弱さの故に「その人のことは知らない」と三度も裏切ってしまった一番弟子のペトロ。そのペトロが対照的に力強く、イエスについてあかしをする場面が、第一朗読の使徒言行録に記されています。自分の言動に対する後悔の念もあったことでしょう。信頼する先生を殺害された怒りもあったことでしょう。そこには人間として、迫害するものに対する憎しみすらあったのかもしれません。しかしペトロのその力強い宣言は、「この方を信じるものはだれでもその名によって罪のゆるしが受けられる」と結ばれています。憎しみや恐怖や復讐の心ではなく、ゆるし合う心をペトロは説いていました。

 昨晩も触れましたが、わたしたちが聖週間を祝っている最中に、ベルギーでテロ事件が勃発し、多くの方が生命を失い、怪我をされました。またその地で生活をされる人たちが心に抱く恐怖はいかばかりかと想像いたします。同時にわたしたちは、同じような暴力的な人間の行動で、世界の各地で毎日のように多くの生命が奪い取られ、多くの人が恐怖に引きずり込まれていることにも思いをはせなくてはなりません。わたしたちの受け取る情報には限界があり、まったく知らないところでそういった暴力的な事態が発生していることも少なくありません。

 暴力によって引き起こされる悲しみや恐怖は、怒りと復讐の心を引きずり出します。結局、暴力の連鎖がいつまでも続き、生命の危機が増すだけで、そのような状況はどこであれ、神の御心に適うことでは決してありません。
 いま世界に必要なのは、まさしく新しい生命に復活された勝利の主が人類にもたらした恵み、すなわち神の愛に基づくゆるしなのではないでしょうか。主の受難を目の当たりにした弟子たちが体験したであろう、恐怖、悲しみ、苦しみ、そして憎しみといった感情を遙かに超え、すべて信じるものにゆるしに生きるようにと、復活の主は招いておられます。

 さて、皆様ご存じのように、教皇フランシスコは昨年6月、「ラウダト・シ」というタイトルの回勅を発表されました。「ラウダト・シ」とは「環境回勅」だというイメージがつきまとっているように感じます。確かに、「ラウダト・シ」の冒頭部分は、気候変動についてのどのように考えるのかがはっきりと記されており、教皇は地球温暖化が人類の活動によって放出された温室効果ガスの蓄積によって引き起こされたと指摘しています。

 しかしながら、「ラウダト・シ」は、単なる環境回勅ではありません。この回勅は、「人間は何のために生きるのか」という問題について語っている回勅です。そしてわたしたちに、これまでの生き方を捨てて、新しい生き方を選択するようにと迫る回勅でもあります。

 教皇は、創世記の天地創造物語の「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」という部分を引用しながら、次のように述べます。
 「キリスト教徒は、時に聖書を正しくない方法で解釈しましたが、今日、わたしたちは人間が神の似姿に創られ、地を支配せよとの命令を受けたからといって、無制限に他の被造物を支配できるという考え方は強く拒否すべきです。」(ラウダト・シ67)
 その上で教皇は、「何のためにわたしたちはこの世に生まれてきたのだろうか。また、何のために働き、苦労するのだろうか。なぜこの世界はわたしたちを必要としているのか。これらの根本的な問いかけなしには、わたしたちの環境問題への関心は、有意義な結果をもたらすことはないでしょう」(ラウダト・シ160)と述べています。

 さらに教皇は、問題は単に気候変動の原因追及だとか、単なるエコロジーの問題だとかに留まらないと強調されています。確かにそういった一つ一つの分野について真剣に取り組むことは不可欠だけれども、しかしもっと大事なことがあるのだと指摘されているのです。それを教皇は、「全人的エコロジー」という言葉で表しています。こう書いておられます。
 「すべての事象は密接に結びついており、現代社会の諸課題は地球が直面する危機の様々な側面を視野に入れることを必要としているので、わたしはここで、人間的そして社会的側面を尊重する全人的エコロジー(Integral Ecology)のいくつかの要素について考察することにしたい。」(ラウダト・シ137)

 人間を取り巻くすべてのことは密接に結びあわされていて、それらの相互作用によって人間がどのように生きていくことが出来るのかが限定されてくるのだから、人間に関わるすべてのことに等しく向き合う必要がある。それは環境問題であり、政治の問題であり、経済の問題であり、科学の問題であり、そして究極的にはそれらを総合する「人は何のために生きるのか」という宗教の問題でもある、というのが教皇の考えです。

 わたしたちは専ら、対症療法を施すことで歴史を刻んできました。経済状況を改善するための策を弄し、平和工作をし、敵をたたきつぶし、病気への対策に取り組み等々、一つ一つの問題にそれぞれ立ち向かってきた。そしてそれが当然だの生き方だと思ってきました。

 しかし教皇はそれに対して、新しい生き方を模索するように呼びかけているのです。その新しい生き方の模索は、人間の尊い生命がないがしろにされている今の時代にあって、まさしく「わたしたちは何のために生きるのか、どのように生きるのか、そして将来にむけて何を残していくのか」などといった問いかけによって始まるのだと、教会は世界に示していきたいと考えているのです。

 「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」と第二朗読でパウロは語っています。古い生き方を捨て去り、まったく新しい生き方を選択する。それこそが復活の主にあって生きる道ではないでしょうか。
 暴力の連鎖によって、憎しみと復讐の道を歩み続けるのではなく、まったく新しいゆるしの道を選択すること。一つ一つの問題に個別に対応して、何とか今の生活を維持していく道ではなくて、「わたしたちなんのために生きているのか」という総合的な問いかけに応える道を選び取ること。すべて新しい生き方の選択をわたしたちに求める、復活された主の呼びかけです。

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