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2016年3月20日 (日)

聖週間始まる@受難の主日

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本日は受難の主日、枝の主日でありました。新潟は曇り空の肌寒い日曜日でしたが、多くの方が朝のミサに集まってくださいました。

この日のミサはいつものように、聖堂前のカトリックセンター(信徒会館)一階のホールで始まり、枝を祝福し、エルサレム入城の福音に耳を傾けました。このあと聖堂に向かって、短い距離ですけれど、聖堂前の前庭を行列。そのあとはいつものようにミサが続きました。また福音朗読は、今日と聖金曜日が、主の受難の朗読であり、3名の方によって朗読が行われます。

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新潟教会では、水曜日23日午前10時から聖香油ミサ、24日聖木曜日は夜7時から主の晩餐のミサ、25日聖金曜日は夜7時から主の受難の聖式、そして26日聖土曜日夜7時から、復活徹夜祭です。どうぞご参加ください。

以下本日の説教です。

受難の主日
新潟教会
2016年3月20日

 この数年間、世界を包み込んでいるのは、どちらかといえば安心よりも不安なのではないかと感じます。そこには様々な問題があるとは思いますが、その一つが日本でも問題となりつつある貧困や格差の問題でしょう。
 この貧困問題を考えるとき、「絶対的貧困」と「相対的貧困」という言葉が用いられることがあります。かつて1970年代にこの言葉が用いられ始めた頃、こういう風に述べた専門家がいました。
 「相対的な貧困とは、ある人が他の人よりも少なく持っているというような、いつでもどこにでもあるような事だ。しかし絶対的な貧困とは、病気や読み書きが出来ないことや、栄養失調や、犠牲者から基本的な人間としての必要でさえも奪ってしまうような卑劣さによって、卑しめられている人間の状態のことだ」

 相対的とはいうならば、自分を中心として世界を眺め、自分との比較の中で価値判断をしていくことです。それに対して、世の中には、もっと大局的な見地から行うべき価値判断があると、この貧困の問題は教えているように思います。
 「絶対的貧困」という言葉が示そうとしているのは、一人ひとりの人間の尊厳が欠如させられている状態のことです。それが、「卑劣さによって、卑しめられている人間の状態」という表現に込めているのです。

 わたしたちが生きている現代社会は、以前にも増して情報が激しく飛び交い、テレビや新聞は言うに及ばず、インターネットなどを通じて、ありとあらゆる情報が毎日のように押し寄せてくる世界になりました。豊かに情報が与えられている今の世界で、わたしたちは何ものにも左右されない客観的な判断が出来る存在となっているのか。そう問いかけるならば、残念ながらそうは断言できる状況ではないように感じます。
 それは、インターネットが普及し始めた当時から指摘されていたことですが、結局は人間の処理できる情報量には限りがあり、あまりに大量の情報を目の前にして取捨選択すら出来ず、途方に暮れてしまっているのがわたしたちの現実ではなかろうかと思うのです。いきおい、誰かにその取捨選択をゆだねてしまう。ニュースのまとめサイトが氾濫し、短い言葉でやりとりをするツイッターのような手段が、世論を形作るにあたって大きな力を発揮しているのが現実です。その分、わたしたちは社会を広く把握できるようになったのかといえば、必ずしもそうは言えない。実は断片的な現実しか把握することが出来ずに、世界全体はいったいどこに向かって進んでいるのかを客観的に把握することがますます難しくなってしまった。自分を中心とした狭い範囲のことしか分からない。

 全体がはっきりとしない中で生じるのは、疑いの心とそのための不安です。疑いの心と不安は、大局的な見地からものを判断するのではなく、その場その場の状況に応じた、いわば場当たり的な選択の道へとわたしたちを招き入れます。はっきりとした全体像が見えていないのですから、その場で最善だと思う選択を重ねていくことしか出来なくなります。そうすると、先ほどの貧困の話ではありませんが、自分の周囲のことしか見えておらず、そこにおける相対的な判断基準でしか物事を考えられなくなっていく。わたしたちはいま、相対的な価値判断が主流をなす世界に生きているのではないでしょうか

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 わたしたちにとって神は絶対的な存在であり、絶対的な価値判断の基準であります。そのような大局的な見地から、つまり神の見地から、根本的に大事なことを判断し尊重するような価値基準は、入り込む余地がなくなってしまう。いま世界はそういう状態にあって、お互いに自分の狭い周囲のことばかりに目を奪われて、大局的な見地、すなわち神の立場から世界を見ることが出来なくなっているのではないかと思います。

 だから、このところ、教皇様は、例えば難民の受け入れの問題であったり、国境封鎖の問題であったり、環境問題であったり、世界経済の問題であったり、様々な個々の問題に、教会としての立場を明確に示されることが増えているのです。大局的な見地から、神の価値観を具体的に示そうとされています。抽象的な価値観ではなく、具体的な個々の課題に直接、判断の基準を示すことで、そこには譲れない絶対的な価値基準があることを示そうとされています。
 それは時には、政治や経済のリーダーたちから、非現実的だと批判をもされる立場です。例えば、教皇様は先日、いつくしみの特別聖年にあたって、まず死刑の廃止を呼びかけ、さらに世界のリーダーたちに、せめてこの特別聖年の間には死刑執行を停止して欲しいと呼びかけられました。日本を含めて死刑を残している国のリーダーのどれほどが、この教皇様の呼びかけに真摯に耳を傾けるのか、それはわかりません。同時にどういった教皇様の、現実社会への呼びかけや警告に、批判の声が出ているのも事実です。

 本日の第一朗読、イザヤの預言にこう記されています。
 「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる」
 「弟子としての舌」とは、神が教え導く舌であるということです。つまりその舌が語るのは、弟子の自分のことなのではなく、神の与えた言葉そのものである。つまり弟子の舌を通じて語るのは主であるということでしょう。ですから「疲れた人を励ます」のは弟子がそうするのではなくて、弟子の語る言葉を通じて神ご自身がそうされるということです。
 わたしたち神に従うものには、「弟子としての舌」が与えられているのではないでしょうか。わたしたちが語るのは、わたしたちの思いや、わたしたちの信念や、わたしたちの考えや、わたしたちの教えではなく、弟子として先生である神が与えてくださったそのことば、神の思い、神の考え、神の教えであります。わたしたちが語るのは、神が善しとされるこの世への基準であります。神の価値観であります。わたしたちの舌は、絶対的な価値観を語る舌です。

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 自らの思いを、自らの考えを、自らの教えを述べようとするものに対して、神はなんといわれるのか。それは今日の福音に記されていました。
 「おまえがユダヤ人の王なのか」と問いかけるピラトに対して、主イエスはなんと応えられたのか。「それはあなたが言っていることです」
 すなわち、その「舌」は、「弟子の舌」ではなく、「自分の舌」にすぎないというイエスの指摘ではないでしょうか。自らの思いを語るところに、神の真理はないのです。

 疑いと不安にさいなまれ、大局的な見地、神の価値観を見失っている現代社会にあって、キリスト者は「弟子としての舌」をいただいたものとして、神の善しとされることを、神の価値観を、すなわち絶対的で揺らぐことのない唯一の価値観を、勇気を持って語り続けなければなりません。

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