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2016年3月25日 (金)

聖木曜日「主の晩餐」@新潟教会

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昨日、3月24日は復活祭に向けて聖なる三日間の始まりである聖木曜日でした。夜7時から、新潟教会において主の晩餐のミサを捧げました。

昼間には雪がちらつく寒い日で、夜になってますます冷え込みどうなることかと心配でしたが、やはりそれなりの参加者。40名ほどの方が参加し、祈りのひとときを持ちました。

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教皇様のご意向で、先日から、主の晩餐のミサの典礼注記において一つの変更が加えられました。これは、主の晩餐のミサに行われる洗足式において、これまでは男性に限定されていたのが、この限定が取り除かれています。すでにご存じのように教皇様は、これまで少年刑務所などをこの日に訪れて、女性も含む方々の洗足式を行っておいでです。今年も難民センターで同じようにされたと伺っています。その教皇様のご意向で、先般、典礼の注記があらためられています。とはいえ、女性にも参加を呼びかけてもなかなかすぐには応じていただけないので、今回は例年通り、男性が6名前に出てくださいました。時間をかけて教皇様の意図やその意義についてお話をして、皆でよく理解がいったのであれば、来年以降は女性も含む方々に参加していただければと思います。

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聖体拝領後には小聖堂まで御聖体を運び墓所のように整えられた聖櫃に安置。ミサ後はしばらくの間、この小聖堂で祈りのひとときを持ちました。

以下、主の晩餐ミサの説教です。

聖木曜日主の晩餐ミサ
新潟教会
2016年3月24日

 東日本大震災発生から5年が経ちました。あらためて言うまでもなく、復興の歩みはゆっくりとしたものです。遅すぎるという印象を受けることもあります。復興庁の統計によれば、今年の1月末の段階で避難生活を送っている方々の総数は、多少減少しているものの、いまだに17万人を超えるといいます。先日の報道によれば、プレハブの仮設住宅も、すべてが解消されるのは2021年以降のことなのだそうです。加えて、具体的に目に見える形で復興が進むことと、心に大きな衝撃を受け恐怖と不安を味わった方々が、その心の平安を取り戻すことが出来るかどうかはまったく次元の異なる話であり、その意味で、これからも復興には長い時間が必要であることは明白です。

 時間が経つにつれ、被災地に直接には関わっていない大多数の人々の心には、変化が現れているような気がします。確かに知識としては、大震災があり被災した方々がまだ多く残されていると知っているものの、しかし現場のその事実が心を揺り動かすことがない。すなわち、被災したその地に暮らしていないわたしたち大多数には、被災地の痛みを自らの心の痛みとして感じることが少なくなってきている。そうではないでしょうか。あの大震災直後の心を揺り動かされるような衝撃は、時間の経過と地理的な距離に歩調を合わせるかのように、直接心に響く衝撃ではなくなっている。そういった雰囲気を感じます。

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 本日の第一朗読では、「過ぎこし」を定められた神のことばが語られています。その終わりにこう記されています。
 「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」
 さらに第二朗読には、イエスご自身が最後の晩餐において、聖体祭儀を制定された言葉が記されています。その終わりにこうあります。
 「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」
 そして福音の朗読は、最後の晩餐の席上、主ご自身が弟子の足を洗ったという出来事が記されています。弟子たちにとっては衝撃的な体験であったことでしょう。その終わりにこうあります。
 「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」

 これら三つの聖書に記された「言葉」、そのすべてに共通する神の思いとはいったいなんでしょうか。それは神がわたしたちに対して行ったわざを、わたしたちがいつまでも記憶にとどめ、それを決して忘れてはならない。しかもわたしたちはそれを忘れないだけではなく、自らも同じように実践し続けなければならない。そうして欲しいという神の思いです。
 神のその思いを現すために、旧約でも新約でも、「記念」という言葉が使われています。この「記念」は、単に「記念日」のように、暦に残しておく過去の出来事ではなく、「わたしがしたことを決して忘れずに、子々孫々まで実行していけ」という非常に具体的な命令を現す言葉です。わたしたちの神は、決して忘れることのない神です。そしてその記憶は、知識としての記憶ではなく、心が揺り動かされたその衝撃を、刻み込んでおく記憶です。

 今年わたしたちは「いつくしみの特別聖年」を祝っております。教皇フランシスコは、特別聖年開催を告げる大勅書の中で、次のように述べておられます。
「いつくしみは、わたしたちの救いに不可欠です。・・・いつくしみ、それは神がそれゆえにわたしたちに会いに来られる、究極の最高の行為です。いつくしみ、それは人生の旅路で出会う兄弟と真摯に向き合うとき、それぞれの心で働く、基本となる法です。いつくしみ、それはわたしたちの罪という限界にもかかわらず、いつも愛されているという希望を心にもたらすもので、神と人が一つになる道です」

 神のいつくしみとは、単なる神の優しさのことではありません。教皇フランシスコは特別聖年の大勅書にこう書いています。

「神のいつくしみとは抽象的な概念ではなく、わが子のことでからだの奥からわき起こる親の愛のように、神がご自分の愛を明かす具体的な現実なのです。実に「はらわたがちぎれるほどの」愛ということです」

 神は身を切られるような苦しみとあえぎをもって、自らが創造された生命に対して、その愛を差しだそうとされた。その愛する思いを「憐れみ」だとか「いつくしみ」という言葉で表現しています。それは人間の常識を遙かに超えた感覚です。その常識を遙かに超えた感覚は、常識を遙かに超えた行動を求めるのです。ですからイエスは、当時の常識からは考えられないような行動をとって、弟子の足を洗うのです。弟子たちに対して、その行動を見せつけることによって、自らの心にある衝撃的な愛の思いを表現し、さらにはその行動を弟子たちが自ら継続することで、衝撃を心に刻み込み伝えていくようにと願われたのです。

 教皇フランシスコは、「いつくしみ、それは人生の旅路で出会う兄弟と真摯に向き合うとき、それぞれの心で働く、基本となる法です」といいます。それは単に、優しく他人に接しなさいなどという、表面的な倫理のすすめなのではなく、まさしく心が引きちぎられんばかりの痛みをもって、衝撃的な行動をとれという勧めに他なりません。そして教皇様は、自らそうしてこられました。そのことをわたしたちは皆知っています。
 その上で教皇フランシスコは、次のように呼びかけておられます。

 「わたしたちは、いつくしみを生きるよう招かれています。それは、わたしたちがまずいつくしみを受けたからです。自分を傷つけた相手をゆるすことは、いつくしみの愛をもっとも明白に示す表現となり、わたしたちキリスト者にとっては無視できない命令です。ゆるせないと思うことが幾度もあることでしょう。けれどもゆるしとは、心の平安を得るために、わたしたちの弱い手に与えられた道具なのです。恨み、怒り、暴力、復讐を手放すことが、幸せに生きるための必要条件です」

 「恨み、怒り、暴力、復讐を手放すこと」を呼びかけられる教皇は、まさしく「恨み、怒り、暴力、復讐」が、現代社会の様々な問題を生み出していることを良く知っておられます。そしてそれらをわたしたちは、様々な理由をつけて手放すことが出来ずにいるのです。
 旧約の時代から始まって、今に至るまで、神は決してわたしたちに対するいつくしみを忘れられません。神は忘れることのない神です。同時にわたしたちにもそのいつくしみを同じように生きるよう招いておられます。

 今宵、最後の晩餐の出来事をあらためて思い起こすとき、その日に主の心にあったはらわたがちぎれるほどの愛の思いにわたしたちの心を向け、それを自分のものとしてこれからも伝え実践していくことが出来るように、神の導きを願いましょう。

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