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2016年3月26日 (土)

主の復活、おめでとうございます

皆様、主の復活、おめでとうございます。

先ほど新潟教会の復活徹夜祭ミサが終わりました。今夜は四名の方の洗礼と、二人の転会、そしてその六名の堅信もあり、二時間を超えるミサとなりました。洗礼と堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。

聖金曜日も含めて写真は明日にでもアップします。明日の新潟教会の復活の主日ミサは、午前9時半です。(朝7時と夜6時も通常通り行われます)

今夜の説教を掲載しておきます。

復活徹夜祭
新潟教会
2016年3月26日

「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」

 先日イエメンで、マザーテレサの修道会、神の愛の宣教者会のシスター4名を含む16名が何者かに襲撃されて殺害されるという事件がありました。一体誰がそのような蛮行に及んだのか、今ひとつ明確ではありませんが、中東のその地域一帯の現状から、他宗教の過激派による犯行ではないかとまでいわれています。そして、数日前にはブリュッセルで爆弾テロ事件が発生し、多くの方が生命を失いまた負傷されました。これもまた、宗教がその暴力の背景にあるように伝えられています。

 あらためて言うまでもなく、現代社会にあって宗教が人間の生命を奪うようなことを肯定してよいという理由はどこにもありません。かつてその歴史的背景やその時代の一般的価値観を反映して、キリスト教も他宗教の方々を殺害することを良しとした、愚かな間違いを犯した時代もありました。しかし、互いの対話が進み、世界の価値観が変わる中で、あらためて宗教は、生命の尊厳を護ることこそ、それぞれがこの世界に存在する究極的目的の一つであることを自覚するようになりました。ですから、仮に、そのような殺害が、宗教を理由に行われているのだとしたら、それは厳しく批判されなければなりません。

 とりわけ私たちにとって、神は生命を奪うことを好まれる神ではなく、徹底的にそれを護り、生命を救うことを目指す神であります。私たちの神は、生命を創造し、賜物として私たちに与え、それだからこそ人間の生命の尊厳を説いて止まない神であります。

 しかしながら私たちが生きている時代の現実を見るにつけ、私たちは一体人間の生命をどう考えているのか、疑問に感じてしまうことすらあります。教皇フランシスコは2013年3月に教皇に就任して以来、しばしば「無関心のグローバル化」について語ってこられました。「無関心のグローバル化」こそが、人の生命を奪うのだと警告してこられました。

 残念ながら私たちは、世界で起こっているすべての事柄を把握する能力を持っていません。これほど通信技術が進化して、世界は狭くなったといわれている時代にあっても、私たちが受け入れることができる情報には限度があります。限度があるからこそ、私たちは無意識のうちに、膨大な量の情報からそれぞれの尺度に従って、情報を取捨選択しています。ですから問題は、私たちの取捨選択の基準、取捨選択の枠組みであります。

 本来、私たちは神がすべての生命を、分け隔てることなく等しい愛を注いで創造されたと信じているにもかかわらず、それぞれが生きている国や地域の状況に左右されて、私たちは無意識のうちに、本当は等しいはずの生命に差をつけてしまっています。ですから、身近に起こっている出来事には敏感に反応しても、遙か彼方の地域で起こっている事柄には、全く無関心でいることも、珍しくはありません。

 教皇フランシスコは、就任直後に最初のローマ教区外の司牧訪問先として、ランペドゥーザ島を選びました。アフリカから様々な理由で海を渡って逃れてくる難民が、最初に到達するヨーロッパの島です。教皇様がそこに出かけるまで、遙か彼方の日本に生きている私たちは、そんな島にそれほど多くの難民が押し寄せてきたことなど全く知らなかったし、多くの人が海上で生命を失っていたことも知りませんでした。

 教皇様はそこで、「きれいなシャボン玉の中で自分たちの安楽ばかりを考えている」と、世界の人々に、広く世界に心を向けるようにと呼びかけられました。そしてそれ以降も、先日のメキシコ訪問の際に米国との国境地帯を訪れたこともそうですが、多くの人々の関心が向けられず忘れ去られた人々のところへ出かけていっては、警告を発してこられました。

 残念ながら、世界の現実は、日を追う毎に、関心の網を狭めていっているように感じます。自分たちの国のことばかりに、自分たちの地域のことばかりに、関心を寄せ、地理的に離れているところに生きる人々は、心理的にも離れている、それどころかまるで存在しないもののように扱われているのではないでしょうか。

 私たちはいつくしみの特別聖年を過ごしております。いつくしみそのものである御父に倣って、生きるようにと招かれています。御父のいつくしみは誰に向けられているでしょう。それは、御父が愛を込めて創造されたすべての生命に向けられています。いつくしみはすべての人に届けられなければなりません。そうであるのに、現実はどうでしょう。

 一体何人の人が、今日、世界のどこかで暴力的な状況の中で生命の危機に直面させられていることでしょう。実際、何人の人が今日その生命を奪われていることでしょう。御父のいつくしみを暴力的に奪い去られているでしょう。

 十字架の上で壮絶な最期を遂げた師イエスを慕う女性たちは、週の初めの日の明け方早く、イエスが葬られた墓に到着しました。そこで彼女たちは天使から、驚くべき言葉を聞かされます。
 「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」
 すべての希望は暴力的に奪い去られたと絶望にうちひしがれていた彼女たちは、その絶望を打ち砕かれる希望の言葉を告げられたのです。主は死ぬことはない。奪い去られることはない。いまこの瞬間も、生きておられる。
 救い主は過去の存在ではなく、過去の思い出ではなく、今私たちと共に、時間を刻んでおられる。その救い主は、御父のいつくしみの顔であると、教皇フランシスコはいわれました。神のいつくしみは、まさしく今生きているのです。

 私たちは、神のいつくしみの中に生きています。そしてそのいつくしみに包み込まれています。そしてさらに、そのいつくしみが今まさに私たちと共にあるのだということを知っています。そしてだからこそ、その今生きているいつくしみを、世界に告げていかなくてはなりません。それが私たちの宣教使命です。

 ではどうやって告げるのでしょう。それは私たちひとりひとりが、そのいつくしみに生きることによって、それを証ししながら告げ知らせていくのです。ひとりたりとも、忘れ去られて良い存在はない。神のいつくしみはすべての人に向けられていて、すべての人は神の前に、愛されるべき大切な存在であることを、私たちひとりひとりの言葉と行いで証ししていかなくてはなりません。

 神のいつくしみを告げ知らせる勇気と信仰を、復活された主イエスに願いましょう。
 

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