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2016年4月 3日 (日)

神のいつくしみの主日@新潟教会

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復活節第二の主日は、教皇聖ヨハネパウロ2世によって、2000年の大聖年に、「神のいつくしみの主日」と定められ、2003年の典礼暦から正式に実施されてきました。今年はいつくしみの特別聖年ですから、特にこの主日にあたって神のあわれみといつくしみについて黙想することはふさわしいことであると思います。新潟教会では、聖週間と御復活の主日に続いて、三週連続で司教ミサの日曜となりました。

2000年の大聖年、復活節第二主日には、聖ファウスティナ修道女の列聖式が執り行われました。ポーランドの聖人です。神のいつくしみの信心には、この聖ファウスティナ修道女の存在が欠かせません。

主イエスから二筋の光が発している有名な絵がありますが、聖人は1931年にこの絵の啓示を受けたと言われます。聖人の受けたイメージを基にして書き上げられた絵の前ではじめてミサが捧げられ、神のいつくしみについて説教がなされたのが、1935年4月28日、復活節第二主日であったと言われています。(この項、回勅「いつくしみ深い神」の後書き参照)

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聖ヨハネパウロ2世は2005年になくなる直前、その年の神のいつくしみの主日のためにメッセージを用意しておられました。そこに次のように記されています。

「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えてくださいます。それは、ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。この愛が、回心をもたらし、平和を与えます。どれほど世界は、神のいつくしみを理解し、受け入れる必要があることでしょうか」

教皇就任からまもなく、1980年に聖ヨハネパウロ2世は回勅「Dives in Misericordia」を発表されました。当時この回勅は、東京教区の大先輩司祭でもある澤田和夫神父様によって翻訳され、そのタイトルは「いつくしみ深い神」とされました。

現在わたしたちが使っているミサ典礼書でもそうですが、「いつくしみ」という言葉は「Misericordia」の翻訳として、祈りなどにしばしば用いられてきました。ところが、この回勅翻訳の冒頭は「あわれみ豊かな神」とはじまっているのです。

「あわれみ」も「Misericordia」の翻訳としてしばしば使われています。回勅翻訳の冒頭がタイトルと異なっているのは、それが聖書の引用だからなのですが、回勅の翻訳全体を通じてみると、「いつくしみ」と「あわれみ」が、同じ「Misericordia」の翻訳として両方とも幾度も用いられて登場します。

それはいったいどうしてなのかという疑問への回答は、回勅の中にそのヒントが記してありました。とても長い脚注なのですべてを引用することは出来ませんが、回勅の脚注52番に、おおむね次のようなことが記してあります。

まず、旧約聖書は「Misericordia」を描くとき、「主に二つの表現を用いる」と記されています。ここは先日の東京カテドラルでの高見大司教の説教にうまくまとめられているので、それを引用します。

「『いつくしみ』と訳されている聖書のことば(ヘセド)は、『いとおしむ、大切にする』ことと『忠実さ』を意味しています。つまり、神のいつくしみは、人間の反抗や無関心などに左右されることなく、常に変わらず徹底して、すべての人をいとおしむということです。
 また聖書では、『いつくしみ』と一緒に『あわれみ』という言葉がよく使われています。この『あわれみ』と訳されているヘブライ語(ラハミーム)は、子どもを宿す『母胎』や『腸(はらわた)』を指すことばで、母親が自分のおなかを痛めた子どもをいとおしむ情愛を意味し、そこから、苦しむ人や悲しむ人を見て、深く心を動かされる、れんびんの情を意味します」

そして教会はこの旧約における二つの意味合いを、一つの言葉、「Misericordia」に込めているというのが、この回勅の脚注に記されていることでした。従って、おなじ「Misericordia」であっても、そのときの文脈によって、「いつくしみ」と「あわれみ」という二つの翻訳が使われているのです。それほど、「Misericordia」という言葉は、広い意味をもっていると言うことではないでしょうか。そして、この回勅を翻訳するにあたって、タイトルの訳として澤田神父様が選択されたのは、「いつくしみ」でありました。

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大切なことは、「Misericordia」にはそれほど様々な側面の広い意味が込められているのだと言うことであって、単に優しくするとか、赦すとかという意味合いにとどまらず、さらに深く多くの意味合いが込められているのだと言うことを、意識しておくことであろうと思います。その意味するところを、この特別聖年の間に、知ろうと努力することも大切ではないでしょうか。その意味で、あらためて教皇フランシスコの特別聖年開催の大勅書を読み返してみたいと思います。教皇がわたしたちに求めている、「Misericordia」に生きる姿勢は、どれほど幅が広く深い意味をもっていることか、わたしたちの信仰における理解を新たにしたいと思います。

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