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2016年7月27日 (水)

ブーゲンビル島で平和の祈り@パプアニューギニア

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7月18日に羽田を出発し、昨日の夜帰国するまで、都合九日間、パプアニューギニアに出かけてきました。往復ともマニラ経由で、マニラからエアニューギニーで首都のポートモレスビーへ飛び、さらにそこから乗り継いで到達したのはブーゲンビル島のブカ。今回の目的地は、このブーゲンビル島です。地図で見れば、パプアニューギニアの東の端にある島。羽田からマニラまで4時間強。マニラからポートモレスビーまで5時間弱。そしてポートモレスビーからブーゲンビル島のブカまで1時間半。(写真上と下2枚、山本長官搭乗機の残骸)

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パプアニューギニアは1975年に独立を遂げていますが、その一部であるブーゲンビル島では1988年に分離独立を求めた内戦が勃発。その後2001年に国連の仲介でブーゲンビル和平協定が結ばれて内戦は一応終結。2005年には協定に従って自治政府の大統領選挙も行われ、現在は独立か否かを問う国民投票が2019年6月に予定されています。独立運動が起こった一番の理由は、ブーゲンビル島内にある世界有数の露天掘りの金・銅鉱山による環境破壊と、その利益が島内に還元されないことへの長年の蓄積した怒りと、さらには、そもそも地理的にも民族的にもパプアニューギニア本島よりもソロモン諸島により近い(ソロモン諸島の一部がブーゲンビル島南端から見える距離)という、本島への帰属意識の低さにもあります。

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さてそんなブーゲンビル島は、太平洋戦争中に日本軍が航空基地をいくつか開設し、そこに中央を割って連合軍が上陸し、多くの兵士や地元の人も生命を落とし、さらには連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将が1943年4月に、ラバウルからの視察途上で搭乗機が撃墜され戦死された地でもあります。太平洋戦争の悲劇とその後の内戦の悲劇。二つの平和をかき乱した出来事の地を巡り、その歴史に基づいて将来を築き挙げようとしている地で、平和のために祈ることが今回の旅行の最大の目的でした。言うまでもなく、山本五十六は新潟県の長岡出身の人物でもあります。

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旅行のそれぞれの出来事については後日また詳述しますが、横浜教区の山口道孝神父の友人がブーゲンビル自治政府(ABG)の関係者であって様々手配してくれたことと、現地ブーゲンビル教区のベルナルド・ウナバリ司教をはじめ教区関係者が全面的に協力してくださったことで実現しました。特にブーゲンビル島は25万人ほどの人口の8割程度がカトリック信者というパプアニューギニアでも有数のカトリック地域で、日本の司教が来ているというラジオの報道もあり、多くの地元の方の協力を得ることが出来ました。(写真上、スモール東京の日本軍施設跡)

内戦前には島の中央部にあるアラワという町に州政府や教区本部、カテドラルもあったと言うことです。アラワは鉱山関係者のオーストラリア人居住者で栄えた町でしたが、内戦で荒廃し、治安の確保のため自治政府や教区も本拠を現在でも島北部のブカ島にあるブカの町に移しています。

ブカからボートで海を渡り、ブーゲンビル島を北の端から南の端まで二日がかりで走りました。島内は、とにかくトヨタのランドクルーザーばかり。これほどランドクルーザーが走り回っているところは他にないのではないでしょうか。

アラワに一泊して翌日はブインへ。泊めていただいたブインの教会は、日本軍の飛行場後のすぐ横に建てられています。南端部から往復10キロほどジャングルを切り開いてもらいながら歩いて到達したのが「スモール東京」と呼ばれる建物。ジャングルの中に忽然とあらわれたのは巨大なコンクリートの建造物。かつて日本軍の施設だった建物です。70年以上経過しているのに、本当にしっかりとしたコンクリートの巨大な建造物でした。

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その日の夜、ブイン教会のミサに集まった人は千人を超えていました。素晴らしい歌声です。(上の写真、ミサ後に挨拶に集まった人たちと。下はミサ中の様子)

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さらに翌日は山本五十六海軍大将がラバウルからブインの飛行場へ向かう途中に米軍によって待ち伏せされ撃墜された現場へ。この撃墜現場を支配するいくつかの家族はやはりカトリック信者で、そのうちの二つの家族から人が集まり、現場まで徒歩の道を切り開き案内してくれました。数年前に日本の大使が訪れたときは何日も前から道を切り開いて車が近くまでは入れるように準備をしたそうですが、今回はさすがにそこまでではなかったものの、それでも泥にぬかるむ道を何とか歩けるようにいろいろと手助けをしていただきました。小川も三つ渡りました。車を降りてから片道6キロで、密林の中に撃墜された搭乗機の残骸が出現。かつては全体がほぼ完全に残っていたそうですが、残念なことに所有権を主張する現地の家族たちの間で切り刻まれ、完全な形は機体後部から尾翼にかけてのみ残っていました。近くにはそのほかの部分やエンジンなどがまとめておかれていました。この場で集まった皆で平和のために一緒に祈りのひとときを持ちました。雨期であればさらに泥沼が悪化し、ほとんど入ることは不可能だとも聞きました。

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その後、内戦の原因となった鉱山の露天掘り現場を視察して、ブカへ戻りました。日曜日には現在のカテドラルとなっているブカのハヘラ教会でミサを司式させていただきました。二千人を超える人が集まっていたと思います。その晩は、ブーゲンビル自治政府のジョン・モミス大統領の招きで夕食へ。大統領の公邸は司教館のすぐそばで、実は大統領自身もかつてカトリック司祭から政治家に転身した過去を持つ方でした。(写真上の右がモミス大統領)

いろいろと考えさせられた旅でしたが、昨晩帰国したときに知った相模原の障害のある方々の殺害事件の衝撃も大きくて、ちょっとまとめがつきません。いずれにしろ、戦争がすさまじい喪失をもたらすものであることを深く感じました。それはもちろん金銭的な意味でもそうですが、敵対する国同士だけではなく、戦地となった地域においても、多くの将来のある若者が生命を落とした。その意味での、将来に対する大きな喪失を引き起こしたのも戦争であると感じます。

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