« 聖ザベリオ宣教会でお話@泉佐野 | トップページ | 「原子力発電の撤廃を」@司教団メッセージ発表 »

2016年11月13日 (日)

いつくしみの特別聖年閉門ミサ@新潟カテドラル

Heimon1602
いつくしみの特別聖年は、来週日曜日、王であるキリストの主日に行われる教皇様のミサを持って閉幕します。それに先だって教皇様は、今日、11月13日の日曜日に、各地方教会におけるいつくしみの扉を閉門するミサを捧げるようにと指示をされました。新潟教区司教座聖堂である新潟教会では、本日日曜日の午前9時半からのミサをわたしが司式して、閉門ミサを行いました。

といっても、聖年の扉は聖堂の正面扉ですから、これを閉めてしまうわけにもいきません。同じような事情の聖堂が世界にはたくさんなると思われます。というわけで、聖座が用意した閉門のミサの典礼には、具体的な扉を閉める式は含まれていませんでした。回心の祈りと、拝領後の聖母讃歌が普段のミサとの違いでした。

Heimon1604

新潟教会では今日のミサの中で、子どもたちへの祝福も行われました。またミサ後には、センターで、ミニバザーも行われ、素晴らしい晴天に恵まれた今日、近隣の小教区も含めて、多くの方が参加してくださいました。

以下本日の説教の原稿です。

いつくしみの特別聖年閉門ミサ
2016年11月13日
新潟教会

昨年12月8日に開幕した「いつくしみの特別聖年」は、普遍教会全体ではローマにおける教皇ミサを持って来週閉幕となりますが、それを前にして、各地方教会においては、今日、11月13日に聖年の扉が閉じられることになります。

この一年間、新潟教区にあっては、特別聖年のための祈りのリレーを行ってきました。教区100周年の時には、二本の十字架が教区内をリレーされていきました。目に見える十字架を順番にリレーしていたのですし、実際に代表が十字架を運んで次の教会へ出かけていったことで、具体的な結びつきを実感することが出来たと思います。

しかし祈りのリレーは、実際には何もリレーするものがないので、十字架リレーに比べると、互いの結びつきを実感することは少なかったのではないかと思います。その意味では、意識することが難しいリレーであったとは思います。しかし同時に、わたしたち教会の霊的な結びつきとは、結局はそういう目に見えない絆であって、同じ意向を持って、同じ方向を向いて、一緒に歩み続けている一つの民としての意識を深める機会となればとも願っていました。

第二バチカン公会議の教会憲章は、教会は「人間的要素と神的要素を併せ持つ複雑な一つの実在を形成している」と述べています。まさしく目に見える形での十字架のリレーは教会の人間的要素、祈りのリレーは神的要素を象徴しているのではないかと私は思います。

祈りのリレーによってわたしたちはこの一年間、同じ意向を持って、神のいつくしみを黙想しながら、毎日を祈りの中に過ごすことが出来ました。自分自身が祈っていないとしても、同じ共同体を構成する誰かが、祈りをつないでいる。それによって自分自身も祈りの絆の中に結ばれているのだ。そういう、わたしたち教区共同体の目に見えない絆が、あの祈りのリレーであったと思います。

Heimon1603

さて、教皇フランシスコは、いつくしみの特別聖年をはじめるにあたって出された大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」において、わたしたちがどのようにこの一年を過ごすべきなのかを明示しておられます。わたしたち自身の一年を振り返ってみましょう。

 「この特別聖年は、信者のあかしがより力強く、より効果的になるために、教会にとってふさわしい時となるでしょう」と教皇様は述べられています。果たしてこの一年は、それ以前の年と、信仰的側面において何か異なる年だったでしょうか。わたしたちは、何かを力強くあかしすることが出来た一年だったでしょうか。

 「教会には、神のいつくしみを告げ知らせる使命があります。いつくしみは福音の脈打つ心臓であって、教会がすべての人の心と知性に届けなければならないものです」と教皇様は述べられました。この一年、わたしたちの教会共同体は、それ以前と異なり、何か神のいつくしみを積極的に宣べ伝えたでしょうか。

 「教会のあるところでは、御父のいつくしみを表さなければなりません。小教区においても、共同体においても、団体や運動においても、つまりはキリスト者がいるところではどこででも、だれもが、いつくしみのオアシスを見いだすことができるはずです」と教皇様は述べられます。わたしたちの教会は、この一年を通じて、「いつくしみのオアシス」になっていたでしょうか。

 「この聖年の間に経験すべきなのは、自分とはまったく異なる周縁での生活――現代世界がしばしばその劇的な状態を引き起こしています――を送るすべての人に心を開くことです」と教皇様は述べられます。わたしたちは、わたしたちが生きている現実とは異なる厳しい現実の内に生きている人々に心を開いてきたでしょうか。

 教皇様はこの一年、以前にも増して、混乱が続くシリアのために、和平の呼びかけのメッセージを発表されてきました。さらにはシリア難民の受け入れについても、各国に寛容な態度で臨むように要望され、またご自分から具体的に、昨年の4月16日にギリシアのレスボス島を訪問した際には、シリア難民の三家族12人を一緒にローマへ連れ帰ったりしてきました。

国際カリタスが世界中のカリタスや司教団に呼びかけて、「シリアに平和は可能だ」と題して行っている和平を求めるキャンペーンに、昨年の7月5日、教皇様はビデオメッセージを寄せられ、その中で教皇様は次のように呼びかけました。

「市民の苦しみの一方で、大量の資金が武器に費やされている。・・・平和を説く国々の間には、武器を供給している国もあり、右手で人を慰めながら、左手で人を打つ人をどうして信用することができるだろうか。・・・この『いつくしみの特別聖年』に、無関心に打ち勝ち、シリアの平和を力強く唱えよう」

 この教皇様の呼びかけに、わたしたちはどのように応えたでしょうか。

 「この聖年の間に、教会はこれまでにも増してこの傷の手当てをし、慰めの油を塗り、いつくしみの包帯を巻き、連帯としかるべき気遣いをもって世話をするよう呼びかけられることになります。侮辱を与えることになる無関心、心を麻痺させて新しいことを求めさせないようにする惰性、破壊をもたらす白けた態度、そうしたものに陥らないようにしなければなりません。世界の悲惨さと、これほど多くの尊厳を奪われた兄弟姉妹の傷をよく見るために、目を開きましょう。」

日本の現実をみても、神の望まれる世界とはまったく異なる世界の価値観によって生きている人々の姿が目につきます。生命の価値をないがしろにしたり、自らの欲望の実現のために他者を犠牲にしたり、経済の利益を最優先にしてみたりりする人間の醜さが目につきます。そういった社会にあって、わたしたちは神の価値観を高く掲げ、困難に直面する人たちへ、積極的に手を差し伸べていかなくてはなりません。

いつくしみの特別聖年は終わりますが、神のいつくしみに終わりはありません。間違えていけないことは、何もわたしたちはいつくしみを掲げることで、すべての人が性格的に優しい人に変わるべきだと主張するのではありません。人の性格は様々異なっており、その違いをそのままに受けとめた上で、性格的な優しさを越えて、わたしたちすべてはまず神のいつくしみに包まれているからこそ、それを他者にも伝えていく務めがあるのだと、そういう意味でわたしたち自身が慈しみ深くあることを捉えておきたいと思います。使命です。何者も排除することなくすべてを包摂する神の愛、神のいつくしみ。わたしたちはその神のいつくしみを、教会を通じてこの社会にあかししていく道を、常に歩んでいきましょう。

Heimon1606

|

« 聖ザベリオ宣教会でお話@泉佐野 | トップページ | 「原子力発電の撤廃を」@司教団メッセージ発表 »

司教の日記」カテゴリの記事