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2016年12月25日 (日)

主の降誕、日中のミサ@新潟教会

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主の降誕の祭日の今日、午前9時半から新潟教会でミサをささげ、ミサの後にはカトリックセンターの二階ホールで、クリスマスのお祝いが開かれました。

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昨晩の8時のミサは聖堂が一杯でした。深夜ミサにも30人を超える人が参加したそうです(ラウル師司式)。今日の日中のミサも、聖堂がほぼ一杯にあるくらいの大勢の方が参加されました。今年は比較的暖かな冬になっていますし、新潟市内はまだ本格的な雪が降ってはいません。それでも今日は雨模様の肌寒いクリスマスでした。

ミサ後の祝賀会にはテーブルが一杯になるほどの多くの方が参加してくださり、英語ミサグループや青年たちの歌の披露もあって、和やかな時間を過ごすことが出来ました。

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なお12月31日の深夜、年が明けて1月1日の零時にも新年一番最初のミサが、新潟教会で行われます。わたしの司教司式ミサです。引き続いて同日、1月1日午前11時から、同じく新潟教会で新年のミサが行われます(ラウル師司式)。新しい年を、教会で迎えられてはいかがでしょう。

以下、本日のミサの説教の原稿です。

主の降誕(日中)ミサ
2016年12月25日

この数ヶ月の間、カリタスアジアやカリタスジャパンでは、戦略計画の策定という作業を続けています。

戦略計画というと何か軍事用語みたいで響きが悪いのですが、元々の英語の単語を日本語に訳そうとするとこうなってしまうので仕方がないのですが、要は、過去の振り返りに基づいてよりふさわしい将来への道筋を明らかにする作業です。戦略計画を策定した後に、それに基づいて中期的な活動計画を定めていきます。それによって、過去の失敗を繰り返さずに、さらにより良い活動が出来るようにするというものです。ビジネスの世界では普通に行われているようでもありますが、NGOなどの世界でも広く取り入れられてきました。

その作業の中で、一番最初にしなければならないのが、SWOT分析。それは計画を策定する組織における「S(強み)、W(弱み)、O(機会)、T(脅威)」を見つけ出し、そこから、組織の目的を効率よく達成するためには何が欠けているのか、より目的に近づくための優先事項は何なのかを明確にしていこうとする作業です。

教会も、御言葉を一人でも多くの人に告げ知らせることを使命として与えられた組織体であります。ですからそこには、同じように、「S(強み)、W(弱み)、O(機会)、T(脅威)」が存在し、それを分析することで、より良くその使命を果たすことが出来るようになるのではないかと思いました。

いまわたしたちが生きているこの地域での教会の福音宣教の現実を考えるとき、わたしたちにとっての「強み」、「弱み」、「機会」そして「脅威」は何でしょうか。主の降誕を祝うこの日にあたり、その出来事に思いをはせながら、思いつくことを掲げてみたいと思います。

先ほど朗読されたヨハネの福音に、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と記されていました。わたしたちが告げ知らせるよう使命を受けている神の御言葉は、人間を照らす光であり、そこにこそ命があるのです。わたしたちは、その命が、神の望まれるあり方でより良く生きられるようにと、この世界の中で神の言葉を告げ知らせていかなくてはならないのです。そういう使命が、教会には与えられています。

そして、教会にはというとき、誰かの組織ではなく、それは、イエス・キリストを信じるすべての人、すなわちわたしたち一人ひとりのことを指しているのです。わたしたち一人ひとりの使命であります。

さて、「強み」から見てみましょう。わたしたちには、かけがえのない「強み」があります。それはすべての創り主であり生命の与え主である神ご自身が、人間に対する愛のあふれとして、人となり、その罪を担い、死と復活を通して自ら示された、神の愛の力の絶対的な強さそのものであります。わたしたちには、自信をもって告げるべきメッセージがあります。自信をもって倣うべき、人生の生き方の最高の模範があります。

その夜、聖母マリアには神の言葉である御子が人として宿られている。ですからこの聖なる家族は、神ご自身を運ぶ家族であります。新しい生命の誕生を待ち望む人間の愛が、その家族を満たしています。人間の愛を通じて、神の絶対的な愛を多くの人に運んでいこう、もたらそうとする聖なる家族は、わたしたち信仰者にとって最大の強みは何であるのかを教えています。何も恐れるものがない、神の愛のあふれである御子イエスの存在そのものであります。

では、「弱み」は何でしょう。聖なる家族は、ナザレからベトレヘムまで長い旅を続けてきました。その夜、宿を求めてベトレヘムの町をさまよった聖なる家族を、多くの人々は拒絶します。神の愛そのものである言葉は、人として誕生したその瞬間から、多くの人に拒絶される存在だったのです。

わたしたちの住む日本において、キリスト者は徹底的に少数派です。そのために、わたしたちが信仰において当たり前だと思っていることは、日本社会全体の常識とはかけ離れているのかもしれません。あまりにも小さな集まりであるがために、勇気をもって福音をあかしすることを躊躇している現実が、わたしたちの弱みかもしれません。その夜の聖なる家族のように、わたしたちは、誰かに受け入れてもらえる場を求めて、闇の中をさまよっているのかもしれません。

「機会」とは何でしょう。聖家族は最終的に、彼らを受け入れてくれる人々に出会います。それは立派な宿屋ではなかったものの、少なくとも幼子を守るに十分な飼い葉桶であり、また誕生を祝うために集まった町の多くの人々なのではなく、野宿する羊飼いたちでありました。その出会いによって、場所を提供してくれた人たちに、そして羊飼いたちに、その人々の内に神を迎え入れる機会が与えられました。

そうすると、わたしたちの社会の様々な動きの中で示される、神の愛に基づいた奉仕の可能性は、わたしたちにとって大きな「機会」ではないでしょうか。

いま多くの人が迎え入れられることなく、拒絶されています。教皇様の繰り返されるシリアでの和平への呼びかけと、難民受け入れの呼びかけにもかかわらず、未だに和平は実現せず、難民の人たちへの受け入れは困難を極めています。それははるかヨーロッパだけでの問題ではなく、教皇様がしばしば指摘されるように、全世界で、「無関心と排除」の態度として拡がっています。日本も例外ではありません。

漠然としたテロなどへの恐怖感をはじめ、治安維持への不安感は、何となくわたしたちを疑心暗鬼の暗闇に引きずり込み、「排除」する姿勢へと導きます。目に見えるところで、分かっている範囲で、わたしたちは安心をしたいのです。異質なものを、普通と異なる存在を、社会は、いやわたしたち教会は、排除しようとしていないでしょうか。教皇の呼びかけるように、すべてを受け入れるいつくしみの共同体であるでしょうか。排除しないまでも、そういった異なる存在に目をつむる、「無関心」な共同体になっていないでしょうか。主ご自身を迎え入れる「機会」は、常にわたしたちの目の前にあるのです。もしかしたらわたしたちは、宿を求めてたたずむ聖なる家族の面前で、冷たく扉を閉めているのかもしれません。

最後に「脅威」。主の降誕にあって最大の脅威は、その存在を否定しようとするヘロデの存在であったかもしれません。神の愛の充満である生命、神の御言葉そのものである幼子への攻撃です。

あらためて繰り返すまでもなく、いま日本を含め世界の至る所で、生命は危機にさらされています。守られるべき生命と存在を無視される生命との格差が広がっています。まず第一に考えられるべきは生命の尊厳であるにもかかわらず、そうではない価値観が優先されています。これほどの「脅威」はありません。どのようなレベルにおいても、どのような形であっても、人間の生命は、神の似姿である限り尊厳があり、守られなくてはなりません。

主の降誕にあたり、あらためてわたしたちが、御言葉を告げる使命を勇気を持って生きることが出来るように、祈りましょう。

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