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2017年1月 5日 (木)

年頭司牧書簡2017

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年頭司牧書簡を1月1日に発表しています。新潟教区の公式ホームページにも掲載されていますが、こちらにも全文を掲載します。なお英語版はこちらのリンクに掲載されています。Link for the English translation of my New Year Pastoral Letter 2017.

二〇一七年年頭司牧書簡 「キリストの力に生かされて」

「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(二コリント十二章九節)

新潟教区の皆様、主の降誕と新年のお慶びを申し上げます。

昨年七月二十六日早朝に、神奈川県相模原市の津久井やまゆり園で、衝撃的な事件が発生しました。ご存じの通り、知的障害と共に生きている十九名の方々を殺害し、さらには二十六名の方々に傷を負わせるという出来事です。わたしたちにはその詳細を報道でしか知るすべがありませんが、しかし断片的に耳に入る様々な情報に接するたびに、大きな疑問が心の中に響き渡ります。それは、人間の生命の価値を量る権利を持っているのは誰なのかという疑問です。

暴力的に生命を奪われた方々のことを思うと、時間を経た今でも心が痛みますし、目には見えないものの、心に大きな傷を抱えた人の数も多いことだろうと推察します。またこの施設に限らず、全国、いや全世界で、犯人の言動に大きな衝撃を受けた人たちがたくさんおられたことでしょう。

犯行に及んだ元職員の青年がとった行動それ自体よりも、彼の考え方がわたしたちに大きな衝撃を与えています。自らの行為を正当化するだけにとどまらず、「重度の障害者は生きていても仕方がない。そのために金を投じるのは無駄だ。安楽死させるほうが社会のためだ」などという意味合いのことを、真剣に主張していると報じられています。その生命を軽んじた考え方は、いったいどこから生まれてきたのでしょうか。加えて犯人の青年の主張に同調するような意見を表明する人が、特にインターネットの世界で少なからず存在していることも、わたしにとっては大きな衝撃でした。

今更あらためて言うまでもなく、わたしたちキリスト教の信仰に生きる者にとって、生命の価値を量る権利は、神にしかありません。わたしたち人間にではなく、その人間に生命を与えられた神、生命の創造主である神にしかありません。

どの生命が生存して良いのか、どの生命が生存する価値があるのか。そんなことを判断する権利を神はわたしたちに与えておられません。神がこの世界を造り、わたしたちに生命を賜物として与えてくださいました。しかも神は、自らの似姿としてわたしたちの生命を創造されたと創世記に記されています。人間の生命にはすべからく、神の似姿としての大切な価値があります。わたしたちはその神の似姿としての価値を、人間の尊厳と言います。神から与えられた人間の尊厳から、その価値を奪い去る権利は、わたしたちにはありません。

教皇フランシスコは回勅『ラウダート・シ』において、「相対主義の文化は、他人を利用し、自分以外の人々を単なる操作対象として扱うように人を駆り立て、・・・児童への性的虐待や、わたしたちの利害関心に添わなくなった高齢者の遺棄を引き起こします(123)」と指摘します。その原因は、教皇によれば、「わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱され(66)」たからなのです。わたしたちは、人間の力を誇るのではなく、素直に限界を認め、「大いに喜んで自分の弱さを誇」る存在でありたいと思います。神の前に謙遜であることによってはじめて、わたしたちの弱さを通じてキリストが働かれ、それによってわたしたちは生かされることになるからです。

ただ、こういった現実を批判的に見る際に、いまひとつの側面も忘れずにいたいと思います。それは神のあわれみといつくしみの及ぶ範囲です。

教皇フランシスコは、昨年十一月二十日に閉幕した「いつくしみの特別聖年」の大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」において、「教会には、神のいつくしみを告げ知らせる使命があります(12)」と呼びかけます。神のいつくしみはもちろん、虐げられている人、困難に直面する人、悲しみにある人に向けられているのですが、同時に、神の価値観とは対極にある、異なる価値観に生きる人たちにも同じように向けられています。なぜならば、わたしたちの神は排除する神ではなく、いつくしみによってすべての人を包み込むあわれみ深い神だからです。

したがって神のいつくしみを告げ知らせる教会は、異なる価値観に生きる人たちを単に批判し排除するのではなく、共同体の絆を通じて神のいつくしみによってその人たちをも包摂する存在とならなければなりません。わたしたちは排除する教会ではなく包み込む教会でありたいと思います。そのいつくしみに満ちた包容力の中で、ともにより良い道を模索できる教会でありたいと思います。

福者高山右近に学ぶ

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殉教者である高山右近の列福が教皇様によって昨年一月二十二日に裁可され、ご存じのようにその列福式が来る二月七日(火)正午から、大阪城ホールで執り行われることになりました。列福式は教皇代理であるアマート枢機卿(列聖省長官)によって司式されます。

いまから四百年ほど前のキリシタン迫害の時代、信仰をもまりぬく道を選び、大名としての地位を奪われ、その栄誉をすべて剥奪された上に、国外追放となってマニラの地で客死していった高山右近。すべてをなげうって信仰を守りぬいた生き方が、殉教者として認められました。

その場しのぎの価値判断、今さえ良ければ後はどうでも良いとでもいわんばかりの刹那的生き方が普通になり、善悪の絶対的な価値判断はあまり顧みられなくなる相対的で流動的な現代社会にわたしたちは生きています。それに対して、あくまでも守りぬくべき真理はどんな代償を払っても捨て去ることは出来ないのだという姿勢を貫いた高山右近は、単に信仰者としてだけではなく、人間の尊厳ある生き方を示す模範として、現代社会に対しても重要な意味をもっていると思います。

一六一五年にマニラで亡くなった当時から現地での顕彰がすでに始まり、キリスト者の模範として大きな尊敬を集めていたといわれます。それから四百年が経った現在、日本においてキリスト教を取り巻く環境は大きく変わり、当時のような迫害は存在していません。大きく変化した社会状況の中で、今、人間は一体何のために生きているのかという根本的な課題に、わたしたちはふさわしい回答をもっているでしょうか。高山右近の生涯は、常に自分の側からの判断ではなく、自分が常に向かい合って生きる神の立ち位置からの判断を優先させていった生涯であったと思います。そこには今さえ良ければなどという刹那的な判断はあり得ず、神が望まれる人の生きる道を常に模索する、神の前にへりくだった姿勢があったように思います。

小教区規約の制定と地区再編

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すでに各小教区には書簡をもって検討をお願いしているところですが、二〇一八年一月末を目途に、各小教区の規約を定めていただくようにお願いいたします。

各小教区にはおおむね、それぞれの事情や歴史に応じて運営のための組織があり、組織には何らかの規約が存在しています。もちろん規模の違いがありますので、その組織や規約の内容には様々な違いがあることも当然と理解しています。なかには非常に小規模の教会のため、特に成文化された規約なしに、長年の了解事項に基づいて運営されてきた小教区もあろうかと思います。

先般、司祭評議会や教区宣教司牧評議会の場で、小教区の規約の存在やその内容が話題となり、教区事務局から調査をさせていただきました。その結果、そこには様々な規約が存在していることが判明しましたが、その多くが、いわゆる「信徒会」または「信徒使徒職協議会」(以下、一般的に「信徒会」と記します)の規約であることも判明いたしました。

もちろんそれぞれの小教区に信徒の組織として「信徒会」が設けられていることに問題はありませんし、小教区の諸活動推進役として、「信徒会」の役割には重要なものがあると思います。

しかしながら同時に、小教区が、教区司教に任命された主任司祭とそこに集う信徒によって成り立つ共同体であることを考えたとき、「信徒会」だけを持って、小教区の意志を代表すると定めることが必ずしもふさわしいことだとは考えられません。

そこで、教区で作成しすでに配布したガイドラインとモデルとなる規約に基づいて、「小教区」そのものの規約の制定をお願いしているところです。もちろんこれまでの「信徒会」規約や、または「信徒会」そのものを廃止する必要もありませんし、逆にこの際、まったく新しくはじめられても構いません。ガイドラインに記された諸事項を勘案の上、その内容をそれぞれの小教区の現実に合わせるよう適応しながら、二〇一八年一月末までに成文化された規約の作成に、ご協力ください。

もとより小教区は主任司祭の判断だけで運営されるものではなく、当然、司祭には信徒の声をよく聞き、信徒との対話のうちにより良い道を選択することが求められています。今般の規約制定は、主任司祭に対しても、独断で物事を判断するのではなく、広く信徒の意見に耳を傾けて、一緒になって小教区を運営していくことを求めるものである点も付言いたします。

また現在、新潟県内の新潟、新発田、長岡の三地区の皆さんには、二〇一七年九月末を目途に、地区再編成について意見を伺っています。自治体の合併などがあり、地区割りにも影響があると考えたからです。三地区の意見を集約した上で、ふさわしい地区割りについて判断したいと思います。
 
おわりに

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教区唯一の神学生である岡秀太さんは、神学院で一年目を過ごしています。どうぞお祈りください。またそれに続いて、司祭の道、または修道者の道を志す方があらわれることを、心から祈っています。教区の皆様には、これまでと同様、召命のためにお祈りをお願いします。

今年も四旬節の第一主日に、新潟教会において、この復活祭に洗礼を受ける予定の方々を対象にした合同洗礼志願式を執り行います。今年は三月五日の午前九時半からとなります。新潟近隣だけでなくそのほかの地区からの参加も、可能であれば、お待ちしております。

奇数年は、秋田地区と山形地区の小教区訪問の年です。御復活祭以降から二〇一八年の二月頃までの間にできる限り多くの小教区を訪問できればと思います。わたしの方で日時を指定することはしてきませんでしたので、ご希望の日程については早めに小教区で話し合い、教区事務局にご相談くださいますようにお願いいたします

それでは新しい年の初めにあたり、新潟教区の皆様に、この一年、いつくしみと愛そのものである神の豊かな導きと護りがあるように、祝福を祈ります。

二〇一七年一月一日
カトリック新潟教区 司教 タルチシオ菊地功 

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