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2017年1月28日 (土)

2月の予定など

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あっという間に数日が過ぎてしまいましたが、去る1月22日の日曜日の午後には、新潟市内におけるキリスト教一致祈祷週間の中心集会が、カトリック寺尾教会で40名近い方々の参加を得て、主任司祭である町田神父の司式で行われました。お祈りの後には場所を隣のホールに移して茶話会もあり、プロテスタントの諸教会をはじめ参加者がそれぞれ紹介されました。

以前は一致祈祷週間の間、毎晩のように集会が開催されていましたが、プロテスタント諸教会もわたしたちも信徒の方々の高齢化が進み、夜の活動が難しくなったため、現在では昼間に3回の集会が開催され、その中の一つを、中心集会としています。

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どのような形でこれからのエキュメニズムが進んでいくのか、ちょっと見当がつきませんが、現実的に考えてまったく一つの教会にまとまることは、それぞれが積み重ねてきた歴史的背景だけを考えても、難しいと思われます。そんな中で、信仰を同じくする、つまり同じ神を信じ、イエスはキリストであると宣言するわたしたちは、この国でしなければならないこと、つまり福音宣教の課題が山積している中で、違いばかりに目を向けてもいられないのではないかと思います。協力し協働できるところから、一緒に働いていくことが出来るように努力したいと思います。すべてはイエスの福音のためですから。

さて来る2月7日には、大阪城ホールを会場に、ユスト高山右近の列福式が執り行われます。キャパが大きくて天候に左右されない会場を、短い時間の中で押さえるのは至難の業で、結局平日に行わざるを得なくなりました。会場設営と撤収も含めると、前後で3日間は会場を貸し切らないといけません。列福は前触れもなく突然決まるので、会場確保は困難を極めます。1981年に聖ヨハネパウロ2世が来日されたときも、結構間近になってからの発表だったので、会場確保は困難を極めたと聞きます。ミサを行った後楽園では、サーカスの撤収が間に合わず、それが半分くらい残った中でのミサだったと聞いたことがあります。今回も、実務の手配にあたった大阪教区の方々は大変だったと想像いたします。(参考までに、大阪城ホールのスケジュールのリンクです

さて、離れた新潟からはそれほど多くの方が参加できるわけではありませんし、列福式参加巡礼も成立しませんでした。列福式はインターネットで中継されますから、是非当日はご覧ください。(こちらのリンクから、中継案内の中央協サイトへ飛びます)

また新潟教区においても列福感謝ミサを捧げます。2月10日(金)午前11時から、新潟教会において、わたしが司式して感謝ミサを行います。当日は、新潟県内近隣の司祭団も参加する予定です。どうぞおいでくださり、福者誕生をともに祝い、感謝の祈りを捧げましょう。

ところで昨年11月末に、国際カリタスの会議で教皇様に謁見する機会があったのです、そのときの写真がやっと手に入りましたので掲載しておきます。下の写真です。

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なお日本の外務省は、バチカンの国務省で対外政策を担当する国務次官を、任期中に一度、日本へ公式に招待することになっています。前任のマンベルティ大司教(現在は枢機卿)もその制度で来日されたことがありますが、今般、現在の国務次官で外務局長のギャラガー大司教が来日されます。主要紙に、来日前のインタビューが掲載され、その中でも触れられていましたが、大司教は広島を訪問する予定でもあります。

そのギャラガー大司教とカリタスジャパンを初めとする関係者とのミサが、2月1日(水)の午前10時から、東京の初台教会で捧げられます。ミサはご自由に参加いただけますので、お近くの方はどうぞおいでください。

というわけで、まもなく始まる2月の主な予定を掲載しておきます。

  • 2月1日 ギャラガー大司教とミサ (10時、初台教会)
  • 2月1日 カリタスジャパン会議 (潮見)
  • 2月2日 常任司教委員会 (潮見)
  • 2月2日 神学院ミサ (東京キャンパス)
  • 2月6日~8日 高山右近の列福式ほか (大阪)
  • 2月10日 高山右近列福感謝ミサ (11時、新潟教会)
  • 2月12日 新津教会堅信式 (新潟市)
  • 2月13日 聖母学園理事会ほか (司教館)
  • 2月14日 カリタスジャパン会議 (潮見)
  • 2月17日 仙台教区サポート会議 (仙台)
  • 2月19日 新発田教会堅信式 (新潟県新発田市)
  • 2月20日~24日 定例司教総会 (潮見)
  • 2月26日 青山教会堅信式 (新潟市)
  • 2月27日 月曜会ミサ (11時、新潟教会)
  • なお3月1日は灰の水曜日ですが、当日が秋田聖霊高校の卒業式のため、ミサは聖体奉仕会で捧げる予定です。

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2017年1月21日 (土)

カリタスアジア中期計画発表@バンコク

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この数日、大雪になって寒さの厳しい新潟から、日中は気温が30度を超えるタイのバンコクへ、カリタスアジアの会議のために四日ほど出かけてきました。この季節の日本から熱帯地域への移動は、着るものをどうするかも含めて、荷造りが結構面倒です。

私が現在二期目の責任者を務めているカリタスアジアでは、昨年6月の地域総会で決議して以来、中期計画(戦略計画=Strategic Plan)の策定に取り組んできました。

カリタスアジアではこれまでにも同様の計画を策定してきましたが、その作業は一部の人だけが参加する委員会などで行われてきたため、メンバー全員が自分自身の計画だという意識を持つことが出来ていませんでした。(いわゆる計画のOwnership=当事者意識を持つことです)

そこで今回はなるべくカリタスアジアの多くの人が参加して策定できるようにと、アジアの四つの地域別の研修会を開催するなどして、できる限り広く意見を吸い上げて策定にあたりました。私も昨年は、そのうちの二つ、中央アジア地域の研修でキルギスに、また南アジアの研修でネパールに出かけ、研修会に参加して、様々な意見に接することが出来ました。また各地域社会におけるカリタスにとっての様々な課題も目の当たりにすることが出来ました。

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2017年から2020年までのカリタスアジアの中期計画は、1月19日にバンコクで開催された地域委員会(理事会)で承認され、そのお披露目が、1月20日にバンコクのホテルで行われました。

お披露目と言うよりも、なるべく多くの関係者に集まってもらって、策定されたばかりの中期計画について意見やアイディアをいただき、それに基づいて今度は3月の地域委員会までに活動計画を策定し、この中期計画と活動計画を6月に開催される地域総会に提出するというタイムスケジュールです。

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20日の集まりには、アジアの24のカリタスメンバーのうち13のカリタスから代表が参加し、それに国際カリタスの事務局や欧米のパートナーとなるカリタスの代表など、全部で33名が参加し、小グループでの話し合いを含めて丸一日かけての意見交換を行いました。(参加したのは、バングラデシュ、シンガポール、インド、インドネシア、ネパール、マカオ、ミャンマー、パキスタン、スリランカ、キルギス、タジキスタン、台湾、ベトナム。アジア以外では、国際カリタス、ベルギー、ドイツ、スペイン、米国)

カリタスアジアという存在は、アジアの各国にあるメンバーカリタスの活動を調整したり、協力関係構築に取り組んだり、全体のために研修を行ったり、複数国で取り組むプログラムのための資金調達をしたりすることであり、カリタスアジア自体が活動団体として何かのプログラムを直接行うわけではありません。

今回の計画策定で、特にこれからの4年間、緊急災害への取り組みや備えを重点的に強化し、また、貧しい人を優先し、排除することなく包括的でありながら、文化の多様性と人間の尊厳、そして総合的人間開発の視点を尊重しながら、メンバーのネットワーク強化を率先し、また積極的に政策提言を行っていくことを中期的な目標として掲げました。

目標達成のために優先項目として次の6項目を掲げています。

  • 1:緊急災害への対応と災害リスク軽減(DRR)、
  • 2:安全な人の移動(移住移民)と反人身売買、
  • 3:環境正義と気候変動への対応、
  • 4:組織の強化と育成、
  • 5:霊的養成と宗教間対話、
  • 6:政策提言と広報。

中期計画(戦略計画)策定のために多大な時間を割いてくださった、バングラデシュのドクター・アロ・デロザリオ氏はじめ10名の方々、その中でも特に、各地での研修会を指導して下り、計画策定に深く関わったコンサルタントのフランク・デ・カイレス氏に感謝します。

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今週は18日からキリスト教一致祈祷週間中です。明日の日曜日は午後2時から、新潟市内のキリスト教諸派の一致祈祷の中心集会が行われます。会場はカトリック寺尾教会。私も参加します。多くの方の参加をお待ちいたしております。

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2017年1月15日 (日)

大雪の中、三条教会へ

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この冬一番の寒気が押しよせたこの週末、新潟市内でも大雪となりました。

新潟と言えば、即座に「雪国」とか「大雪」などと想像されることでしょうが、沿岸部にある新潟市中心部は、ほとんど雪が降らないのです。この数日の雪が、この冬初めて本格的に積もった雪となりました。

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とりわけ昨日の土曜日は大荒れ。あれよあれよという間に雪が積もり、新潟教会の敷地から車が出せなくなるのではと心配するほどでした。司教館の玄関先には大きなつららまで出現。大学入試の受験生の方々は、昨日は本当に大変なことだったでしょう。

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そして今日の日曜日。天気予報では雪でしたが、降雪はなく、無事に車で出発。朝も早かったので道路はほとんど凍結状態でした。新潟西インターチェンジから三条燕インターチェンジまで、北陸自動車道を利用。それなりに除雪がしてありますが、それでも雪が残り、すさまじい乗り心地。車は道中ずーっと、小刻みに揺れていました。普段なら30分もすれば走り抜ける30キロほどの距離を、一時間かけてゆっくりと。この短い距離の間で、凍結が原因と思われる単独事故が二カ所も。

三条市内の主な道路には融雪パイプがあるので、それなりに雪も溶けていましたので、無事教会に到着。主任司祭の石黒神父の出迎えを受けました。

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ミサは午前9時半からです。ミサ前には信徒の方が、教会玄関前を雪かきに。幸いに三条市周辺は、明るい太陽の光も差して、素晴らしい天気になりました。

今日のミサでは、おひとりの方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

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今日の第一の朗読、イザヤ書に、「あなたによって私の輝きは現れる」という言葉がありました。神の輝き、すなわち神の存在そのものは、神がご自分の僕とされた人々を通じて表されるということでしょう。ちょうどヨハネの福音で、洗礼者ヨハネは近づいてこられたイエスをみて、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と宣言しますが、同じように、神がご自分の僕とされた人々は、自分の存在を通じて、いったい神はどんな存在であるのかを他の人々が見てとれるような生き方をしたいものだと思います。そして神が僕とされた人々とは、それはイエスを信じて付き従おうとしているキリスト者すべてのことではないでしょうか。

わたしたちには、その存在を通じて、神は一体どのような方であるのかを現す責務が与えられているのだと思います。そしてその責務は、わたしたちの毎日の言葉と行いを通じて果たされていくのではないでしょうか。言葉を慎み、行いを常に振り返ることで、果たしてわたしたちの存在が、言葉と行いが、神の存在を現すものとなっているのか、はたまたそれを否定するものとなっているのか、振り返ることを心がけたいと思います。

ミサ後には、残ってくださった方々と一緒にお昼をいただき、新潟へ戻りました。三条はあれほど天気が良かったのですが、新潟市内はまだ雪模様でした。

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2017年1月11日 (水)

司牧訪問の予定(Update)@お知らせ

新潟教区内へのお知らせです。

先日お知らせした2017年の司牧訪問の予定ですが、それ以降いくつかの追加がありました。以下に一覧を掲載します。写真をクリックすると拡大します。

徐々にあいている日曜日が少なくなりつつあります。

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2017年1月 9日 (月)

降誕節が終わります@主の洗礼

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日本をはじめ多くの国では、1月6日の「主の公現」はその直後に日曜に祝われています。「主の公現」が固定されている場合、昨日の日曜日が「主の洗礼」でしたが、日本をはじめ多くの国ではその翌日となる今日の月曜日が「主の洗礼」の祝日となり、同時に降誕節の終わりでもあります。明日の火曜日は、「年間第一火曜日」で、典礼の「年間」は灰の水曜日まで続きます。

日本では今日が成人の日でもありました。20歳を迎えられた多くの皆さん、おめでとうございます。大人としてのこれからの人生に、神の豊かな祝福があるようにお祈り申し上げます。

さて主の洗礼の祝日の今年の朗読は、マタイ福音書でした。ヨルダン川で洗礼を授けていたヨハネのもとへイエスが、同じように洗礼を受けようとして訪ねてくる話です。(写真上は、昨年末のヨルダン川の洗礼所。中心が国境で、川の向こうはヨルダン)

もちろん洗礼者ヨハネにとっては、深く自覚する自らの存在意義は、そのイエスの到来を告げ道を整えることであったのです。ですから、自分がイエスに対して何かをするようなものではないという深い自覚があったことでしょう。当然のように、イエスのそのリクエストを断ろうとします。「先生、どう考えても常識的に、それは逆でしょう」という当然の反応です。

それに対してイエスの答えは「いまは止めないでほしい」と告げた後に、こう加えるのです。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」

「正しいこと」って、いったいどういうことでしょうか。それは、神の目において義とされることです。イエスの公生活の始まりに告げられたこの言葉に、イエスの存在のすべてが、イエスが何者であるのかが明確に示されています。

すなわち、イエスの存在は、人間がこの世界で当たり前だと思うこと、常識だと思うことに、真正面から挑戦するのです。それは本当に「正しいこと」なのか、と。本当に「正しいこと」は、すなわち神の目において義であることであって、それは人間の常識に基づいて定められるのではなく、時に人間の常識とは正反対のこともあり得ると言うことを明確に示しています。神の目において義とされることが何であるのか、わたしたちには常に霊的な識別を続けることが求められていると感じます。当たり前のように人間的常識に従って物事を判断する前に、じっくりと祈りのうちに霊的な識別をすることは、わたしたちキリスト者にとって不可欠なことであると思います。そして時に霊的識別は、常識とは異なる結論を導き出すこともあるのです。(下の写真はエインカレムの洗礼者ヨハネ誕生の教会)

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さて昨年末12月に開催された司教総会のにおいて、日本の司教団は、いくつかのことを決議しました。2001年に当時の司教団が発表した「いのちへのまなざし」について、すでに15年以上も経過したことから、新しい状況に合わせて改定することが決まっていましたが、今回の総会で、増補新版の内容が承認され、近く出版されることになりました。

人間のいのちの問題は、現代社会にあってその始まりから終わりまで、様々な課題に直面しており、わたしたち神からいのちを賜物として与えられた人間にとって、最重要な課題です。その意味で、この出版には大きな意味があるものです。

これに加えて司教団は、2011年3月以降いまに至るまで継続している東日本大震災の復興支援活動を、震災発生10年にあたる2021年の3月末まで、全国の教会をあげて継続することも決議しました。すでに以前の司教総会で、2017年3月までの継続は決まっていましたが、今回はそれを、さらに2021年まで延長したものです。もちろんカリタスジャパンが、国内外の募金に基づき、世界のカリタスと協力しながら、活動の支援を行います。

教会による復興支援活動は岩手県と宮城県でも継続されていますが、特に福島県での支援活動にさらに取り組む必要性を皆が感じています。その一つのあかしとして、昨年末には南相馬市の原町地区で、これまで原町ベースとして活動を続けていたものを、カリタス南相馬として新たに出発させることになりました。主に東京教区が中心になるこの活動は、原町教会の敷地内に新しい拠点を建設したことで、さらに充実するでしょうし、目に見える形で、教会が復興支援に長期的に取り組む姿勢をあかししています。カリタス南相馬のFacebookページがありますので、検索してご覧ください。

東北の被災地はゆっくりではありますが、少しずつ復興に向けて歩んでいます。私も昨年末、宮古教会に待降節黙想会で出かけ、その後海岸沿いに山田や大槌を通りながら釜石に向かって、そこでもミサを捧げる機会に恵まれました。少なくとも、少しずつですが、前進していることを感じました。でも教会は、福島県内で復興支援や様々な形で避難されている方々の支援に取り組む中で、なかなか先が見通せない歩みの遅さを実感させられてきました。

そこには様々な要因が複雑に関わっているのは間違いがありませんから、何か一つが解決すれば、さっさとすべてがうまくいく、などというものではないことも十分理解しています。それでも、目に見える影響と目に見えない影響が複雑に交わる原発事故の被害には、すさまじいものを感じてきました。それは科学者や専門家が、数字を持って証明したからといって、即座に解決することの出来ない、心の問題です。目に見えにくい災害である原発事故は、それが目に見えないがために、すさまじいまでの「目に見えない」被害を巻き起こしていることを感じてきました。原子力発電所の事故というものは、単に数字だけで量ることの出来ない大きな被害を、多くの人に深く刻みつけるものだということを、実感させられてきました。それが、原発事故なのだと思います。

そのような福島の地で復興支援に携わってきた教会として、やはり昨年11月11日に発表した「原子力発電の撤廃を -福島原子力発電所事故から5年半後の日本カトリック教会からの提言-」というメッセージは、やはり事故から5年以上が経過したからこそ、あらためて発表せざるを得ないものであったと思います。(メッセージのリンク)

原子力発電に頼ることはすでに規定の路線として、当たり前であることが常識になりつつあるいま、それに抗うようなメッセージは常識外れと思われることでしょう。メッセージの中に次の一文があります。

「こうした状況を克服するため、人間は神の似姿として、共通善にかなった自然との正しいかかわりへと立ち戻らなければならないと、わたしたちは考えます。人間は本来、自分自身との関係、他者との関係、大地(自然環境)との関係、そして神との関係において調和があってこそ、平和で幸福に生きることができるのです」

これは教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」の考えにしたがったものです。将来の世代への責任だけでなく、神から創造されたものとしての限界をわきまえる存在として、神の目において何が正しいのか、霊的な識別を行ったと考えています。

このメッセージは、その前に出版された、専門家数名によって執筆された、「いまこそ原発の廃止を」という書籍を前提にして作成されていますので、できる限り、科学的知見に正しく準拠することを念頭に書かれました。(本の紹介リンク)。しかしメッセージの核心は、科学的にみてどうだからと言うことではなく、神の前でわたしたちはどうあるべきかという点に集約されています。信仰を前提としたメッセージでもあります。

また、復興支援の現場の体験に基づいた思いを、世界の他の国々の教会とも分かち合いたいという願いも、今回のメッセージに込められた思いでもあります。地震の被害に遭遇することの少ない欧米の国々では、温暖化対策の切り札として原子力発電を肯定的に考える方々が多くおられます。当然のことなのだと思います。教会指導者の多くも同じように考えておられます。そういった方々に、今後、日本の教会としての体験に基づいた考えを、積極的に伝えていく術を、現在模索中です。

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2017年1月 5日 (木)

年頭司牧書簡2017

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年頭司牧書簡を1月1日に発表しています。新潟教区の公式ホームページにも掲載されていますが、こちらにも全文を掲載します。なお英語版はこちらのリンクに掲載されています。Link for the English translation of my New Year Pastoral Letter 2017.

二〇一七年年頭司牧書簡 「キリストの力に生かされて」

「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(二コリント十二章九節)

新潟教区の皆様、主の降誕と新年のお慶びを申し上げます。

昨年七月二十六日早朝に、神奈川県相模原市の津久井やまゆり園で、衝撃的な事件が発生しました。ご存じの通り、知的障害と共に生きている十九名の方々を殺害し、さらには二十六名の方々に傷を負わせるという出来事です。わたしたちにはその詳細を報道でしか知るすべがありませんが、しかし断片的に耳に入る様々な情報に接するたびに、大きな疑問が心の中に響き渡ります。それは、人間の生命の価値を量る権利を持っているのは誰なのかという疑問です。

暴力的に生命を奪われた方々のことを思うと、時間を経た今でも心が痛みますし、目には見えないものの、心に大きな傷を抱えた人の数も多いことだろうと推察します。またこの施設に限らず、全国、いや全世界で、犯人の言動に大きな衝撃を受けた人たちがたくさんおられたことでしょう。

犯行に及んだ元職員の青年がとった行動それ自体よりも、彼の考え方がわたしたちに大きな衝撃を与えています。自らの行為を正当化するだけにとどまらず、「重度の障害者は生きていても仕方がない。そのために金を投じるのは無駄だ。安楽死させるほうが社会のためだ」などという意味合いのことを、真剣に主張していると報じられています。その生命を軽んじた考え方は、いったいどこから生まれてきたのでしょうか。加えて犯人の青年の主張に同調するような意見を表明する人が、特にインターネットの世界で少なからず存在していることも、わたしにとっては大きな衝撃でした。

今更あらためて言うまでもなく、わたしたちキリスト教の信仰に生きる者にとって、生命の価値を量る権利は、神にしかありません。わたしたち人間にではなく、その人間に生命を与えられた神、生命の創造主である神にしかありません。

どの生命が生存して良いのか、どの生命が生存する価値があるのか。そんなことを判断する権利を神はわたしたちに与えておられません。神がこの世界を造り、わたしたちに生命を賜物として与えてくださいました。しかも神は、自らの似姿としてわたしたちの生命を創造されたと創世記に記されています。人間の生命にはすべからく、神の似姿としての大切な価値があります。わたしたちはその神の似姿としての価値を、人間の尊厳と言います。神から与えられた人間の尊厳から、その価値を奪い去る権利は、わたしたちにはありません。

教皇フランシスコは回勅『ラウダート・シ』において、「相対主義の文化は、他人を利用し、自分以外の人々を単なる操作対象として扱うように人を駆り立て、・・・児童への性的虐待や、わたしたちの利害関心に添わなくなった高齢者の遺棄を引き起こします(123)」と指摘します。その原因は、教皇によれば、「わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱され(66)」たからなのです。わたしたちは、人間の力を誇るのではなく、素直に限界を認め、「大いに喜んで自分の弱さを誇」る存在でありたいと思います。神の前に謙遜であることによってはじめて、わたしたちの弱さを通じてキリストが働かれ、それによってわたしたちは生かされることになるからです。

ただ、こういった現実を批判的に見る際に、いまひとつの側面も忘れずにいたいと思います。それは神のあわれみといつくしみの及ぶ範囲です。

教皇フランシスコは、昨年十一月二十日に閉幕した「いつくしみの特別聖年」の大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」において、「教会には、神のいつくしみを告げ知らせる使命があります(12)」と呼びかけます。神のいつくしみはもちろん、虐げられている人、困難に直面する人、悲しみにある人に向けられているのですが、同時に、神の価値観とは対極にある、異なる価値観に生きる人たちにも同じように向けられています。なぜならば、わたしたちの神は排除する神ではなく、いつくしみによってすべての人を包み込むあわれみ深い神だからです。

したがって神のいつくしみを告げ知らせる教会は、異なる価値観に生きる人たちを単に批判し排除するのではなく、共同体の絆を通じて神のいつくしみによってその人たちをも包摂する存在とならなければなりません。わたしたちは排除する教会ではなく包み込む教会でありたいと思います。そのいつくしみに満ちた包容力の中で、ともにより良い道を模索できる教会でありたいと思います。

福者高山右近に学ぶ

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殉教者である高山右近の列福が教皇様によって昨年一月二十二日に裁可され、ご存じのようにその列福式が来る二月七日(火)正午から、大阪城ホールで執り行われることになりました。列福式は教皇代理であるアマート枢機卿(列聖省長官)によって司式されます。

いまから四百年ほど前のキリシタン迫害の時代、信仰をもまりぬく道を選び、大名としての地位を奪われ、その栄誉をすべて剥奪された上に、国外追放となってマニラの地で客死していった高山右近。すべてをなげうって信仰を守りぬいた生き方が、殉教者として認められました。

その場しのぎの価値判断、今さえ良ければ後はどうでも良いとでもいわんばかりの刹那的生き方が普通になり、善悪の絶対的な価値判断はあまり顧みられなくなる相対的で流動的な現代社会にわたしたちは生きています。それに対して、あくまでも守りぬくべき真理はどんな代償を払っても捨て去ることは出来ないのだという姿勢を貫いた高山右近は、単に信仰者としてだけではなく、人間の尊厳ある生き方を示す模範として、現代社会に対しても重要な意味をもっていると思います。

一六一五年にマニラで亡くなった当時から現地での顕彰がすでに始まり、キリスト者の模範として大きな尊敬を集めていたといわれます。それから四百年が経った現在、日本においてキリスト教を取り巻く環境は大きく変わり、当時のような迫害は存在していません。大きく変化した社会状況の中で、今、人間は一体何のために生きているのかという根本的な課題に、わたしたちはふさわしい回答をもっているでしょうか。高山右近の生涯は、常に自分の側からの判断ではなく、自分が常に向かい合って生きる神の立ち位置からの判断を優先させていった生涯であったと思います。そこには今さえ良ければなどという刹那的な判断はあり得ず、神が望まれる人の生きる道を常に模索する、神の前にへりくだった姿勢があったように思います。

小教区規約の制定と地区再編

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すでに各小教区には書簡をもって検討をお願いしているところですが、二〇一八年一月末を目途に、各小教区の規約を定めていただくようにお願いいたします。

各小教区にはおおむね、それぞれの事情や歴史に応じて運営のための組織があり、組織には何らかの規約が存在しています。もちろん規模の違いがありますので、その組織や規約の内容には様々な違いがあることも当然と理解しています。なかには非常に小規模の教会のため、特に成文化された規約なしに、長年の了解事項に基づいて運営されてきた小教区もあろうかと思います。

先般、司祭評議会や教区宣教司牧評議会の場で、小教区の規約の存在やその内容が話題となり、教区事務局から調査をさせていただきました。その結果、そこには様々な規約が存在していることが判明しましたが、その多くが、いわゆる「信徒会」または「信徒使徒職協議会」(以下、一般的に「信徒会」と記します)の規約であることも判明いたしました。

もちろんそれぞれの小教区に信徒の組織として「信徒会」が設けられていることに問題はありませんし、小教区の諸活動推進役として、「信徒会」の役割には重要なものがあると思います。

しかしながら同時に、小教区が、教区司教に任命された主任司祭とそこに集う信徒によって成り立つ共同体であることを考えたとき、「信徒会」だけを持って、小教区の意志を代表すると定めることが必ずしもふさわしいことだとは考えられません。

そこで、教区で作成しすでに配布したガイドラインとモデルとなる規約に基づいて、「小教区」そのものの規約の制定をお願いしているところです。もちろんこれまでの「信徒会」規約や、または「信徒会」そのものを廃止する必要もありませんし、逆にこの際、まったく新しくはじめられても構いません。ガイドラインに記された諸事項を勘案の上、その内容をそれぞれの小教区の現実に合わせるよう適応しながら、二〇一八年一月末までに成文化された規約の作成に、ご協力ください。

もとより小教区は主任司祭の判断だけで運営されるものではなく、当然、司祭には信徒の声をよく聞き、信徒との対話のうちにより良い道を選択することが求められています。今般の規約制定は、主任司祭に対しても、独断で物事を判断するのではなく、広く信徒の意見に耳を傾けて、一緒になって小教区を運営していくことを求めるものである点も付言いたします。

また現在、新潟県内の新潟、新発田、長岡の三地区の皆さんには、二〇一七年九月末を目途に、地区再編成について意見を伺っています。自治体の合併などがあり、地区割りにも影響があると考えたからです。三地区の意見を集約した上で、ふさわしい地区割りについて判断したいと思います。
 
おわりに

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教区唯一の神学生である岡秀太さんは、神学院で一年目を過ごしています。どうぞお祈りください。またそれに続いて、司祭の道、または修道者の道を志す方があらわれることを、心から祈っています。教区の皆様には、これまでと同様、召命のためにお祈りをお願いします。

今年も四旬節の第一主日に、新潟教会において、この復活祭に洗礼を受ける予定の方々を対象にした合同洗礼志願式を執り行います。今年は三月五日の午前九時半からとなります。新潟近隣だけでなくそのほかの地区からの参加も、可能であれば、お待ちしております。

奇数年は、秋田地区と山形地区の小教区訪問の年です。御復活祭以降から二〇一八年の二月頃までの間にできる限り多くの小教区を訪問できればと思います。わたしの方で日時を指定することはしてきませんでしたので、ご希望の日程については早めに小教区で話し合い、教区事務局にご相談くださいますようにお願いいたします

それでは新しい年の初めにあたり、新潟教区の皆様に、この一年、いつくしみと愛そのものである神の豊かな導きと護りがあるように、祝福を祈ります。

二〇一七年一月一日
カトリック新潟教区 司教 タルチシオ菊地功 

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2017年1月 1日 (日)

あけましておめでとうございます

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みなさま、新年あけましておめでとうございます。

2017年がみなさまにとって素晴らしい平和な年となりますように、お祈りいたします。新しい年にあっても、昨年同様、みなさまのお祈りをお願い申し上げます。

さて年が明ける深夜零時、新潟教会では一年の一番最初のミサが捧げられました。毎年わたしが司式しています。毎年ある程度の方々が参加してくださっていますが、今年は小雨の降る中、40名を超える方がミサに参加し、2017年の上に神様の祝福と護りがあるように祈りを共にしました。

毎年、大晦日の深夜には、司教ミサが新潟教会であります。駐車場も十分にありますから、来年はみなさま是非ご参加ください。

元日は、深夜ミサ以外にも、午前11時からミサがありました。こちらは主任のラウル神父司式。ミサ後にカトリックセンターで、新年の挨拶の会がありました。たくさんの方に参加していただき感謝します。新潟のあたりは小雨模様が続いていますが、お昼頃には日も差す、穏やかな元日でした。(なお、上の写真は、新潟教会のある少年が描いてくれた、私の絵を転用しました)

以下、新年最初のミサの説教の原稿を掲載します。

世界平和の日(神の母聖マリア)
2017年1月1日

新年明けましておめでとうございます。

 「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」
 主イエスの降誕を祝う教会は、その出来事から一週間目にあたる今日を、神の母聖マリアの祝日と定めています。

 天使ガブリエルによるお告げの出来事に始まって、ベトレヘムへの旅路、そして宿すら見つからない中での出産。天使たちがほめたたえる中で、新しい生命の誕生を祝うために真っ先に駆けつけた貧しい羊飼いたち。聖書の記述は、さらりとしたものですが、実際にはどんな風であったのか、想像するまでもなく、マリアにとっては大きな混乱の極みであったことでしょう。

 人類の救い主の母となることを告げられたそのときから、また神の御言葉を胎内に宿したそのときから、さらに神のひとり子の母となったそのときから、マリアの心は様々に乱れ悩んだことだと思います。しかしルカ福音は、マリアがその出来事に踊らされ悩み、恐れることはなく、すべてを心に納めて、その出来事によって神が望まれることは何なのかを思い巡らし続けていたと伝えます。

 教皇フランシスコは使徒的勧告「福音の喜び」において、教会の社会に関する教えに基づいて正義と平和を構築するにあたっての四つの原理を提示されています。
 一つ目は「時は空間に勝る」、二つ目が「一致は対立に勝る」、三つ目が「現実は理念に勝る」、そして四つ目が「全体は部分に勝る」。そういう四つの原理です。
 聖母マリアが神のひとり子の誕生という一連の出来事に遭遇したときにとった態度は、まさしく「時は空間に勝る」という原則にしたがったものであったと私は思います。

 わたしたちが生きている空間は、いまの一瞬によって成り立っており、その積み重ねが時の流れとなります。多くの場合、わたしたちは時の流れを見通すことが出来ないために、いまの一瞬の出来事に捕らわれて、興奮し、踊らされ、判断を急ぎ、行動しようとします。特にその瞬間に起こっている出来事が非日常的であればあるほど興奮は高まり、より早く結論を導き出そうと急ぐのです。そうした場合、時間が経過して落ち着いてから振り返って見ると、なぜそのような性急な判断をくだしてしまったのかと反省することもしばしばあり得ます。

 そういった人間の性急さを求める心に対して、教皇は「時」を重視するように諭します。「時」は、時間の流れの積み重ねとしての時、つまりゆっくりと時間をかけて吟味することでもあり、同時に聖書が語る「時」の意味、すなわち神が望まれる秩序に応じて何かが成し遂げられるその時も意味しています。

 聖母マリアが、人類にとってまさしく最高のサプライズである救い主の母となるという出来事に遭遇したときに選択した道は、困惑と恐れの中で取り乱すことではなく、まさしく「時は空間に勝る」という原理に基づく生き方、すなわち時間をかけて神の「時」を待ち続ける姿勢でした。

 聖母マリアはその意味で、わたしたちへの生き方の模範であり、同時に正義と平和を構築する原理の一つにしたがっているのですから、神の望まれる平和を実現される生き方の模範でもあります。

 教会は、新年の第一日目を、世界平和の日とも定めています。2017年1月1日の世界平和の日にあたって、教皇フランシスコはメッセージを発表されています。このメッセージは教皇パウロ6世が出された最初のメッセージから数えて50回目となる記念すべきメッセージです。

 教皇フランシスコはこの記念すべき50回目の平和メッセージのテーマに、「非暴力、平和を実現するための政治体制」を選ばれました。
 これまでも歴史の中で宗教者から何度も繰り返されてきた「非暴力」への呼びかけは、現実主義者たちの前には夢物語にしか感じられないのかもしれません。徹底的な非暴力では、ただ自分たちが敗れ去るばかりで何も変える力はないというのが、現実主義者の声なのかもしれません。

 しかしそういった批判をすべて踏まえた上で教皇フランシスコは、あえて「非暴力」の重要性を問いかけています。それはまさしく、即座の解決や起こっている出来事への対応に右往左往して性急な判断を繰り返す世界に対して、「時は空間に勝る」ことを、あらためて強調するために他なりません。

 教皇は、「人と人とのかかわり、社会における関係、さらには国際的な関係において、愛と非暴力に基づく交わりが行われますように。暴力の犠牲者が報復という誘惑に耐えるとき、その人は非暴力に基づく平和構築のもっとも確かな担い手になります」と呼びかけます。
 その上で、「今、イエスの真の弟子であることは、非暴力というイエスの提案を受け入れることでもあります」と述べられます。それどころか、教皇ベネディクト16世の言葉を引用しながら、こう主張されています。「キリスト信者にとって非暴力は単なる戦術的な行動ではなく、人格のあり方だということが分かります。それは神の愛とその力を確信する人の態度です」

 キリスト者は、何かを勝ち得るために非暴力という戦術をとるのではなく、キリスト者として生きる限り当然の生きる姿勢として、非暴力に生きなければならない。その意味で、積極的な非暴力は、キリスト者の生き方そのものであると、教皇は指摘されています。

 さて、非暴力を主張するとき、わたしたちは社会の中に吹き荒れる暴力の嵐に敏感にならざるを得ません。わたしたち一人ひとりに神から与えられた賜物である「いのち」の尊厳を考えるとき、わたしたちはその尊厳を打ち砕こうとする吹き荒れる暴力の嵐を、世界の至る所で目の当たりにしています。人間の仕業である戦争や、さまざまな武力紛争、頻発するテロ事件、社会における暴力行為、弱い立場の人への迫害、家庭内における暴力、生命の価値の軽視、理由のない生命への攻撃。あまりにも多くの暴力的行為が、この世界を支配しています。

 こういった生命への攻撃に対してわたしたちは、それは神の望みに反しているのだと毅然と告げなければなりません。暴力はこの世界に起こる様々な問題への解決策ではないことを、毅然として告げなくてはなりません。

 今わたしたちは、例えばテロの脅威にさらされて、いつ何時どこで何が起こるのかわからないという不安に包まれた社会で生きているのかもしれません。または、少子高齢化の激しく進む中で、困難な未来が待ち受けているのではないだろうかという、将来に対する見通しがつかない漠然とした不安の中で生きているのかもしれません。誰かがそこからか襲ってくるという、根拠の希薄な不安の中で生きているのかもしれません。

 不安に包み込まれると私たちは、当然のように安心を求めようとします。しかしどうあがいても明るい希望を見いだすことが出来ない現実の中で、どうやって安心を得るのか。一番簡単な方法は、遠く先まで見通すことをあきらめて、見える世界を狭めて、自分の周りしか見ないことかもしれません。自分の周りの小さな範囲のことであれば、何とか見通しがつき、安心することが出来る。だから、不安に包まれるほどに人は、自分の身を守ろうとするがあまり、利己的な生き方を選択してしまうのではないでしょうか。
 あらためて教皇フランシスコの示す「時は空間に勝る」という原則を、心に留めて、新しい年を生きていきたいと思います。

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