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2017年1月 9日 (月)

降誕節が終わります@主の洗礼

Holyland1601

日本をはじめ多くの国では、1月6日の「主の公現」はその直後に日曜に祝われています。「主の公現」が固定されている場合、昨日の日曜日が「主の洗礼」でしたが、日本をはじめ多くの国ではその翌日となる今日の月曜日が「主の洗礼」の祝日となり、同時に降誕節の終わりでもあります。明日の火曜日は、「年間第一火曜日」で、典礼の「年間」は灰の水曜日まで続きます。

日本では今日が成人の日でもありました。20歳を迎えられた多くの皆さん、おめでとうございます。大人としてのこれからの人生に、神の豊かな祝福があるようにお祈り申し上げます。

さて主の洗礼の祝日の今年の朗読は、マタイ福音書でした。ヨルダン川で洗礼を授けていたヨハネのもとへイエスが、同じように洗礼を受けようとして訪ねてくる話です。(写真上は、昨年末のヨルダン川の洗礼所。中心が国境で、川の向こうはヨルダン)

もちろん洗礼者ヨハネにとっては、深く自覚する自らの存在意義は、そのイエスの到来を告げ道を整えることであったのです。ですから、自分がイエスに対して何かをするようなものではないという深い自覚があったことでしょう。当然のように、イエスのそのリクエストを断ろうとします。「先生、どう考えても常識的に、それは逆でしょう」という当然の反応です。

それに対してイエスの答えは「いまは止めないでほしい」と告げた後に、こう加えるのです。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」

「正しいこと」って、いったいどういうことでしょうか。それは、神の目において義とされることです。イエスの公生活の始まりに告げられたこの言葉に、イエスの存在のすべてが、イエスが何者であるのかが明確に示されています。

すなわち、イエスの存在は、人間がこの世界で当たり前だと思うこと、常識だと思うことに、真正面から挑戦するのです。それは本当に「正しいこと」なのか、と。本当に「正しいこと」は、すなわち神の目において義であることであって、それは人間の常識に基づいて定められるのではなく、時に人間の常識とは正反対のこともあり得ると言うことを明確に示しています。神の目において義とされることが何であるのか、わたしたちには常に霊的な識別を続けることが求められていると感じます。当たり前のように人間的常識に従って物事を判断する前に、じっくりと祈りのうちに霊的な識別をすることは、わたしたちキリスト者にとって不可欠なことであると思います。そして時に霊的識別は、常識とは異なる結論を導き出すこともあるのです。(下の写真はエインカレムの洗礼者ヨハネ誕生の教会)

John1601

さて昨年末12月に開催された司教総会のにおいて、日本の司教団は、いくつかのことを決議しました。2001年に当時の司教団が発表した「いのちへのまなざし」について、すでに15年以上も経過したことから、新しい状況に合わせて改定することが決まっていましたが、今回の総会で、増補新版の内容が承認され、近く出版されることになりました。

人間のいのちの問題は、現代社会にあってその始まりから終わりまで、様々な課題に直面しており、わたしたち神からいのちを賜物として与えられた人間にとって、最重要な課題です。その意味で、この出版には大きな意味があるものです。

これに加えて司教団は、2011年3月以降いまに至るまで継続している東日本大震災の復興支援活動を、震災発生10年にあたる2021年の3月末まで、全国の教会をあげて継続することも決議しました。すでに以前の司教総会で、2017年3月までの継続は決まっていましたが、今回はそれを、さらに2021年まで延長したものです。もちろんカリタスジャパンが、国内外の募金に基づき、世界のカリタスと協力しながら、活動の支援を行います。

教会による復興支援活動は岩手県と宮城県でも継続されていますが、特に福島県での支援活動にさらに取り組む必要性を皆が感じています。その一つのあかしとして、昨年末には南相馬市の原町地区で、これまで原町ベースとして活動を続けていたものを、カリタス南相馬として新たに出発させることになりました。主に東京教区が中心になるこの活動は、原町教会の敷地内に新しい拠点を建設したことで、さらに充実するでしょうし、目に見える形で、教会が復興支援に長期的に取り組む姿勢をあかししています。カリタス南相馬のFacebookページがありますので、検索してご覧ください。

東北の被災地はゆっくりではありますが、少しずつ復興に向けて歩んでいます。私も昨年末、宮古教会に待降節黙想会で出かけ、その後海岸沿いに山田や大槌を通りながら釜石に向かって、そこでもミサを捧げる機会に恵まれました。少なくとも、少しずつですが、前進していることを感じました。でも教会は、福島県内で復興支援や様々な形で避難されている方々の支援に取り組む中で、なかなか先が見通せない歩みの遅さを実感させられてきました。

そこには様々な要因が複雑に関わっているのは間違いがありませんから、何か一つが解決すれば、さっさとすべてがうまくいく、などというものではないことも十分理解しています。それでも、目に見える影響と目に見えない影響が複雑に交わる原発事故の被害には、すさまじいものを感じてきました。それは科学者や専門家が、数字を持って証明したからといって、即座に解決することの出来ない、心の問題です。目に見えにくい災害である原発事故は、それが目に見えないがために、すさまじいまでの「目に見えない」被害を巻き起こしていることを感じてきました。原子力発電所の事故というものは、単に数字だけで量ることの出来ない大きな被害を、多くの人に深く刻みつけるものだということを、実感させられてきました。それが、原発事故なのだと思います。

そのような福島の地で復興支援に携わってきた教会として、やはり昨年11月11日に発表した「原子力発電の撤廃を -福島原子力発電所事故から5年半後の日本カトリック教会からの提言-」というメッセージは、やはり事故から5年以上が経過したからこそ、あらためて発表せざるを得ないものであったと思います。(メッセージのリンク)

原子力発電に頼ることはすでに規定の路線として、当たり前であることが常識になりつつあるいま、それに抗うようなメッセージは常識外れと思われることでしょう。メッセージの中に次の一文があります。

「こうした状況を克服するため、人間は神の似姿として、共通善にかなった自然との正しいかかわりへと立ち戻らなければならないと、わたしたちは考えます。人間は本来、自分自身との関係、他者との関係、大地(自然環境)との関係、そして神との関係において調和があってこそ、平和で幸福に生きることができるのです」

これは教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」の考えにしたがったものです。将来の世代への責任だけでなく、神から創造されたものとしての限界をわきまえる存在として、神の目において何が正しいのか、霊的な識別を行ったと考えています。

このメッセージは、その前に出版された、専門家数名によって執筆された、「いまこそ原発の廃止を」という書籍を前提にして作成されていますので、できる限り、科学的知見に正しく準拠することを念頭に書かれました。(本の紹介リンク)。しかしメッセージの核心は、科学的にみてどうだからと言うことではなく、神の前でわたしたちはどうあるべきかという点に集約されています。信仰を前提としたメッセージでもあります。

また、復興支援の現場の体験に基づいた思いを、世界の他の国々の教会とも分かち合いたいという願いも、今回のメッセージに込められた思いでもあります。地震の被害に遭遇することの少ない欧米の国々では、温暖化対策の切り札として原子力発電を肯定的に考える方々が多くおられます。当然のことなのだと思います。教会指導者の多くも同じように考えておられます。そういった方々に、今後、日本の教会としての体験に基づいた考えを、積極的に伝えていく術を、現在模索中です。

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