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2017年1月 1日 (日)

あけましておめでとうございます

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みなさま、新年あけましておめでとうございます。

2017年がみなさまにとって素晴らしい平和な年となりますように、お祈りいたします。新しい年にあっても、昨年同様、みなさまのお祈りをお願い申し上げます。

さて年が明ける深夜零時、新潟教会では一年の一番最初のミサが捧げられました。毎年わたしが司式しています。毎年ある程度の方々が参加してくださっていますが、今年は小雨の降る中、40名を超える方がミサに参加し、2017年の上に神様の祝福と護りがあるように祈りを共にしました。

毎年、大晦日の深夜には、司教ミサが新潟教会であります。駐車場も十分にありますから、来年はみなさま是非ご参加ください。

元日は、深夜ミサ以外にも、午前11時からミサがありました。こちらは主任のラウル神父司式。ミサ後にカトリックセンターで、新年の挨拶の会がありました。たくさんの方に参加していただき感謝します。新潟のあたりは小雨模様が続いていますが、お昼頃には日も差す、穏やかな元日でした。(なお、上の写真は、新潟教会のある少年が描いてくれた、私の絵を転用しました)

以下、新年最初のミサの説教の原稿を掲載します。

世界平和の日(神の母聖マリア)
2017年1月1日

新年明けましておめでとうございます。

 「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」
 主イエスの降誕を祝う教会は、その出来事から一週間目にあたる今日を、神の母聖マリアの祝日と定めています。

 天使ガブリエルによるお告げの出来事に始まって、ベトレヘムへの旅路、そして宿すら見つからない中での出産。天使たちがほめたたえる中で、新しい生命の誕生を祝うために真っ先に駆けつけた貧しい羊飼いたち。聖書の記述は、さらりとしたものですが、実際にはどんな風であったのか、想像するまでもなく、マリアにとっては大きな混乱の極みであったことでしょう。

 人類の救い主の母となることを告げられたそのときから、また神の御言葉を胎内に宿したそのときから、さらに神のひとり子の母となったそのときから、マリアの心は様々に乱れ悩んだことだと思います。しかしルカ福音は、マリアがその出来事に踊らされ悩み、恐れることはなく、すべてを心に納めて、その出来事によって神が望まれることは何なのかを思い巡らし続けていたと伝えます。

 教皇フランシスコは使徒的勧告「福音の喜び」において、教会の社会に関する教えに基づいて正義と平和を構築するにあたっての四つの原理を提示されています。
 一つ目は「時は空間に勝る」、二つ目が「一致は対立に勝る」、三つ目が「現実は理念に勝る」、そして四つ目が「全体は部分に勝る」。そういう四つの原理です。
 聖母マリアが神のひとり子の誕生という一連の出来事に遭遇したときにとった態度は、まさしく「時は空間に勝る」という原則にしたがったものであったと私は思います。

 わたしたちが生きている空間は、いまの一瞬によって成り立っており、その積み重ねが時の流れとなります。多くの場合、わたしたちは時の流れを見通すことが出来ないために、いまの一瞬の出来事に捕らわれて、興奮し、踊らされ、判断を急ぎ、行動しようとします。特にその瞬間に起こっている出来事が非日常的であればあるほど興奮は高まり、より早く結論を導き出そうと急ぐのです。そうした場合、時間が経過して落ち着いてから振り返って見ると、なぜそのような性急な判断をくだしてしまったのかと反省することもしばしばあり得ます。

 そういった人間の性急さを求める心に対して、教皇は「時」を重視するように諭します。「時」は、時間の流れの積み重ねとしての時、つまりゆっくりと時間をかけて吟味することでもあり、同時に聖書が語る「時」の意味、すなわち神が望まれる秩序に応じて何かが成し遂げられるその時も意味しています。

 聖母マリアが、人類にとってまさしく最高のサプライズである救い主の母となるという出来事に遭遇したときに選択した道は、困惑と恐れの中で取り乱すことではなく、まさしく「時は空間に勝る」という原理に基づく生き方、すなわち時間をかけて神の「時」を待ち続ける姿勢でした。

 聖母マリアはその意味で、わたしたちへの生き方の模範であり、同時に正義と平和を構築する原理の一つにしたがっているのですから、神の望まれる平和を実現される生き方の模範でもあります。

 教会は、新年の第一日目を、世界平和の日とも定めています。2017年1月1日の世界平和の日にあたって、教皇フランシスコはメッセージを発表されています。このメッセージは教皇パウロ6世が出された最初のメッセージから数えて50回目となる記念すべきメッセージです。

 教皇フランシスコはこの記念すべき50回目の平和メッセージのテーマに、「非暴力、平和を実現するための政治体制」を選ばれました。
 これまでも歴史の中で宗教者から何度も繰り返されてきた「非暴力」への呼びかけは、現実主義者たちの前には夢物語にしか感じられないのかもしれません。徹底的な非暴力では、ただ自分たちが敗れ去るばかりで何も変える力はないというのが、現実主義者の声なのかもしれません。

 しかしそういった批判をすべて踏まえた上で教皇フランシスコは、あえて「非暴力」の重要性を問いかけています。それはまさしく、即座の解決や起こっている出来事への対応に右往左往して性急な判断を繰り返す世界に対して、「時は空間に勝る」ことを、あらためて強調するために他なりません。

 教皇は、「人と人とのかかわり、社会における関係、さらには国際的な関係において、愛と非暴力に基づく交わりが行われますように。暴力の犠牲者が報復という誘惑に耐えるとき、その人は非暴力に基づく平和構築のもっとも確かな担い手になります」と呼びかけます。
 その上で、「今、イエスの真の弟子であることは、非暴力というイエスの提案を受け入れることでもあります」と述べられます。それどころか、教皇ベネディクト16世の言葉を引用しながら、こう主張されています。「キリスト信者にとって非暴力は単なる戦術的な行動ではなく、人格のあり方だということが分かります。それは神の愛とその力を確信する人の態度です」

 キリスト者は、何かを勝ち得るために非暴力という戦術をとるのではなく、キリスト者として生きる限り当然の生きる姿勢として、非暴力に生きなければならない。その意味で、積極的な非暴力は、キリスト者の生き方そのものであると、教皇は指摘されています。

 さて、非暴力を主張するとき、わたしたちは社会の中に吹き荒れる暴力の嵐に敏感にならざるを得ません。わたしたち一人ひとりに神から与えられた賜物である「いのち」の尊厳を考えるとき、わたしたちはその尊厳を打ち砕こうとする吹き荒れる暴力の嵐を、世界の至る所で目の当たりにしています。人間の仕業である戦争や、さまざまな武力紛争、頻発するテロ事件、社会における暴力行為、弱い立場の人への迫害、家庭内における暴力、生命の価値の軽視、理由のない生命への攻撃。あまりにも多くの暴力的行為が、この世界を支配しています。

 こういった生命への攻撃に対してわたしたちは、それは神の望みに反しているのだと毅然と告げなければなりません。暴力はこの世界に起こる様々な問題への解決策ではないことを、毅然として告げなくてはなりません。

 今わたしたちは、例えばテロの脅威にさらされて、いつ何時どこで何が起こるのかわからないという不安に包まれた社会で生きているのかもしれません。または、少子高齢化の激しく進む中で、困難な未来が待ち受けているのではないだろうかという、将来に対する見通しがつかない漠然とした不安の中で生きているのかもしれません。誰かがそこからか襲ってくるという、根拠の希薄な不安の中で生きているのかもしれません。

 不安に包み込まれると私たちは、当然のように安心を求めようとします。しかしどうあがいても明るい希望を見いだすことが出来ない現実の中で、どうやって安心を得るのか。一番簡単な方法は、遠く先まで見通すことをあきらめて、見える世界を狭めて、自分の周りしか見ないことかもしれません。自分の周りの小さな範囲のことであれば、何とか見通しがつき、安心することが出来る。だから、不安に包まれるほどに人は、自分の身を守ろうとするがあまり、利己的な生き方を選択してしまうのではないでしょうか。
 あらためて教皇フランシスコの示す「時は空間に勝る」という原則を、心に留めて、新しい年を生きていきたいと思います。

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