« 新潟地区信徒大会@亀田教会 | トップページ | 「いのちへのまなざし(増補新版)」出来ました。 »

2017年3月 5日 (日)

合同洗礼志願式@新潟教会

Election1701
本日は四旬節第一主日。新潟教会において合同洗礼志願式を行いました。数年前から合同洗礼志願式を始めましたが、もともと毎年の洗礼者がそれほど多くないことと、地理的な条件もあって(距離よりも交通の便の問題です)、すべての小教区の参加というわけには行かないのですが、今回はそれでも新潟教会と花園教会と青山教会から参加者があり、合計で11名の方が洗礼志願者として教会に受け入れられました。

新潟教会以外でも、教区内の各小教区で志願者となられた方がおられることと思います。四旬節の間、より良くまたより深い洗礼への準備が出来ますように、お祈りいたします。歩みをともにするわたしたち自身も、自らの信仰を深めるときとしたいと思います。以下本日の説教です。

Election1702
四旬節の始まりにあたり、教皇フランシスコはメッセージを発表されています。今年のメッセージのタイトルは、「みことばはたまもの、他の人々はたまもの」とされています。

教皇様は、昨年のいつくしみの特別聖年から明らかなように、神のいつくしみの深さと、それに身をゆだねることの大切さ、さらにはそれを広くあかししていく必要性を、常々強調されています。そこでこの四旬節のメッセージでも、冒頭で次のように述べておられます。

「イエスはわたしたちを決して見捨てない忠実な友です。たとえわたしたちが罪を犯しても、イエスはご自分のもとにわたしたちが戻るのを忍耐強く待ってくださいます。そのように待つことを通して、イエスはご自分のゆるす意志を表しておられます」

豊かないつくしみを持って、わたしたちが主のもとに立ち返るのを待ってくださる。だからこそ、この四旬節に、私たち自身の信仰生活を振り返り、主に立ち返ることを教皇様は勧めておられます。その上で教皇様は、福音書のラザロと金持ちの話を詳しく解説され、次のように指摘されます。

「こうして金持ちの真の問題が明らかになります。彼の悪の根源は、「みことばに耳を傾けないこと」です。その結果、彼は神を愛さなくなり、隣人を軽蔑するようになりました。みことばは人々の心を回心させ、再び神に立ち返らせることのできる、生き生きとした力です。みことばというたまものに心を閉ざせば、兄弟姉妹というたまものにも心を閉ざしてしまいます。」

教皇様は私たちに、神のみ言葉に耳を傾けることの重要さを説き、御言葉に耳を傾けることによって、私たちの隣人との関係も定まってくるのだと強調されています。

Election1703
本日の福音は、イエスが荒れ野で40日間の試練を受けた話が記されていますが、その中で、サタンから「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑されたときのイエスの言葉がこう記されています。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」

イエスは決して空腹を満たすことが不要だと言っているわけではなく、人生の中における優先順位はどこにあるのかを語っておられます。すべてをおいてでも一番に大切にするべき人生の柱は何であるのかを、語っておられます。それが、神の言葉であるというのです。

空腹を満たす欲望に象徴されていることですが、私たちは現実に生きている存在なので、その生きる現実の中で直面する様々な問題に、至極当然に現実的に対応していきます。神の言葉は、時としてそういった現実的対応とは対立する行動を、わたしたちに迫ることがあります。そのようなとき、わたしたちはどういう選択をするのか。『理想はわかるけれど、現実はどうしようもない』と妥協することがしばしばではないのでしょうか。それに対してイエスは、神の言葉に記される理想を最優先とするようにと説かれます。

もっともわたしたちは弱い存在ですから、必ずしも常にその理想的な選択をできないこともしばしばです。主はその人間の弱さを、自らの身をもって知っておられます。だからこそ、そのいつくしみをもって、忍耐強く、私たちを待っておられます。

Election1704
さて、四旬節の始まりに当たり、教会は第一主日に洗礼志願式を行うように勧めています。それは、キリスト者として生きることを望み、そのための学びと祈りの時を過ごしてきた方々が、洗礼への最後の準備をするために最もふさわしいのが、四旬節だからです。

四旬節にわたしたちは信仰の根本に立ち返り、何を信じているのか、どうして信じているのか、信じているのであればどのように生きるのかを見つめ直すよう招かれています。したがって、洗礼を望まれる方々が信仰における決断を下そうと最終的な準備をするとき、教会共同体も志願者と一緒になって信仰を振り返る道を歩むことは、教会の共同体としてのあり方を考えたとき、ふさわしいことではないでしょうか。

Election1705
本日、洗礼志願式にこのように集まっていただいたことには、もちろん理由があります。
第一に、洗礼を受けることは、個人的な内心の問題だけではないことを実感していただくためです。宗教は個人の内心の問題にとどまるのではなく、共同体において生きられるものだからです。共同体のないキリスト教は考えられません。イエスご自身が、まず最初に12人の弟子という共同体を形成して、祈りをともにし、聖体の秘蹟を定め、福音宣教に送り出されました。

洗礼を受けることはひとり個人が新しい生命に生きることだけではなく、それを通じて、「神との交わりと全人類一致のしるし、道具」である教会の一部となることをも意味しています。一つの体の部分となるのだという自覚を持っていただくためにも、洗礼志願者として洗礼への最終的準備を始めるとき、それは共同体の中で行われるのがふさわしいと思います。

第二に、なぜカテドラルなのか。教会共同体と言うとき、それは単にどこそこの小教区教会だけを限定して指す言葉ではありません。教会とは、自分がミサに与る場所としての教会だけを意味しているのではなく、まさしく「普遍教会」と呼ばれるように、全世界に広がる一つのキリストの体としての共同体を指し示しています。洗礼は、教会のメンバーシップを手に入れるための切符ではありません。どこかの教会のメンバーになるのではなくて、それを遙かにこえた、世界に拡がる神の民の一員となるのです。キリストの体としての教会は、民族や文化や国境を越えて、この世界に一つの神の民として存在しています。その一つの群れの牧者として与えられているのが教皇です。

この地域にあっては、新潟教区という名称の下に、一つの民が形成されていて、司教がその牧者として教皇から任ぜられています。洗礼を受けて教会の一員となることは、同時に新潟教区という一つの共同体の一員となることを意味しているのです。そこでこのように教区共同体の牧者である司教と祈りの時をともにすることで、ご自分が歩みをともにしようとしている教会共同体の普遍的な広がりの一端を感じていただければと願っています。

そして本日カテドラルに集まった信徒の皆さんは、新潟教区を代表して、この志願者を教会共同体に迎え入れることになります。洗礼志願者がこの四旬節に主イエスとの出会いを深めることができるように、ともにその導きを祈りましょう。そして洗礼志願者とともに、信仰を振り返り、自らが何を信じているのか、どうして信じているのか、そしてどのように生きようとしているのか、一緒になって深めて参りたいと思います。

|

« 新潟地区信徒大会@亀田教会 | トップページ | 「いのちへのまなざし(増補新版)」出来ました。 »

司教の日記」カテゴリの記事