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2017年4月12日 (水)

2017年聖香油ミサ@新潟教会

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新潟教区の今年の聖香油ミサは、本日水曜日の午前10時から、新潟教会で行われました。教区で働く司祭団は教区司祭と修道会司祭を会わせて30数名おりますが、今日のミサには22名が参加。また平日の昼間でしたが、多くの信徒の方も参加してくださいました。

ミサの中では、説教の後に司祭団が自らの叙階の日を思い起こしながら、叙階の誓いを新たにし、またミサ中に秘跡の執行に不可欠な三つの聖なる油が祝福されました。(写真は上がミサ前の三つの油。下がミサ終了後に、各小教区などのために聖なる油を小分けにしているところ)

なお新潟教会では、明日の聖木曜日は主の晩餐のミサが夕方の午後7時から、聖金曜日の主の受難の典礼が同じく午後7時から、さらに土曜日の復活徹夜祭も午後7時からとなっています。信徒ではない方々も、カトリック教会の重要な祈りの時ですので、どうぞおいでください。木曜と金曜はそれぞれ1時間ほど、土曜日夜は2時間ほどの祈りの儀式です。

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以下、本日の聖香油ミサの説教の原稿です。(諸般の事情からミサの写真はありません)

近頃は、真実はいったいどこにあるのだろうかと考えさせられる出来事が巷には溢れていると感じます。例えば卑近なところでは、大阪における小学校設立に関わる一連の出来事にあっても、毎日報道されてきた内容を見たり聞いたりすればするほど、真実はいったいどこにあるのか、誰が本当のことを言っているのか、という思いが深まりました。また米国の新大統領就任式をきっかけに、「代替的事実(オルタナティブ・ファクト)」などという言葉が、注目を浴びる時代でもあります。

事実は事実として一つしかあり得ないのですが、どの立場からその事実を見るのかによって理解が異なるということはたしかに否定出来ないのかもしれません。しかしながら「代替的事実」などという言葉が当たり前になってしまったのでは、結局のところ、何を言ってもゆるされる、ということが普通になってしまう可能性があります。語られる言葉への評価は、極論すれば自分が好きか嫌いか、肌に合うか合わないのかなどという、個々人の主観的で感覚的な判断にゆだねられてしまうことになります。そしてそういった主観的で感覚的な判断は、非常に自己中心的で利己的になりがちです。

そんな時代の風潮の中では、唯一の真理を語り追求するなどということは、ますますもって難しくなってしまうと感じています。わたしたちの信仰は、イエスの時から始まっていまに至るまで、常に神の真理を語り追求するものです。わたしたちが信仰において語る真理は、個々人が感覚的に受け入れられるのかどうかだとか、肌に合うのか合わないのかなどという、非常に自己中心的で利己的な価値判断の前で、いまや翻弄されています。

教皇様は四旬節のはじめに発表された今年のメッセージで、「ラザロと金持ち」の話を取り上げ、その中で、金持ちの問題点を次のように指摘されています。
 「彼の悪の根源は、『みことばに耳を傾けないこと』です」

その上で教皇様は、みことばに耳を傾けない金持ちは、「神を愛さなくなり、隣人を軽蔑するようになりました。みことばは人々の心を回心させ、再び神に立ち返らせることのできる、生き生きとした力です。みことばというたまものに心を閉ざせば、兄弟姉妹というたまものにも心を閉ざしてしまいます」と指摘されています。今の時代を生きているわたしたちは、生きていくために何に耳を傾けているのでしょうか。

世界全体の視点で見るとき、わたしたちは互いに恐れ、憎しみあい、対立を深める方向に歩んでいるように感じます。具体的に対立する勢力の相互不信感が武力紛争に発展している地域では、例えばシリアで起こっている紛争状態のように、幼い子どもたちを始めとした一般の市民が巻き込まれ、暴力的に生命を奪われる事件が頻発しています。さらには住む家を追われて難民として各地をさまよう人々も大勢おられます。加えてテロへの恐怖は、互いの疑心暗鬼を生み出し、その疑心暗鬼から生まれる感情は、互いに助け合うことよりも、異質な存在を排除する不信という深い闇を生み出しています。

わたしたちの国でも状況はそれほど異ならず、近隣の国々との相互不信は深まりつつあり、異なる人々を排除するような暴力的な言動も目につくようになりました。わたしたちは、「みことばというたまものに心を閉ざせば、兄弟姉妹というたまものにも心を閉ざしてしまいます」という教皇様の指摘通りの道を歩んでいるといえるのではないでしょうか。

互いに協力し助け合うことが良しとされない社会は、神から離れた世界であると思います。そして現代社会は、まさしく神から離れ、人間を中心に生きようとしている、神の目にとって非常に傲慢な人間たちによって造り出された世界です。

もちろんそのような社会の現実を前にして、わたしたちキリスト者は、「仕方がない」とつぶやいているわけにはいきません。なぜならば、わたしたちの使命は、徹頭徹尾、福音に生き福音をあかしして、それを告げ知らせることだからです。神のみことばに耳を傾けない世界の直中で、そのみことばに生き、語り続けることがわたしたちの使命だからです。

社会の様々な問題や政治の課題に声を上げることも大切です。そこには往々にして、正義をないがしろにし、弱い立場の人を虐げるような現実が横たわっているからです。キリスト者が、弱い立場にある人々のために声を上げないならば、その存在意義はありません。

しかし同時に、わたしたちは、神のみことばをもっと具体的にあかしする努力もしなければなりません。誰かが神のみことばに耳を傾けるためには、それこそ誰かがそれを告げ知らせなくては、何も始まらないからです。

今年の3月5日、四旬節第一主日のお告げの祈りで教皇様は、「わたしたちのことばは役に立ちませんが、みことばには悪魔を打ち破る力があります。したがって、聖書に親しむことが重要です」と語りかけられました。わたしたちがみことばをより良く告げることが出来るためには、聖書に親しむことが不可欠です。

その上で教皇様はこう続けられました。「『携帯電話のように聖書を扱ったらどうでしょう』。『聖書をいつも持ち運び、少なくともポケット版の福音書をいつも持っていたらどうでしょう』。携帯を忘れたら『あっ、忘れた』と言ってすぐに戻りますが、聖書を忘れてもすぐに引き返すでしょうか」。

わたしたちは、この社会に福音を告げ知らせるものとして、さらにいっそう、神のみことばに親しむ者となるよう努めたいと思います。耳を傾けてくれる人がほんのわずかであっても、語る言葉を嘲笑されたとしても、くじけることなく、イエスの福音を語り、そのあかしを続けていきたいと思います。社会の波に流されることなく、常に神における唯一の真理を見極めていたいと思います。

さて聖香油ミサは、日頃は目に見える形で共に働いているわけではない新潟教区の司祭団が、司教と共に祭壇を囲み、信徒を代表する皆さんと一緒になってミサを捧げることによって、教会の共同体性と一致を再確認する機会です。また司祭の役務を果たす中で秘跡の執行には深い意義がありますが、それに必要な聖なる油を、司教と共にこのミサの中で祝福いたします。加えて、この説教のあとで司祭団は、それぞれが司祭に叙階された日の決意を思い起こし、司教の招きに続いて沈黙の内にその決意を新たにいたします。

一年に一度、司祭はこのようにして共に集い、自らの叙階の日、すなわち司祭としての第一日目を思い起こし、初心に立ち返ることによって、主イエスから与えられた使命の根本を再確認するのです。

お集まりの皆さん、どうか、私たち司祭が、主キリストから与えられた使命に忠実に生き、日々の生活の中でそれを見失うことなく、生涯を通じて使命に生き抜くことが出来るように、祈ってくださるよう、お願いいたします。

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