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2017年4月14日 (金)

主の晩餐@新潟教会

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主の復活はわたしたちの信仰のもっとも核心部分にあることがらですから、その意味で教会の典礼の頂点ともいうべき聖なる三日間が始まりました。

新潟教会では午後7時から、主の晩餐のミサが行われ、ミサの中では洗足式も行われました。ミサの終わりには御聖体が小聖堂に安置され、その後9時過ぎまで聖体礼拝も行われました。

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平日の夜の典礼ということで、この数年どうしても参加する人が減少傾向にあります。わたしたちの信仰生活の中心にある典礼ですので、どうぞ、できる限り足を運んでくださいますように。今日、聖金曜日には主イエスが十字架上で亡くなられ葬られたことを黙想し祈る主の受難の典礼が、同じく夜7時から行われます。また主イエスが十字架につけられた時刻を思い起こしながら、午後3時からは同じく新潟教会で、十字架の道行きが行われます。

以下昨晩、主の晩餐ミサの説教の原稿です。(諸般の事情からミサ中の写真はありません)

わたしたちが暮らしているこの国は、一体どんな国でしょうか。それぞれの立場から、様々な評価があろうかとは思います。経済にしろ環境にしろ、近隣諸国との関係にしろ、大震災からの復興や原発事故などにしろ、そこには指摘すれば切りがないほどの様々な問題が存在することであろうと思います。しかしながら同時に、多くの人が、ある程度の生活の満足の中で、それほど悪い社会ではないと思いながら、毎日の生活を営んでいるのではないでしょうか。

わたしたちキリスト者の信仰の立場からこの国の現実を見つめてみると、やはりそこにあるのは、神の目における完成からはほど遠い現実であります。神が一人ひとりのいのちに託した使命が十分に実現する社会を生み出しているのかどうか。神が天地創造の一番最初に望まれた神の完全な秩序に近づいているのかどうか。そう考えてみると、神の国の実現という視点からは、まだまだわたしたちには改めていかなければ課題が多い。そう感じさせられます。私たちはキリスト者として福音に生き、それをあかしするというのならば、どのような社会をこの国において実現させようとしているのか、常に思いを巡らせなければならないと考えます。

日本の司教団は先日、2001年に発表したメッセージ「いのちへのまなざし」を増補改訂し、人間のいのちの営みに関する新たな司教団メッセージを発表いたしました。2001年の「いのちへのまなざし」は、21世紀という新しい時代の幕開けにあたり、信仰の立場から最も大切な問題、すなわち私たちのいのちに関わる問題について、教会内部だけでなく、広く一般の方々に呼びかけるメッセージでした。その冒頭にはこう記されています。

「神がおつくりになり、その御ひとり子をお与えになるほど愛された人間の尊いいのちとその一回限りの人生が、不幸な状況の中に生きているということ、それを抜け出すためにどうして良いか分からないままでいること、ここに、わたしたちカトリック教会の司教団が、いのちと人生についてのメッセージを世に送ろうと決意した理由があります」

時の流れは速いものでそれからすでに16年がたち、社会の状況は大きく変化しました。世界的にいのちに関わる科学も一段の進歩を見せ、生命倫理の立場からも新しい課題が指摘されるようになりました。人間関係や性に関する社会の常識にも大きな変化が見られ、教会としての考え方を明らかにする必要も出てきました。とりわけ教皇フランシスコが、誰一人として排除されて良いはずがないと強調されていることや、教会が異質な存在を排除する共同体であってはいけないと強調されている姿勢は、わたしたちの生き方にも大きな影響を与えています。また私たちにとっては、2011年3月11日の大震災と津波、その後の原発事故が、改めて人間のいのちの持つ意味について考えさせる契機となりました。

教会は社会に存在する神の民として、神が望まれる完全な秩序の実現と現実を常に比較しながら、現実の世界に対して神の望みに一歩でも近づくようにと、様々な警告を発してきました。それは政治や経済や軍事など、いわゆる正義と平和の課題を中心にしてはいますが、それ以外にも貧困や孤立の問題などにも積極的に発言しまた行動してきました。様々なレベルや分野において人間が十分に生かされ尊重されていなければならないという視点から、教皇フランシスコはそういった教会の立場は、総合的な人間開発を目指しているものだとしばしばのべられています。

神が最初に私たちを創造し、この世界を生み出されたときの、完全な秩序は失われています。その完全な秩序を取り戻すことが、平和の実現であると、これまでも幾たびも申し上げて参りました。ですからこの神の秩序を乱そうとする人間の営みに対しては、それを正すための声を教会は上げないわけにはいきません。この国をどのような国にしたいのか、思想信条や価値観の異なる立場から様々な考えがあることでしょう。私たち信仰者には、神における信仰の立場から、神の望まれる秩序の実現という視点でそれを語っていく義務があります。

さて「いのちへのまなざし」を改訂し改めて多くの人に呼びかけようと司教団が考えたのは、そういった神の秩序の根本にあるのは、人間にたまものとして与えられたいのちがあると信じるからに他なりません。人間の人生の営みに関連して様々な問題がありますが、その根本にはいのちの問題があります。というよりも、いのちがなければ、そもそもこの社会自体が成り立たない。すべての根本は、結局このいのちをどのように考えるのかにかかっております。

そうしたとき、私たちが生きている社会の現実はどうなのか。たとえば昨年7月の相模原での障害者殺害事件にあるような、直接的にいのちの尊厳をないがしろにするような衝撃的な事件もあります。戦争や核兵器の問題にしても、経済の不公平さや格差と排除の問題にしても、結局は人間のいのちをどのように考えるかという点にその議論の基礎をおいていなければ、人間不在のむなしい議論となってしまいます。

教会は、今の時代にあって、神がたまものとして与えられたこのいのちを尊重し守り抜くのだという価値観が、社会の中心から排除されていることを危惧をしています。このままでは、神の秩序の完成という理想から、私たちの社会は徐々に遠のいてしまうと危惧しています。様々な暴力にさらされるいのちが増え続けている世界では、いのちの価値が徐々に軽くなってしまうと危惧しています。

神の望まれる社会のあり方は、まさしくイエスが最後の瞬間まで弟子たちを通じて私たちに伝えようとした事柄です。それは旧約における「過越し」の出来事に象徴されるように、イエスにおいて新しいいのちへと、新しい生き方へと、今の古い自分から新しい自分へと変えられていくこと、つまり過ぎ越していくことの重要性です。

最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗った主は、まさしく価値観の完全な転換を弟子たちの心に刻みつけました。この世が良しとして優先させる価値観ではなく、それと全く逆なところに、神が求める生き方があるのだということを、イエスは自らの行動を持って弟子たちの心に刻み込まれました。一番偉いはずの先生が、師が、自ら弟子の足を洗うという衝撃的で逆説的な行動をとることで、弟子たちの心に刻みつけました。

また自らの体と血を、すなわち御自身の存在すべてを、パンと葡萄酒の秘跡のうちに私たちに与えられました。自らのすべてを与えつくして他者をささえ、自らのいのちを持って他者を生かそうとするような生き方は、現代社会の中心にある生き方とは異なるものであると感じます。

そして主は、「このパンを食べ、この杯を飲むたびごとに」、その神の生き方を告げ知らせるようにと私たちに託しておられます。

聖木曜日の今宵、私たちは現代社会にあって、この主から託された使命にどのように応えていくのでしょう。改めて考えてみたいと思います。ミサに与り、聖体の秘蹟に与るたびごとに、私たちは、あの晩の主の教えを改めて心に刻み、イエスご自身が行動で示されたように、その生き方を、教えを証しするために遣わされるのだということを、心にしっかりと刻み込みたいと思います。
                                                   

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