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2017年4月19日 (水)

復活の主日@新潟教会

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復活祭の日曜日、新潟はやっと暖かい春の日となり、ちょうど桜も満開となりました。新潟教会の復活の主日ミサには多くの方が集まり、前晩に洗礼を受けた方々と喜びを共にしました。

ミサ中にはこの日だけ来られる方も多いことから、もう一度洗礼の約束の更新を行いました。また閉祭前には復活の卵を祝別。ミサ後には、信徒会館ホールで祝賀会を行いました。

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以下復活の主日のミサ説教の原稿です。

近頃、たまたま土曜日に予定がないときには、午前中に再放送される「こんなところに日本人」というテレビ番組を見ることがあります。世界の様々な国で生活している日本人をタレントさんが訪ねていくという企画です。いかにもテレビ番組の企画でちょっと大げさなところも感じますが、しかしわたしにとってはある意味懐かしい、かつて生活したアフリカの情景がしばしば登場することから、興味を持って拝見させていただいております。

こういった海外で生きる日本人を紹介したりする番組はいくつかあるようですが、時に「だから日本人はすごい」などと、何か自画自賛の内容となってしまうこともあり、そんなときはちょっと内向きな印象を受けることもあります。しかし同時に、番組のホームページに「世界にはまだわたしたち日本人が知らないような、小さな町や村があり、日本で暮らしていては想像も出来ないような暮らしを送る日本人がいます」と記されているように、見知らぬ国や人々に興味を持つことはとても重要で、それこそ内向きな態度を打破し、わたしたちの意識を外へ向かわせるという意味で、重要なきっかけとなる番組でもあると思います。

わたしたちは、神のもとで同じいのちを生きる兄弟姉妹として、一つの共同体に生きているなどと申しますが、その兄弟姉妹の現実を知らなければ、「共に生きる」はかけ声倒れに終わることでしょう。その視点からは、こういった番組が様々な国の様々な人々の現実を伝えてくれることには意味があり、重要であると思います。

ただ、はたしてこういった番組が、本当に外へと足を踏み出し、未知なる人々と交わりを持とうとする原動力となっているのかどうかが気になります。たしかに実際に冒険をしてみようという人が、いないことはないのでしょうが、そういった実際に海外へ出かけるのかどうかということではなく、心持ちの問題として、内向きではなく外へ向かって開かれた心を持つ人の増加に果たしてうまくつながっているのだろうかが気になります。

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教皇フランシスコが就任直後に訪れたランペドゥーザ島でのミサの説教でいわれた言葉を思い出します。
「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった」

何となく、自分の部屋の居心地の良いところに座り込み、テレビで海外の人々の生活を眺めながら、何かそれで異なる世界のことを知ったような気分に浸ってしまったのでは、ちょうどこの教皇様の指摘のような有り様ではないのかと思ってしまいます。

良く知っているように、テレビの画面で展開される物語は、現実の一側面を切り取った断片に過ぎません。それをきっかけに実際に現地へ赴けば、そこにはまったく異なった現実があることも、わたしたちは良く知っています。

教皇様の説教は、こう続きます。
 「これが私たちに、はかなく空しい夢を与え、そのため私たちは他者へ関心を抱かなくなった。まさしく、これが私たちを無関心のグローバル化へと導いている」

よく知っているようで、思いの外その知識は限定されている。関心を抱いているつもりで、その関心は、シャボン玉を突き破るだけの力はない。わたしたちには、シャボン玉を突き破り、外に向かって歩み出す姿勢が求められているのではないでしょうか。

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本日の第一朗読で、復活の主にすでに出会ったペトロは、イエスが十字架につけられた日に恐れをなして隠れようとし、またイエスを三度知らないと裏切ってしまったあの夜の態度とは打って変わり、力強くイエスについて語っています。それは知識を教えているような姿ではなく、どうしても語らずにはいられないという姿です。すなわち、それほど多くの人に伝えたくて仕方がない話がある。自分には分かち合いたい宝のような話がある。そういうペトロの熱意が伝わってくるような姿です。

実際わたしたちキリスト者には、伝えても伝えきれないほどの宝のような話が、たくさんあるのではないでしょうか。その宝を伝えたくて伝えたくて仕方がない思いに駆られて、多くの宣教者が歴史の中で迫害をもいとわず、苦難を乗り越えて、世界中へ出かけていきました。日本の教会は、そういった福音宣教者たちによって育てられてきました。いま現在でも、世界の至る所へ出かけていって、その宝物の話を分かち合おうとする人は多く存在し、日本の教会はそういった宣教者によって支えられています。

わたしたちはそういった福音宣教者の存在を、どのように見ているのでしょうか。あのテレビ番組を眺めているように、テレビの画面の向こうにいる、何か特別なストーリーを持った特別な存在であって、「すごい人もいるもんだなあ」などと傍観しているだけでしょうか。

あらためて言うまでもなく、わたしたち一人ひとりも、そういった福音宣教者になるようにと召されているのです。司祭や修道者だけの話ではありません。それは、イエスをキリストと信じ、神の名において洗礼を受けたすべての人は、福音宣教者として召されています。
 わたしたちには、語っても語り尽くせぬ宝のような話がたくさんあるはずです。わたしたちが語るようにと召されているのは、知識を教えることではありません。わたしたち一人ひとりが、主との出会いの中で感じたことを、生きる中で分かち合っていくことです。

わたしたちの持っている宝とはどんなものでしょう。例えば、限りのない神のいつくしみと愛。徹底的に奉仕する心。他者を自分のように助けようとする心。支え合う存在としての人間の尊厳。ベネディクト16世の言葉を借りれば、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。」賜物であるいのちの尊厳。神の秩序の完全な回復。聖母が示す、神に対する徹底的な従順の生き方。聖人たちの模範。そして、放蕩息子を迎える父のように、わたしたちを包み込んでくださる、神の深いゆるし。挙げはじめたらきりがありません。わたしたちには、伝えていかなければならない宝は、本当にたくさんあります。

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ただ考えなくてはならないのは、伝えるためにはまず知らなくてはならないことでしょう。まず教会共同体の中で、わたしたち自身がそれを学び体験しなくてはなりません。信仰は一人では深まりません。わたしたちの信仰は、人間関係の中で深められていきます。そのためにも何よりもまず、教会共同体こそがこういった宝を実践する場でなくてはなりません。そこで学び体験した宝を、わたしたちが大切にしている宝の話として、今度は教会共同体から外へと派遣されて、多くの人に伝えていくのです。

誰かすごい人がそうしてくれるのを傍観しているのではなく、わたしたち自身が勇気を持って一歩踏み出し、主との出会いの宝の話を多くの人に分かち合っていきましょう。シャボン玉を突き破って、一歩踏み出しましょう。復活された主ご自身が、わたしたち一人ひとりといつも一緒にいてくださり、勇気を与えてくださいますように。

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