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2017年4月15日 (土)

復活徹夜祭@新潟教会

Eastercath1701
御復活おめでとうございます。

新潟教会の復活徹夜祭は、普段の日曜日よりも多くの方が参加してくださいました。ミサの中で9名の方が洗礼と堅信を受けられました。おめでとうございます。

わたしは主任司祭に代わり、何年ぶりかで復活讃歌を歌いました。ガーナで主任司祭をしていた頃は英語の式文で歌っていたので、日本語の復活讃歌を歌ったのは、助祭時代以来の32年ぶりでした。

以下、本日の説教の原稿です。(上の写真は今夜のカテドラルを後ろから。なおミサの写真は後日)

今宵わたしたちが祝っている主イエスの復活は、わたしたちの信仰の核心部分にある出来事です。主イエスの復活がなければ、わたしたちの信仰はそもそもあり得ない。主イエスが死を打ち破り新しいいのちへと復活しなかったのであれば、わたしたちが信じていることはすべてむなしい。

先ほど朗読されたローマ人への手紙においてパウロは、洗礼を受けた者がキリストとともに新しいいのちに生きるために、その死にも与るのだと強調されています。

すなわち御復活のお祝いとは、信仰の核心である主の復活という出来事を喜び祝うだけではなく、あらためて、キリストにおいてあたらしいいのちに生きるものとして、その死と復活にも与ろうとすることでもあります。あらためて与ろうとするのであれば、わたしたちはその死と復活とは、一体何を意味しているのかを知らなくてはなりません。

復活を祝うわたしたちは、旧約聖書における出エジプトの出来事を記した聖書の言葉を聞きました。イスラエルの民のエジプトにおける奴隷の状態からの解放は、いまの生活の現実を完全に離れ、具体的にそして物理的に体を使って移動し、新たな地へ向かって移っていくことによって実現しました。古い生き方からまったく異なる新しい生き方への移り変わり、すなわち「過ぎこし」によって解放は実現していきました。しかしその「過ぎこし」による解放は一瞬にして成し遂げられたのではなく、エジプトの地を離れ海を渡ることも、その後の40年の荒れ野の日々も、苦難の連続を通して達成されました。

主イエスは、すさまじい苦しみを体験された後にこの世におけるいのちを終えられ、死の力を打ち破って、新しいいのちへと移られました。新しい過ぎこしであります。福音は、復活された主がその場にとどまらず、ガリラヤへ物理的に移動されると弟子たちに告げたことを記しています。そしてそれは、弟子たちにとっては安住の道ではなく、福音宣教のうちに生命を賭していく苦難の道の始まりでもありました。

主の死と復活に与るわたしたちに求められているのは、安住の地にとどまることではなく、新たな挑戦へと立ち向かっていくこと、そして苦難の中に主への揺らぎない信仰を持ちながら立ち向かって歩み続けることであります。

わたしたちはつい先日、ユスト高山右近の列福を祝いました。それ以前には、188殉教者の同志として、ルイス甘粕右衛門を始めとする53名の福者殉教者を教区にいただきました。迫害の時代を生き抜いた福者殉教者たちは、まさしく初代教会の使徒たちのように、肉体的な苦しみを耐え忍びながら、その人生を賭して新しいいのちに生きる道を追い求め、また多くの人にそれをあかししていきました。

21世紀の日本に生きるわたしたちには、同じような肉体的迫害は存在していませんが、残念なことに世界の各地には、未だ宗教を理由にして生命の危険にさらされる地域が存在しています。また宗教を口実にして人間のいのちを暴力的に奪い取る行為すら頻発しています。どのような宗教であれ、人間のいのちというすべての存在の根本をないがしろにして良いと教えることは、あってはならないことであると思います。いま現在そういった状況にあって命の危機にさらされている多くの人、特にシリアの混乱状況の中で暴力にさらされている多くの方々のために祈りたいと思います。いのちを危険にさらす武力の行使が、国際社会の問題解決のために利用されることは、正しいことではないと思います。

そして日本においても、信仰を保ち続けるには挑戦的な厳しい状況が、異なる形で存在します。それはわたしたちを信仰において内にこもらせてしまう、心への攻撃です。

ご存じのように教皇様はその就任以来わたしたちに、何者も排除されてはならないことや、神のいつくしみをすべての人にもたらすことを強調されています。それは、キリスト者が本来的に優しい人だからなどという理由ではないと私は思っています。確かに皆が優しくあることは素晴らしい。しかし教皇様の考えの根本には、まさしく現代社会にあって、そういった神における価値観を優先して生きることが困難になっている現実があり、その現実はわたしたちの心への攻撃となっているという考えがあります。肉体的な攻撃以上に、心への攻撃は強力な負の力を持っています。面倒に巻き込まれないためには、単に口を閉ざして周りに合わせ、静かにしていれば良いと、わたしたちを消極的にするからです。

いつくしみ深くあることだとか、すべての人を排除しないなどということは、現代社会にあって、何をナイーブで愚かなことを言っているのだという嘲笑にさらされる価値観や行動ではないかと感じることがあります。クリスチャンは夢見る理想主義者だと非難されるよりは、黙っている方が無難だと、わたしたちに思わせる。すさまじい負の力を持っています。

でもそういうわたしたちに、復活された主は、困難に立ち向かって行動するように求めているのです。新しい過ぎこしを生きるようにと呼びかけておられるのです。神の目において善いことを、積極的に生きるようにと呼びかけておられます。

今宵暗闇の中で輝くロウソクは、復活された主が暗闇に住むすべての人にとっての希望の光であることを象徴しています。わたしたちは今日、その輝くロウソクから自分のロウソクに火をいただきました。それはわたしたちも同じように、暗闇の中でその光を輝かせるという使命を受け継いだ象徴です。受け継いだ使命を、勇気を持って果たしましょう。

復活された主に、暗闇の中で光を輝かせる勇気を願いましょう。復活された主に、信仰における勇気を願いましょう。復活された主に、その死と復活に与り、新たな一歩を踏み出す、信仰における力を願いましょう。復活された主に、神の福音の光を照らし続ける忍耐の力を願いましょう。復活された主に、神のいつくしみを一人でも多くの人に分けていく思いやりの心を願いましょう。

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