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2017年4月 9日 (日)

聖週間が始まりました@新潟教会

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本日は受難の主日(枝の主日)です。聖週間が始まりました。

新潟市内は朝は小雨模様でしたが、ミサの始まる9時半頃には雨も上がり、肌寒い曇り空ではありましたが、センター(信徒会館)から聖堂まで、外を行列することが出来ました。

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ミサはまずいつものようにセンター(信徒会館)一階で始まり、枝の祝福とエルサレム入場の福音朗読。その後、侍者団や司式のわたしと共同司式の主任司祭ラウル神父を先頭に、短い距離でしたが、外を聖堂まで行列しました。

なお聖週間中の水曜日、午前10時からは、秘跡の執行に不可欠な聖なる油を祝別する「聖香油ミサ」が新潟教会で行われます。教区内で働く多くの司祭も共同司式に加わり、叙階の日の誓いを新たにします。このミサにはどなたにでも参加しただけますので、平日の午前中ですが、どうぞおいでください。

聖木曜日、聖金曜日、復活徹夜祭はそれぞれの日の午後7時から。また復活の主日のミサはいつもの通り午前9時半から行われます。また土曜日夜7時からの復活徹夜祭では洗礼式が行われます。

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以下、本日のミサでの説教の原稿です。

同じ出来事を目の当たりにしていても、また目撃するだけではなく、同じ出来事を体験していたとしても、そこに10人の人がいれば、10通りの物語が語られることは確かであると思います。人間の記憶は機械的な記録装置ではないので、目の前に展開する出来事を、そのまま完全に記録するわけではない。わたしたちの記憶は、わたしたちの主観というフィルターを通して加工された情報のみが、残されていくものです。ですから、そのフィルターが異なっていれば、当然残される情報も同じではなく、そうするとそこには異なる幾通りもの物語が存在する余地があるのかもしれません。

わたしたちが生きている現代社会は、溢れんばかりに大量の情報が、わたしたちを取り囲んでいるような世界です。至極当然のことですが、ありとあらゆる情報が飛び交っていたとしても、その大半は自分自身で実際に体験したことのない、伝聞情報に過ぎません。

実際に目前で展開する事実を目の当たりにしてさえ、わたしたちが記憶に残していく情報は一人ひとり皆異なっているのです。そうであるとしたら、自分自身が体験することのない伝聞情報は、目で見たり肌で感じたりすることのない分、わたしたちの感情というフィルターを通じて簡単に加工されてしまいます。

どこかで耳にした噂話が、何人かの人の口を通過していくごとに様々に変化して、実際に起こったこととは異なる物語になっているなどということは、珍しいことではありません。主観と感情といったフィルターによって加工され、大きく変化してしまった情報は、時に人間の生命をさえ奪ってしまう負の力を生み出します。とりわけ実際に体験してはいない出来事に関する噂話、実際に出会ったことがない人物に関する噂話といった、噂の持つマイナスの力には恐ろしいものがあると思います。

この4月6日で23年になりましたが、アフリカのルワンダで発生した虐殺事件も、そこには国際政治の複雑で様々な要因や歴史的背景もある中で、一番大きな影響力を持っていたといわれているのはラジオなどを通じて流された噂話の類いでした。この時、噂話の持つ負の力は、まず殺さなければ自分が殺されるという実際には根拠の乏しい恐怖心を、多くの人の心の中に生み出しました。根拠が乏しい恐怖心であったのに、自分自身がその事実を確認する術を持たないために、不安はますます拡大し、結局その噂に基づいた不安は、他者の生命を奪うという究極の負の力を発揮したのです。

もともとが根拠のはっきりとしない噂です。根拠はないし自分が体験したわけでもない。まして確かめたわけでもない。しかしみんながそう言っているから、何となく不安が増す。そんな漠然とした不安に、噂話は強烈な力を発揮しました。

根拠のはっきりとしない噂話は、極端な反応を生み出すものなのだと思います。それが今日朗読された二つの福音に登場する人々の姿に、如実に現されています。

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あの日イエスを十字架上での死に追いやったのは、噂話の持つ負の力に突き動かされた多くの人々でした。でもその人々とは、直前まではイエスを賛美して熱狂のうちに迎え入れた同じ人々です。今日朗読された二つの福音に登場する人々、すなわち、イエスの入場を賛美して熱狂する人々と、イエスを十字架につけよと叫ぶ人々は、当然ですが同じエルサレムの人々です。もしかしたらまったく同じ人物たちかもしれない。

実際には自分が体験したこともない出来事であるにもかかわらず、漠然とした不安にとりつかれている人々は、強烈な力を持った噂話に飛びつき、両極端の反応を見せてしまったのです。大きな期待を持って賛美したがために、自分たちの期待とは違う存在がイエスの実際であると知り、今度はまったく反対の極端へと走ってしまったのです。

受難の朗読には、十字架に架けられたイエスを前にして、祭司長や律法学者たちがこうののしったと記されています。
 「他人は救ったのに、自分は救えない。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」

十字架に架けられている神の御子という事実を目の当たりにしながら、この人たちは見事に自分はどのようなフィルターで神を見ているのかを白状してしまいます。これがわたしが神を信じてやる条件だ。この条件に合わなければおまえは信じるに値しない、神ではない。それはつまり、おまえが神かどうかは、わたしの決めることだ、といっているのと同じです。落ち着いて考えてみれば、神様を目の前にしてなんと傲慢な言葉を彼らは語っていることでしょうか。

さてそれでは、この情報の満ちあふれた現代社会に生きているわたしたちはどうなのでしょう。もしかしたらわたしたちも、同じように神に対して、身勝手な自分の条件を突きつけていないでしょうか。こういう神だったら信じてやるとか、これをかなえてくれたら信じてやろうとか、神に対して傲慢な言葉を投げつけてはいないでしょうか。

わたしたちを見捨てることのないいつくしみに満ちた神は、あふれかえる情報の洪水の中で、あの日ピラトの前に黙したように、静かにたたずんで、わたしたちが自分のフィルターを手放すことを待っておられます。代わりに、神ご自身のフィルターを手にするようにと求められています。

それではその神のフィルターは、いったいどこにあるのでしょう。この世界にあふれかえる情報の中には、そのヒントはありません。神のフィルターは、わたしたちに向かって静寂のうちに語りかけ、時代の波に流されることのない、常に変わらぬ神の御言葉のうちにしか存在しません。

イザヤの預言にこう記されていました。
 「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる」
溢れる情報に翻弄されて疲れ切ったわたしたちの心に、神の励ましは、その言葉を通じて与えられます。あふれかえる情報に翻弄されて、不安に駆られたり、熱狂のうちに踊らされたり、身勝手なフィルターで人間に都合の良い物語を生み出していったりするわたしたちに、神は静かに黙しながら、その御言葉を持って真実を語りかけられます。キリストの受難と死、そして復活を黙想するこの聖週間。心落ち着けて、神のことばに耳を傾ける道を選びましょう。

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