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2017年5月 8日 (月)

昨日は8名の方の堅信式@山形教会

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昨日は復活節第四の主日でした。この主日は、朗読される福音から、「よき牧者の主日」ともいわれ、また第54回目となる「世界召命祈願日」でもあります。この主日に、山形市にある山形教会で、8名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

中国方面から黄砂が押しよせてくるすっきりしない一日でしたが、暖かい日差しに恵まれた、ゴールデンウィーク最終日の日曜日。この日、山形の信徒の方ばかりではなく、お隣の新庄教会からも多くの方が参加してくださり、山形教会の聖堂は一杯になりました。ミサ後には、一緒にお弁当をいただきながら、堅信を受けられた方々のお祝い界も行われました。準備してくださった信徒の皆さん、主任の千原神父様、ありがとうございました。

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よき牧者である主イエスに導かれる羊の群れは、どうやってその群れとして集まるのでしょう。それは牧者である主の声を聞き分けることが出来るからではないでしょうか。わたしたちのキリスト者としてのアイデンティティの重要な要素のひとつは、主の声を聞き分けることが出来るかどうかにかかっているように思います。

例えば昨日の第一朗読にあったペトロの力強い説教。あのストレートな呼びかけを人々は真正面から受け止めることで、神からの真の呼びかけに応えることが出来ました。でもあれが、例えばですけれど、現代社会で起きていたらどうでしょう。極端な言い方かもしれませんが、例えばツイッターのようなもので、「あのペトロという男は、イエスを裏切ったやつだ」などという話があっという間に拡がり、あまりの雑音の多さに、ストレートに呼びかけに向き合うことが出来なくなってしまうように思うのです。

わたしたちが生きている現代社会は、そういったストレートな呼びかけが、聞こえにくい、いわば雑音の多い社会なのではないでしょうか。神の呼びかけからわたしたちを引き離す、様々な種類の雑音があまりにも多く存在する社会なのではないでしょうか。

そんな現実の中で、神からの呼びかけに耳を澄ませそれにストレートに応えること、すなわちよい牧者の群れに加わることは、肉体的な迫害以上の困難さを、わたしたちに与えていると感じます。さらには、わたしたち自身がよい牧者の声を聞き分けることに困難を感じるばかりではなく、その牧者の声を代弁してさらに群れを広げること、すなわち福音宣教においても、大きな困難を感じる時代です。雑音に満ちあふれた現代社会は、牧者の呼びかけを伝えようとするわたしたちの声を、かき消してしまうのです。

そんな中で、教皇様は世界召命祈願日にあたりメッセージを発表され、わたしたち一人ひとりが勇気を持って呼びかけに応えるように促されます。(メッセージ全文はこちらのリンクの中央協のページです

召命は、もちろん第一に司祭や修道者の召命を意味していますが、しかしその前提として、わたしたちすべてにそれぞれの召命があることも忘れてはなりません。教皇様はメッセージでこう言われます。

「すべてのキリスト者は福音宣教者とされています。キリストの弟子は実際、個人的な慰めとして神の愛のたまものを受けるのでも、自分だけを高めるよう招かれているのでも、経済的な利害に気を配るよう求められているのでもありません。ただひたすら神に愛されていることを喜び、その喜びによって変えられ、その体験を自分だけのもとに留めておけないのです」

しかし現実はそう簡単ではありません。福音宣教と意気込むものの、雑音に満たされた社会の現実は、神の呼びかけにストレートに耳を傾けることを難しくしています。そんなときにわたしたちは無力感を感じます。それに対して、教皇様はメッセージでこう言われます。

「人々の心にわき上がる疑問や、現実から生じる課題を前にして、わたしたちは当惑し、自分には能力も希望もないと感じてしまいます。キリスト教の宣教は単なる非現実的な幻想であると考えたり、少なくとも自分の力の及ばないものであると思ったりするおそれがあります。しかし、エマオの弟子たちの傍らを歩く復活したイエス(ルカ24・13-15参照)のことを考えるとき、わたしたちは自信を取り戻します。・・・キリスト者とは、たとえ疲れ果て、人々の理解が得られなくても、『イエスがともに歩み、ともに語らい、ともに呼吸し、ともに働いてくださることを知る者です。』」

その上で、司祭や修道者を目指して歩みをはじめる若者たちが輩出するようにと、わたしたちにたゆむことなく呼びかけを続けるようにと、こう述べられています。

「とりわけ若者に対してキリストに従うよう説き、提案する情熱を、わたしたちは今も取り戻すことができます。信仰を退屈なもの、単なる「果たすべき義務」ととらえる世論の中で、わたしたちキリスト者の若者は、イエスの姿に絶えず魅了され、イエスのことばと行いによって問いかけられ、駆り立てられることを望んでいます。そして彼らは愛のうちに喜んで自らをささげ、主によって人間的に充実した生活を送るという夢を抱いています」

この雑音に満ちあふれた現代社会にあって、よい牧者の声を聞き分けることが出来るように、さらにいっそう、心の耳を澄ませたいと思います。心を奪う様々な雑音を、雑音として認識できるように、心を鍛えたいと思います。そしてひとりでも多くの若者が、司祭や修道者を目指して歩みを始めてくださるよう、祈りのうちに働きかけを続けていきたいと思います。

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