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2017年6月19日 (月)

新潟教区司祭の集い@胎内

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スケジュールが立て込んだため、記録しておくのを失念していました。今更ながらですが、新潟教区の司祭の集いが、6月5日から7日まで、新潟県の胎内市で開催され、秋田県、山形県、新潟県で働く司祭団のうち、25名が参加しました。毎年開催されているこの集いは、新潟教区で働く教区司祭団と修道会司祭団のすべてが対象で、一緒に三日間を過ごしながら、祈り、学び、そして情報交換(分かち合い)をする場となっています。

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今年は修道会の行事日程の都合から、残念なことにフランシスコ会とイエズスマリアの御心会の会員が参加できませんでしたが、若い会員も多い神言会員と教区司祭の交流の場となりました。

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今年は講師として、批評家であり随筆家としても著書を多数出版されている若松栄輔さんにおいでいただき、二日間お話をうかがいました。1968年生まれの若松さんは、2007年に「越知保夫とその時代 求道の文学」にて第14回三田文学新人賞評論部門当選をされていますが、数ある著書の中には、2015年の「イエス伝」もあります。新潟県の糸魚川出身で、信徒の方です。今回は、主に「文学としてのイエス伝」という題でお話をいただきました。感謝します。

さて、6月4日の聖霊降臨の主日には新潟教会でミサを司式しましたが、その説教を、遅くなりましたが、以下に掲載しておきます。

先日、この聖堂で、ハンドベルのコンサートがありました。新潟清心女子中学高校のハンドベル部がその創部25周年を記念して、チャリティーコンサートを開催してくださいました。中学生が8名、高校生が18名の22名で、様々なサイズのハンドベルを巧みに操って、素晴らしい音色を奏でてくださいました。

祈りは、心の内における神との対話であり、心を落ち着けて、沈黙のうちに、神の声に耳を傾けようとする姿勢でもあります。こういった祈りを助けるために、音楽が果たす役割には大きなものがあります。

教会における音楽と言えば、パイプオルガンが一番良く知られています。天に向かってわたしたちの心を持ち上げる力強さがパイプオルガンにはありますが、同時にわたしたちの心には神の声に耳を傾ける静けさも必要です。優しい音色のハンドベルが奏でる音楽は、心の静けさを与えてくれる存在だと感じました。

そのハンドベルですが、演奏するためには、ベルの数に応じてかなりの人数が必要です。それがこの楽器の特徴であり、他の楽器との大きな違いともなっています。すなわち、ハンドベルは、まさしくベルですから、一つの楽器は一つの音しか出すことが出来ない。だからたくさんの音を出そうと思えばたくさんのベルが必要で、そのためにはたくさんの人間が必要ということになります。

他の楽器であれば、例えばトランペットやバイオリンなどオーケストラやブラスバンドで活躍する多くの楽器は、一つの楽器が様々な音階を奏でることが出来ます。ところがベルは、一つの音程しか出せないのですから、それだけを鳴らしても、残念ながらメロディーを奏でることは出来ない。たった一つのハンドベルだけでの、ソロコンサートは成立しないけれど、たった一本のバイオリンでソロコンサートは可能です。

ハンドベルは、流れるメロディーのどこかの一部分を響かせることしか出来ないので、自分のベルに与えられた音程がメロディーの一部として来た瞬間のみに、音を奏でることが出来る存在です。

それでは、たった一つの音だから、鳴らさなくても影響はないのかというと、もちろんそんなことはなく、そのたった一つの音がなければ、全体の音楽は生み出されない。なくてはならない一つの音であるにもかかわらず、その一つのベルだけで注目を浴びることはない。一つ一つのベルが全体の部分としての役割を忠実に果たしているときに、はじめて音楽が生み出されるのです。そしてその役割を果たすためには、一緒に演奏している他の人たちの音に耳を傾けていなければ、ふさわしいときに音を発することは出来ません。

「体は一つでも、多くの部分からなり、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」
先ほど朗読されたパウロのコリント人への手紙に、そのように記されていました。

わたしたちはキリストを中心にして一つの体を形作っているというのは、わたしたちの信仰における共通理解であるといっても良いかと思います。その中でわたしたちは聖霊によってそれぞれが恵みを与えられている。その恵みをカリスマと呼んでいます。わたしたちは、それぞれが与えられたカリスマにしたがって役割を果たすことによって、一つの体をともに作り上げているのだとも理解しています。

一人ひとりに与えられた役割を果たすわたしたちは、ちょうどオーケストラの一つ一つの楽器のような存在です。そこでは、わたしたちはソロを奏でる楽器になることもできるでしょうが、同時にハンドベルのような存在となる可能性も存在しています。わたしは、キリストを中心とした一つの体を作り上げるには、実はソロの楽器よりも、ハンドベルのような生き方こそが重要であると考えています。

多くの楽器とともに合奏をしているときに、自分に与えられた才能に酔いしれて、自分の演奏するべきパートをまるでソロコンサートのように奏でてしまっては、音楽は成り立ちません。互いに耳を傾けあい、全体の中での自分の役割をしっかりと把握しなければ、ワンマンショーは全体を破壊します。特別な才能がある人ほど、この誘惑を強く受けてしまうのではないでしょうか。

本当に必要なことは、たった一つの音しか鳴らすことの出来ないハンドベルであっても、しっかりと周りに音に耳を傾け、自分の順番が来たときに的確に音を鳴らすこと。その小さな一つの音が、全体にとって重要であると自覚をすること。すなわち、自らの役割への忠実さと全体に対する謙遜です。そしてその役割が、人間の目からはどれほど小さなものに見えたとしても、一つのベルの音がなければ音楽全体が成り立たないように、神の前では、この小さな一つの音を鳴らすことが、全体を成り立たせるために不可欠な部分なのです。どんな小さな貢献でも、一つとして不必要な貢献はない。すべての小さな忠実さがあって初めて、キリストを中心とした体は、できあがるのです。

わたしたちキリスト者の中には、豊かな才能が与えられて、雄弁に福音を語ることが出来たり、何か特別なわざに召されている者もいます。でもそういう人は多くはない。そうした才能には恵まれていないと感じている人も少なくはないでしょう。でも復活されたイエスは、従うすべての人に向かって、「父が私をお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす」と命じられるのです。わたしたちには、福音を告げ知らせるわざに励むことが、大きな体を作り上げるための責務として与えられているのです。ハンドベルのような生き方が、だからこそ必要なのです。

わたしたちの信仰は、共同体で生きる信仰だといいます。それは個人的な信心がいらないということではありません。日曜日にミサに来る共同体に属するときだけ、信仰に生きているのではありません。わたしたちの毎日の信仰に対する忠実さ。それは私個人のためなのではなくて、体全体のための貢献です。キリストを中心とした体を作り上げるためには、たった一つのベルの音のような、一人一人の小さな貢献の積み重ねが必要です。そしてそれは一人一人の信仰における忠実さ、そしてその忠実さは自分のためではなく、共同体全体のためなのだという謙遜さ。信仰における忠実な生き方と謙遜。それを自覚したときに初めて、わたしたちは一緒になって、キリストの体を作り上げていくことが可能になります。 

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