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2017年7月10日 (月)

北山原殉教祭ミサ@2017米沢

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7月1日は福者ペトロ岐部と同志殉教者の記念日ですが、その188殉教者のうち53名は、福者ルイス甘粕右衛門率いる山形県米沢の殉教者です。

1629年1月12日に、雪の中で殉教していった上杉家の家臣たち「サムライの殉教」などとも呼ばれます。その殉教の地は米沢市内数カ所に分かれますが、そのうちの大多数が処刑された北山原は、その後昭和の初期に神言会の宣教師によって場所が特定され、教会の土地として購入されました。

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現在の北山原殉教地は、住宅に囲まれた一角にありますが、当時は町外れの寂しいところだったと聞きます。この場所には、殉教を記念する十字架とその脇にたたずむ聖母と聖ヨハネの像があり、その前に列福を記念して建立された石の祭壇が備え付けられています。また同敷地の一部は米沢教会の墓地としても利用されており、殉教地と墓地は、それぞれ異なる委員会が個別に管理しています。

米沢は冬の雪も深い土地で、1月12日は北山原も深い雪に覆われています。そのため殉教祭を1月に行うことはしておりませんが、188の殉教者の記念日に合わせて、2008年の列福以来、7月の第一または第二の日曜日に、北山原を会場に殉教祭ミサを献げています。

例年は曇っていたり雨が降ることが多く、そうすると思いの外涼しいのですが、今年は太陽が厳しく照りつける晴天の日曜日。気温も30度を超える真夏日となりました。

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今年のミサは主に、山形地区内の信徒の方々が参加され、新潟県内や、遠くはベタニア修道女会のシスター方の参加もありました。また東北の被災地などを訪問しながら歌を届ける活動をしておられる浦部麻里子さんも参加され、ミサ後に歌声を披露してくださいました。


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昨年に続いて今年も、ミサ中に米沢教会の4名の信徒の方が、堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。昨年は大雨で、テントの下で堅信を授けるのも大変でしたが、今年は逆にあまりの晴天で、それはそれで、直接日にあたりながらしばらく立ち続けていただくのも大変でした。

ミサは私の司式で、主任のパリアント師、地区長の千原師、鶴岡教会の伴師の共同司式でした。来年2018年は、188殉教者列福10年になりますので、教区全体の行事として7月1日に(日)に殉教祭が行われます。記念の年ですので、是非教区のみなさまの参加をお待ちしています。

わたしたちの信仰は、常に過去の出来事の記憶を共同体として連綿と伝え続けながら、それを単に懐かしい思い出にとどめ置くのではなく、今の信仰のうちにその記憶を現在化して生きることが求められる信仰です。殉教者たちの記憶も、単に懐かしい思い出として、400年前に傑出した人たちがいたのだというだけのことではありません。その記憶から、現代にどう生きるのかという示唆を見いださなければ意味がありません。

400年前と現代では、いろいろなことが大きく変化したのはいうまでもありませんが、その中で、特にわたしたちが生きていく基本に関わる出来事としては、人間関係のあり方が大きく変化したのではないでしょうか。

現代社会では、孤独や孤立が、わたしたちの社会における人間関係を規定しているように感じます。さまざまな社会状況の中で、そして様々な年代において、わたしたちは多様な形での孤独や孤立を社会に抱え込んでいるのではないでしょうか。そういった中で、かつてのような共同体のあり方は、家庭においても地域においても、もしかしたら国のレベルでも、すでに崩壊してしまっている。共同体における相互の支えが崩壊してしまったところに、孤立や孤独が深まっているように感じます。

孤立や孤独は、一人個々人のレベルにとどまらず、世界的に見ても、グローバル化が進んで相互の依存が深化しているはずなのに、国家共同体間の孤立や排除が見いだされるのも、同じように、真の意味での共同体意識の喪失が原因としてあるのではないでしょうか。

本来理想とすべき、世界は神に作られた一つの家族であるから、その中で国も、地域も、家族も、一つの体の一部として互いに支え合わなくてはならない。

相互の支え合いは、単に一人一人にとっての生命を維持するための助けとなるだけではなく、それは一人一人の成長を促す基礎を提供するのではないでしょうか。そしてそのことは信仰においても同様です。

かつての殉教者たちが、生命を賭して信仰を護ることが出来たのは、それは単に一人一人が超人的な信仰者であったというよりも、その信仰者を支え育む共同体が存在していたからではないでしょうか。信仰は一人で孤独のうちに深めていくものではなく、共同体のうちで育てられ育まれていくものです。強い共同体の存在なしには、強い信仰者はありません。

当時、米沢に今とは比べものにならないほどの大きな規模のキリスト者共同体が存在しており、活発に祈り、学び、活動していたのは良く知られているところです。そういった強い信仰共同体があったからこそ、強い信仰者が育っていったのではないでしょうか。

殉教者たちの存在を思うとき、わたしたちに必要なことは、現代社会にあって、強い信仰共同体をどのようにして育て上げていくのかを考えてみることです。殉教者をまねて、一人超人になることを目指すのではなく、共同体をどのように育てるのかを、真摯に考えていく必要があります。

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