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2017年8月12日 (土)

聖クララ会、上越高田で30年

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昨日、8月11日は聖クララの祝日でした。新潟県上越市高田には、観想修道会である聖クララ会の上越修道院があります。私の前任である故佐藤敬一司教様が、聖クララ会を新潟教区に招聘し、八王子の修道院からこの地にシスター方が派遣されてきてから今年で30年。毎年8月11日は修道院で聖クララの記念ミサが捧げられますが、昨日は特に30年記念ということで多くの方が集まり、修道院の小さな聖堂は一杯になりました。

佐藤司教様は、教区の霊的な支柱として、観想修道会の存在が不可欠だと考えられ、この地に同じフランシスコファミリーのシスター方を招かれたと伺いました。もちろん教区はすべての方々の祈りによって支えられているのですが、そのなかでも、南で聖クララ会の皆さんが、そして北では聖体奉仕会の皆さんが、日々の祈りを持って教区を支える霊的支柱となってくださっています。毎日のお祈りに感謝いたします。

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昨日のミサには、近隣で療養生活を続けておられるフランシスコ会のブルーノ神父さまと教区の高藪神父さまも参加してくださり、元気なお声を聞かせてくださいました。(写真は、ブルーノ神父と一緒に)

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先般、聖クララ会は八王子の修道院を閉鎖されました。何名かの会員が高田に移ってこられ、共同体は少しですが大きくなりました。また閉鎖に伴い、八王子修道院にあった聖クララの御像やアシジのフランシスコの御像が、新発田建設の協力で移設され、高田修道院の庭に設置されました。普段は禁域で入ることの出来ない庭ですが、昨日は私が同行して、ミサ後の懇親会に参加された方にも見学していただきました。聖クララ会は、町中の小さな観想修道院が基本だと伺ったことがあります。高田修道院も住宅地にある小さな修道院です。この修道院で観想生活のうちに教会の霊的な支柱となってくださる方々が、一人でも現れることを祈っています。聖クララ会の召し出しのためにも祈りましょう。

以下、聖クララ会修道院での昨日のミサの説教原稿です。

聖クララ会の上越修道院がこの高田の地に創立されて30年。新潟教区にあって、その福音宣教の活動を毎日の祈りと観想の生活を持って霊的に支えてくださる会員のみなさまに、まずもって心から感謝申し上げます。

日本の16ある教区の中で、信徒総数が一万人を下回る教区はいくつかありますが、そのなかでも、新潟教区は南は新潟県の糸魚川から北は秋田県の大館まで、地理的に広大な教区です。信徒数の少なさ、つまり教会共同体の規模が小さいことと、地理的に広大で皆が集まることにおいて困難があり、さらには歴史的に見ても仏教などの伝統が文化に強く根付いている地域ですから、福音を告げ知らせることは容易ではありません。

教皇ヨハネパウロ二世の使徒的勧告「奉献生活」には、聖クララ会のように観想に全面的に献げられた会の修道者について、こう記されています。
 「(観想修道会の修道者は)その生活と使命をとおして、山上で祈るキリストに倣い、歴史において神が主であることをあかしし、来たるべき栄光を先取りします。・・・彼らは教会共同体に、主に対する教会の愛を見事にあかしし、秘められた使徒的豊かさによって、神の民の成長に貢献しています」

教皇様は、教会共同体の成長のために、観想修道会の修道者の存在が重要であると指摘しているのです。ここでいわれる教会共同体が豊かに成長することとは、単に信徒の人数が増えることを意味しているのではなく、神の民に属する一人ひとりが霊的に成長し、日々の生活で福音に生き抜き、福音のあかしとなることをも意味しています。その結果として、信徒が増えるということもついてくるのかもしれません。新潟教区の教会共同体が豊かに成長するために、上越高田の聖クララ会の皆さんの霊的なあかしの生活は不可欠であり、私たちの模範となり、また私たちの成長を支えてくださいます。

この福音宣教について、同じ「奉献生活」の中で、教皇ヨハネパウロ二世は次のようにも指摘し、奉献生活者の福音宣教への貢献についてこう述べられます。
 「外に現れる活動以上に、宣教は、個人的なあかしによってキリストをこの世に示すことのうちに存在します。これは挑戦であり、これこそ奉献生活の第一の務めです。奉献された人々がキリストにいっそう似たものとなるよう努めれば努めるほど、キリストはすべての人の救いのために、この世においていっそうはっきりと現れ、活動するのです」

したがって、この修道院の中で生活する会員の皆さんは、隠れて籠もっているのではなく、徹底的にキリストに従うその生活のあかしを通じて、共同体としてこの場でキリストを社会に向けてあかしをすることで、教区における福音宣教に直接に貢献してもるのです。

その意味で、心からこの30年のこの地でのあかしの生活に感謝申し上げますし、これからも新潟教区を霊的に支え、私たちに信仰生活の模範を示し、社会に対してキリストをあかししていってくださいますように、お願い申し上げます。

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さて、私たちが福音をあかしし伝えていかなければならない社会は、いまや「いのち」が危機に瀕している社会であります。近隣の国との緊張関係の中で、今にも戦争が始まるのではないかという危機感が煽られてもいますが、紛争状態が続き難民が大量に発生している地域もあります。武力紛争や戦争は人間のいのちを暴力的に奪い取る行為として、教会は常に反対の意志を表明してきました。ちょうど8月のこの時期は日本の教会にとって平和を考えるときですが、私たちは広島を訪問されたヨハネパウロ2世の平和メッセージのこの一説を思い起こしたいと思います。
 「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものではありません。イデオロギー、国家目的の差や、求めるもののくい違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。人類は、紛争や対立を平和的手段で解決するにふさわしい存在です」

戦争や紛争の状態に直接巻き込まれてはいない者の、私たちの国においても、いのちが危機に瀕していることには変わりがありません。そういった現実を踏まえて、司教団は先頃、「いのちへのまなざし」というメッセージを改定して発表しました。神から賜物として与えられたいのち、神の似姿として善いものとして創造された人間のいのち。その尊いいのちと人間の尊厳が、ないがしろにされるような事件が起こったり、状況が発生したりしています。

その最たるものは、昨年相模原で起こった障害と共に生きる人たち19名を殺害した事件です。犯人の青年の、障害のある人たちを役に立たない存在と決めつけ、社会から無駄を省くために彼らを抹殺することを良しとする思想や価値観には、同意できるところはまったくありません。しかしそれ以上に、その考え方に賛同する人たちが、今の日本の社会に少なからず存在することも、今回の事件は明らかにしました。独りの特異な人物の突出した考えなのではなく、ある一定数の人たちの心の底にうごめいているいのちへの価値観が浮き彫りになりました。

人間のいのちは、その存在自体が価値あるものであって、役に立つのか立たないのかで、その存在を判断されるのではないということを、わたしたちは、この社会の現実の中で伝えていきたいと思います。

人間のいのちが存在しなければ、当然人間による共同体は存在せず、共同体が存在しなければ、福音を伝えることにも意味はありません。したがって、いのちを守ることはすべての根本にあることがらであると思います。

いのちが危機に瀕しているこの社会であるからこそ、私たちは勇気を持って福音をあかししていかなければなりません。

聖クララ会の会員のみなさまには、これからも主の福音をあかしする存在として、新潟教区のみなの模範となり、その霊的生活を通じて、教区全体の福音宣教を支えてくださるようにお願い申し上げます。ともに、この社会の直中で、いのちの福音をあかしして参りましょう。

 

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