« 聖クララ会、上越高田で30年 | トップページ | 横手教会司牧訪問@秋田地区 »

2017年8月15日 (火)

聖母被昇天祭ミサ@新潟教会

Assump1702
本日は聖母被昇天祭でありました。また終戦記念日でもあります。第二次世界大戦で亡くなられた多くの方々の永遠の安息を祈り、聖母マリアの取り次ぎによって、神の平和がもたらされるようにと、ミサに参加してくださったみなさまとお祈りいたしました。

Assump1704
全国各地ではっきりとしない天気の日であったようですが、珍しく新潟市内は雨も降らず、お昼頃には青空も見られました。それでも気温は30度に達せず、思いの外涼しい8月15日でした。

Assump1706
ミサ後には、新潟教会では恒例ですが、バーベキューパーティー。子どもたちも参加してくれたことですから、定番のスイカ割りも行われ、短い時間でしたが楽しい夏のひとときを過ごすことができました。準備してくださったみなさま、そしてこの暑い中、鉄板の前でバーベキューに取り組んでくださったみなさま、感謝します。またタルチシオの霊名にあたり、霊的花束を贈ってくださった多くの教会の方々に、心から感謝いたします。私は、ヤコブ書5章16節の言葉、すなわち「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」を、信じています。お祈りに感謝。

Assump1707
以下、本日のミサ説教の原稿です。

東北の大震災の後、わたし自身もしばしば口にするのですが、「忘れない」という言葉が繰り返されてきました。確かに、カリタスジャパンでの経験からいっても、世界の様々な地域で、大きな災害などの被害に遭われ復興に取り組んでおられる方々や、紛争によって家を追われ避難生活を続けておられる方々の口から、「忘れないでほしい」という願いを聞かされることがしばしばあります。

困難に直面し苦悩のうちにも生きる道を模索するとき、だれからも助けの手が差し伸べられず孤立するのであれば、人間の心から希望が奪いとられてしまいます。「忘れないでほしい」という願いは、単に記憶にとどめておいてほしいという願いではなく、ともに寄り添って歩んでほしいという願いであります。それは神によってともに支え合って生きるようにと私たちのいのちが創造されているからこそ、当然の心の叫びでもあります。

イエスご自身が最後の晩餐において御聖体を制定されたときの言葉、すなわち「私の記念としてこれを行いなさい」こそは、私たちの信仰が「忘れない」ということに基づいていることを思い起こさせます。それは、単にイエスという存在を記憶にとどめておいてほしいという願いではなく、御聖体の秘跡にあずかることによって、常に主ご自身と歩みをともにするようにという招きでもあります。それは単なる過去の記憶ではなく、その出来事を今の視点からあらためて理解し、あらためてその出来事を今生きようとすることです。その意味で私たちの信仰は、「忘れない」信仰です。

旧約聖書のイザヤ書には、神ご自身の「忘れない」姿勢がこう記されています。
「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける」(49章15節)

ここでイザヤの預言は、「忘れない」ということは、単に記憶にとどめておくことだけではなく、さらには寄り添い歩みをともにすることにとどまるのでもなく、それをはるかに越えて相手の存在を自分の心に深く刻みつけることなのだといわれます。私たちの「忘れない」信仰は、そこまでの徹底的な生き方を求めています。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」の終わりの部分で、聖母マリアについて考察を加えています。その中で次のように述べられます。
「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります」

その上で教皇は、本日の福音に記されたマリアによるエリザベト訪問を取り上げ、次のように記します。
「マリアは、祈りかつ働くナザレの女性であり、すぐに動かれる聖母、人に手を貸すために自分の村から『急いで』出かける方です。正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」

聖母マリアは、ただ単に忘れないだけではなく、またその存在を心に留めているだけでもなく、思いもよらない人生の転換で不安にあったエリザベトのもとへ、ともにいるために出かけていかれました。しかも自分自身も、思いもよらない神からのお告げを受けて、人生が大きく転換するという出来事の中で翻弄されていたときに、自らの都合はさておき、手を貸すために出かけていかれた。そのマリアの「他者に向けて歩む力」を、教皇様は、「優しさと愛情の革命的な力」と表現されています。そして福音の中でエリザベトは、そういったマリアの生き方を表現して、マリアこそは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」なのだといいます。私たちの「忘れない」信仰は、革命的な力強さを持った信仰です。

1981年に広島を訪問された教皇ヨハネパウロ二世は、平和メッセージの中で、「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と四回も繰り返され、核兵器の廃絶と戦争のない平和の確立を訴えられました。

8月15日に私たちは毎年、第二次世界大戦の悲劇を思い起こしながら、敵味方に分かれた双方の亡くなられた方々の永遠の安息を祈り、平和への誓いを新たにしています。残念なことにいま、東アジアのこの一角では、以前にも増して核による攻撃への恐怖が増し、あたかも武力攻撃が不可避であるかのような論調さえ聞こえてきます。その現実の中で、「忘れない」信仰に生きているわたしたちは、教皇ヨハネパウロ二世の呼びかけに応えて、「過去を振り返り」、その上で将来に対してどのような責任をとる行動を今とるのか考えなくてはなりません。

平和メッセージで教皇はこう呼びかけました。
「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものではありません。イデオロギー、国家目的の差や、求めるもののくい違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。」

教会はこの現代社会にあって、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力」を聖母マリアに倣って生き抜かなくてはなりません。教会は、過去の悲しい記憶を、ただ単に忘れないだけではなく、その意味を現代の視点からあらためて理解し、将来へ向かって責任ある歩みを進めるようにと、社会に対して呼びかけなくてはなりません。

教会はこの現代社会にあって、紛争や混乱した状況が続く世界各地の人々に心を留め、常に寄り添って歩み続けることを示さなくてはなりません。

教会はこの現代社会にあって、虐げられ、忘れられ、孤立し、排除されている人々に、いのちの創造主である神が一人ひとりの名をその手のひらに刻まれているのだということを、伝えていかなくてはなりません。

聖母マリアの生き方が、私たち一人一人の生き方となりますように。勇気を持って「忘れない」信仰に生きることが出来るように、神様の導きを願いましょう。
 

|

« 聖クララ会、上越高田で30年 | トップページ | 横手教会司牧訪問@秋田地区 »

司教の日記」カテゴリの記事