長崎は、雨で寒かった@宗教改革500年
11月23日は、長崎の浦上カテドラルを会場に、宗教改革500年を記念した日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会の共催の行事が行われましたので、前日から二日間長崎へ出かけてきました。
11月22日の長崎は、雨でした。長崎には、確かに雨が似合うけれど、でも晴れてほしい。祈りが通じたのか23日は晴れてはいましたが、「これが秋の長崎か」と思うほど寒い一日でした。
雨の中、久しぶりに平和公園に登ってみました。下の表通りから一番上まで、屋根付きのエスカレーターができていたのには驚きましたが、おかげで雨の中でも難なく平和祈念像の前まで。平和公園といい、爆心地といい、訪れるたびに、いろいろと考えさせられる場所です。敵対する勢力の武力の衝突が、画面やスクリーンや写真の中での出来事ではなく、自分自身の生身を巻き込んで実際に起こるということを、具体的に想像できる力が人間にはあるはずで、その痛みや恐怖や悲しみを具体的に想像できるのであれば、そうはならない道を必死になって模索しようとするのではないだろうか。
戦争や武力衝突の具体的な現場に立つ時、それがどんな結果になってしまうのかを仮に知っていたのなら、何か違う道を必死で求めることができたのではないかと、いつも思います。
結局のところ歴史はあらゆる選択の結果でしかないので、後の時代に当時の選択の誤りを指摘するのは簡単なことで、そのときを生きていた人たちは最善と信じて選択をした、と信じたいのですが、しかしその選択が招いた悲惨な結果を考える時、やはり異なる道もあったのではないかと、どうしても思うのです。
後になって歴史を振り返れば、悲劇が起こるためのきっかけとなる決定的な出来事が指摘されたりするのでしょうが、でもその中に生きている時には、その出来事が決定的だなどとは感じることもなく、普通に時間が流れ、気がついたら悲劇の直中に引きずり込まれていたというのが実際のところでしょう。その意味でも、流されて生きるのではなく、時の流れにしっかりと目をこらして、悲劇的な選択をしてしまう前に、どうにかする努力を怠らないようにしたいと、あらためて思います。
そして今回の宗教改革500年の記念合同行事のテーマは、「平和を実現する人は幸い」。長崎にふさわしいテーマでした。
行事の詳細は、中央協議会のサイトに報じられているので参照下さい。リンクです。
午前中はシンポジウム。浦上教会の方々が提供して下さった全員の昼食後、合同礼拝。ルーテルからは立山忠浩牧師(日本福音ルーテル教会総会議長)が、カトリックからは髙見三明大司教(長崎教区/日本カトリック司教協議会会長)が説教をされました。ルーテルの牧師先生たちも、カトリックの司祭団も、どちらも白いアルバに赤いストラでしたので、内陣にずらりと並んだときには、誰がルーテルで誰がカトリックかは見分けがつきません。その意味でも、分裂と対立を乗り越えて、キリストの一つの体を生み出していこうとする両教会の姿勢が、目に見える形で現れたのではないでしょうか。
当日のビデオを見ることもできます。スライダーを進めれば、どんどん途中を飛ばしてみることもできます。わたしも後半の合同礼拝の説教の後で、ルンドの共同声明を、カトリック代表で、大塚司教とともに、朗読させていただきましたので、そこに登場します。(4:17:20あたり)
あの広い浦上のカテドラルが、ルーテルとカトリックの方々で、一杯でした。
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