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2017年12月24日 (日)

主の降誕、クリスマスおめでとうございます

東京教区の皆様

新潟教区の皆様

主の降誕のお喜びを申し上げます。

着座式直後の日曜日には、荻窪教会でミサを捧げることができましたが、今日の主の降誕の祝日は、着座式以降初めてとなるカテドラルでのミサ司式です。さすがに緊張しました。さすがに東京です。さすがに関口教会です。ものすごい人です。しかもミサが夕方5時、7時、10時、深夜零時と4回もあり、しかも午前中は待降節第4主日であったわけですので、主任と助任のお二人は、フル回転です。私は、今夜は7時のミサを、そして明日の日中は10時のミサを担当させていただきます。また今日の日中は、韓人教会の皆さんのクリスマスのお祝いにも参加することができました。

今夜の7時のミサで感動したのは、もちろん参加者が(信徒とそれ以外の方々)ものすごく多いことや聖歌隊がたくさんおられることでもありますが、それ以上に、侍者をつとめる子どもたちと青年がたくさんいること。

というわけで、今夜の夜半のミサの説教の原稿です。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」

 お集まりの皆さん、主の降誕、クリスマスおめでとうございます。

クリスマスと言えば、パーティなどのお祝いが欠かせません。それも、明るい昼間よりも、夜、暗くなってから行われるお祝いの方が、いかにもクリスマスという感じを受けます。それはたぶん、クリスマスには明るく輝くイルミネーションがつきものであり、そのイルミネーションが輝くためには、暗闇が必要だからなのかもしれません。

でも実は、イエスの降誕という出来事と、暗闇との間には、意味のある関係が存在します。それはただ単に、イエスが誕生したのが夜だったと、先ほど朗読された福音書に記されているからではありません。イエスが誕生した意味、そしてその過去の出来事が現代社会に生きている私たちにいま語りかけていること、それを明らかにするのは暗闇であり、その暗闇を支配する静寂であり、その闇と静寂のうちに小さく輝く光であり、ささやく声であります。

わたしは昔、30年ほど前、まだ若い神父であった時に、アフリカのガーナという国の山奥の教会で働いていました。8年間働いていた村は、今でもそうなのですが、電気が通じていない村です。近頃は、近隣の村には電気が通じたと聞きましたが、30年前は、大きな町に行かないと電気は通じておりませんでした。

電気がないところで暮らしていると、夜の闇の深さを肌で感じます。そういった村での明かりは、昔ながらの灯油のランタンであります。小さくか細い光を放つランタンですが、深い闇の中では、そんな小さな明かりも力強く輝いているように感じられます。

夜の道を歩かなくてはならないときなど、懐中電灯の光を頼りに道を探りながら山道を進んでいるとき、月が出ていなければ、周囲を包み込む暗闇は心に不安を生み出します。いったいこの先はどうなっているのか。目的の村はどこにあるのか。暗闇の中で、自分の心の疑心暗鬼に翻弄され、不安に駆られるとき、道の先に小さなランタンの明かりが見えたときの安心感。軒先に掲げてあるランタンです。小さな光ではありますが、暗闇が深ければ深いほど、どれほど小さな光であっても、不安と恐れを取り払い、小さいながらも希望と喜びを感じさせる光であります。

第一朗読のイザヤの予言は、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」としるし、将来の救い主の誕生を告げ知らせます。ところがその「大いなる光は」、福音書に記されていたとおり、小さな生まれたばかりの幼子としてこの世界に現れたのです。

小さないのちは、まさしく暗闇に輝く小さな光。しかし闇が深ければ深いほど、その小さな光であっても、大きな希望の光となり得るように、この小さないのちは、不安と疑心暗鬼の深い闇が広がる現実社会のただ中で、大きな喜びと希望の光となるのです。

「いのち」は、神から与えられた、贈り物、「たまもの」です。神は、人類に喜びと希望を与える光を、小さないのちとして誕生させることで、一人一人に与えられたいのちが、同じ可能性を秘めていること、そしてそのためにこそ、一人一人のいのちがかけがえのない大切なものであることを示されました。 一人一人のいのちは、世界全体と比較すれば小さいものかもしれません。でもその小さないのちは、闇の中に小さな光を輝かせることができる。そしてそれは、世界全体に対する喜びと希望の光となり得る。だからこそ、一人一人は例外なく、神の目にあって大切なのだと、教えています。

私たちが生きている現実は、残念ながら素晴らしいことばかりで満たされているわけではありません。そこには様々な意味での暗闇が存在します。その暗闇の中で、一人一人が真摯に小さな光を輝かせること。それがクリスマスの神からの呼びかけです。

その晩の暗闇の中、野宿をしていた羊飼いたちに現れた天使は、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美していった、とも福音には記されていました。小さく輝く希望の光へと導く声であります。

私たちが生きている現実は、様々な音で満ちあふれております。それは物理的に実際に鳴り響く音であったり、私たちの心を奪っているありとあらゆる情報という音でもあります。様々な音に支配され、静寂からはかけ離れた現実に生きている私たちは、ともすれば、希望の光へと導く声を聞き逃しているのかもしれません。クリスマスの出来事が私たちを招くもう一つのことは、静寂のうちに耳を澄ませてみることでもあります。それは実際に静かにするということ以上に、心を落ち着けて、神の声に耳を傾けようとする姿勢のことであろうと思います。イエスがご自身であるとまで言われた、困難に直面して助けを求めている人たちの声は、やはり社会の騒音の中に隠されてしまいます。助けを求める小さな声は、神からの呼びかけの声でもあります。心の静寂のうちに耳を澄ませることを忘れずにいたいと思います。

天使たちは、御心にかなう人に平和があると告げました。平和の実現した世界、すなわち神の望まれる秩序が実現している完全な世界を生み出すことこそが、「御心に適う」ための私たちに与えられた使命ではないでしょうか。 御心に適うこととは、神が賜物として与えられた、この一人一人の小さないのちを、徹底的に大切にし、互いに助け合い、支え合いながら生きることに他なりません。

困難な社会の状況の中で、対立ではなく、排除ではなく、憎しみではなく、互いに理解を深め、支え合い、絆を強めあいながら、神からのたまものであるいのちがすべからく大切にされ、それぞれが豊かに生きることのできる世界を生み出して参りましょう。助けを求めているちいさな声に、耳を傾ける努力を怠らないようにいたしましょう。

幼子イエスの小さく輝く光。今宵のミサでその光を私たちの心にともし、暗闇の中でそれ光を輝かせて参りましょう。

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