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2018年1月31日 (水)

2月の予定など

あっという間に1月は終わり、2月になります。東京で仕事を始めてから、多くの方から面会のリクエストや,教会訪問のリクエストをいただいています。リクエストは、どうぞ、東京教区本部事務局にお願いいたします。事務局長がお話を伺い、相談の上、お返事いたしますので。

2月の主な予定を,ご参考までに記しておきます。

  • 2月2日から4日 司教団公式巡礼、高山右近列福感謝ミサ (マニラ)
  • 2月5日 東京教区責任役員会
  • 2月6日と7日 カリタスジャパン援助部会
  • 2月8日 常任司教委員会、神学院常任委員会
  • 2月10日 札幌教区司教館本部竣工式 (札幌)
  • 2月12日 那覇教区司教叙階式 (沖縄)
  • 2月13日 カリタスジャパン会議
  • 2月14日 灰の水曜日、カテドラル関口教会ミサ (10時)
  • 2月15日 新潟 聖母学園理事会 園長会 (新潟)
  • 2月16日 仙台教区サポート会議 (仙台)
  • 2月18日 新潟 共同洗礼志願式ミサ 新潟教会9時半
  • 2月19日から23日 定例司教総会 (潮見)
  • 2月26日 東京、司祭月例会、平和旬間会議
  • 2月28日 東京、生涯養成委員会

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マリア会創立200周年アジア・シンポジウム

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司祭に叙階されてからまもなく32年になります。東京大司教に着座してからのこの一ヶ月半は、その32年間で「最多忙」と言っても過言ではないほどに忙しくしています。わたしは「忙しい」と口にするのがあまり好きではないのですが、さすがにこの一ヶ月半は,忙しくて目が回りそうです。

一番の理由は、東京へ移ることが決まる遙かに以前から約束していたことと、東京に移ったことで新しく取り組まなくてはならないことと,当分兼任している新潟教区の事柄の三つが,絶妙に絡み合ってしまっているためです。そのため、2月半ば頃までは,この超多忙な状態が続きそうであります。

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その遙か以前から約束していたことのひとつが、1月半ばに行われたマリア会創立200周年のアジア地域シンポジウム。すでに2年も前から,マリア会の日本の責任者である青木神父様を通じてローマの本部から、このシンポジウムで話をするように依頼を受けていました。(上の写真は、会議参加者を迎えてくれた,現地の修道会志願者たちのダンス。ちなみにこの修道院の院長は韓国から派遣されてきたシスターでした)

マリア会は,東京ではたとえば暁星学園などの運営母体です。マリア会のホームページにはこう記されています。

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「マリア会は、福者ギョーム・ヨゼフ・シャミナード神父によって1817年10月2日フランスのボルドー市において創立された、ブラザーと司祭から成る国際的な男子修道会です。

日本においては、今日まで主に教育の分野で活動し、暁星学園(東京)、海星学園(長崎)、明星学園(大阪)、光星学園(札幌)の経営母体として、教育の場を通しての信仰教育と信仰共同体の育成をめざして、教会に奉仕してきました。」(上の写真は,会場の修道院の聖堂前にある福者シャミナード神父の御像のまえで)

そして今回初めて知りましたが、このマリア会のファミリーには、女子の修道会もあり、今回のシンポジウムにも参加されていました。それが、汚れなきマリア修道会。東京では、調布で晃華学園の経営母体です。

さらにマリア会のファミリーには信徒の方々による,信徒マリアニスト共同体があり、日本にも会員がおられ,今回の集まりに代表が参加されていました。

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シンポジウムの会場は,インドのラーンチーにある汚れなきマリア会の修道院。(上の写真)ニューデリーとコルカタ(カルカッタ)の間で,コルカタに近い方にある町ですが、カトリック教会では大司教区で、教区長はテレンス・トッポ枢機卿。ちなみに補佐司教のビルン師は,わたしと同じ神言会員です。

ここで、カリタスアジアの体験から、貧困の撲滅と福音宣教の可能性について、1時間半ほど英語でお話をさせていただきました。

参加者は,インドを中心に,日本、韓国、ベトナムから40名近く。日本語と韓国語の同時通訳を会員の方がしておられました。

わたしの話の後には国別に分かれてグループディスカッション。マリア会のこれからの活動のために,様々な新しいアイディアが分かち合われていました。

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わたしが講演した翌日は,インド人の神学者であるジェイコブ・パラパリィ神父の講演。アジアの現実の中で、諸宗教、そして諸文化の人々とどのように対話するのか。わかりやすく示唆に富んだ講演でした。

日本からはニューデリーまで直行便(エアインディアで飛びました)で10時間。その後乗り換えて国内線で3時間。インドだから暑いかと思いきや、北部はこの時期寒い。しかも会場の修道院には暖房がない。日本の今の時期の格好でぴったりでした。

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2018年1月15日 (月)

『「真の喜び」に出会った人々』刊行

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先日、東京での着座式に合わせて、オリエンス宗教研究所から本を出していただきました。

タイトルは、『「真の喜び」に出会った人々』で、B6版144ページ、税別で1,200円です。一冊お買い求めいただけたら幸いです。

この本は,先に,オリエンス宗教研究所から毎月発行されている『福音宣教』誌に連載された記事をまとめたものです。11回の連載で、わたしが直接知っている方々を中心に、福音の喜びに触発されて信仰の証しに生きている方々を紹介する内容です。

ほとんどの方が,ガーナでの宣教活動や,カリタスジャパンの仕事を通じて出会った人たちです。わたしの人生の歩む方向に,大きな影響を与えた人もいます。新潟教区の米沢の53福者殉教者や,福者オルカル・ロメロ大司教のような歴史上の人物もいますが、すべて何らかの形で,わたし自身とつながっている人たちです。

連載当時は、年に11本ですから、毎月締切り間近になると,苦しんでいたことを思い出します。想像では書けないので、存命の場合はご本人にメールを出したり、関係者にメールを出したり。かなり余裕を持ってメールを出しているのですが、なかなか返事がなくて気をもんだり、さらには返事がない場合に備えて,記事にはならなかった複数名の方に予備のインタビューをしておいたりと、編集部からの企画でしたので、間に合わせるのに苦労したことを覚えています。

本の表紙は、ガーナで働いていた30年前、一緒に苦労したカテキスタのデュマス氏と,一緒にいつも訪問していた病弱なダニエル氏のツーショット写真から、編集部が作成してくれました。二人の話も、もちろん本の中に記されています。

このデュマス氏の息子さんは,当時小学生で,わたしの教会の侍者をしていましたが、いまでは神言会の神父になって,日本管区で働いています。またこの本に登場するガーナのクモジ司教と、コンゴのチバンボ神父は、先日の東京での着座式に参加してくれました。

いろんな人がいて,いろんな状況の中で,いろんな生き方で,福音を証ししている。お互いに出会ったことのない人たち、生きている時間も異なる人たちは、それでも一致しているのです。福音に真摯に生きようとする姿勢において、多様性の中で一致している、神の民の一員です。

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2018年1月14日 (日)

少しずつ、前進、漸進

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この数日、新潟は大雪で、普段はそれほど雪が積もらない新潟市内でも、あまりの積雪に車が埋まったりして、新潟教区本部も臨時休業となったと、連絡をいただきました。普段あまり降雪がない分、新潟市内は,実は大雪には備えが手薄だったりして、こんなにどかんと降ると大変なことになります。一晩中、電車に留まることになった方々は,本当に大変だったと思います。東京でも何度もニュースで流れました。

とは言いながら、わたしは東京にいるわけで、大雪の新潟では全く考えられないほどの薄着で過ごしております。もちろん東京もそれなりに寒いことは寒いのですが、今朝、日曜の朝など、ジャケット一つでカテドラル構内を歩いていられるほどの暖かさ。考えられません。

で、朝からカテドラル構内を歩いていたのは、福島野菜畑の柳沼さんが、野菜などの販売に来られていたので、ご挨拶に。新潟でも,いくつかの教会で,福島野菜畑の活動に協力をしていますが、東京の関口教会では,月に二回ほど,定期的な販売があると聞きました。

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柳沼さんによれば、教会の方々もそうですが、これまで何度も来ているので,顔なじみになった地元の方が常連さんのように購入してくださるそうで、そのため早朝からテントで開店しておられました。二本松から車で3時間ほどかけて来られます。大変な努力をしながら、福島の野菜を販売し続けることで、多くの方が福島を忘れずその現実に直接目を向けてくださるようになればと,心から願います。これからもできるだけ,柳沼さんたちの活動を応援していきたいと思います。

東京教区に着座して,ほぼ一ヶ月です。よくアメリカの大統領なんかが就任すると,ハネムーンの100日とか言われます。その間は,多少の試行錯誤は許されるが、100日を超えたら結果を出すことが求められるという意味でしょう。そうなると、100日は、聖週間が始まる3月25日の週ですね。うーん。努力します。

でも少しずつですが、前進、いや漸進しております。

昨日、1月13日の土曜日には,初めての宣教司牧評議会を開催しました。宣教司牧評議会は,新潟教区にもありますが,教区によってその活動内容が異なっています。東京の宣教司牧評議会は、それぞれの宣教協力体からの代表の信徒の方で主に構成され、司祭評議会の代表も加わると伺いました。もっとも司祭評議会はまだ開催されていませんので、今回は司祭の代表は不在。それでも、司教が福音宣教の方向性を定めるために、各現場の現状からの報告や提言が活発になされる、教区司教を支えてくれる組織であると、今回の初めての宣教司牧評議会で感じました。なるべく多くの声をお聞きしたいというのがわたしの願いですので、これからも様々な課題について、信徒の方々の声を届けていただければと思います。

新潟教区では,宣教司牧評議会は一年に一度しか開催できませんでしたが、東京教区では,隔月で,年に6回の開催。回数の多さに,さすが大都会と驚きましたが、ありがたいことです。

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どのくらいの頻度で,カテドラルでのミサを行うのか,何かまだ模索中ですが、すでに決まっている東京カテドラル関口教会での次回のわたし司式のミサは、灰の水曜日、2月14日午前10時の予定です。なるべく頻繁に、機会を見て、カテドラルでのミサも捧げたいと思います。

なお新潟教区では、また小教区には改めて教区本部からご案内しますが、四旬節第一主日の共同洗礼志願式を,今年もわたしの司式で,新潟教会で行います。今年は、2月18日(日)の午前9時半です。

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2018年1月 9日 (火)

東京教区新年の集いミサ@カテドラル

昨日1月8日は、カテドラルの関口教会で、午後2時から、教区の新年の集いのミサが行われました。ミサはわたしが司式し、30名を超える司祭が共同司式してくださいました。聖堂も、教区内各地の小教区共同体の方々が大勢駆けつけてくださり、設置してある座席はいっぱいでした。(あれで、実際は何名くらい座れるのでしょう。そのうち調べてみます)

またミサの後にはケルンホールを会場に茶話会が開催され、教区内の多くの方からご挨拶をいただきました。おいでくださった方々に感謝します。また準備してくださった宣教司牧評議会の皆さんにも感謝申し上げます。

以下昨日のミサの説教の原稿です。

大司教として着座をし、東京教区の牧者としての務めを任されて、まだ一月もたっていません。ですからわたしにとって、新しく始まったばかりのこの一年は、東京教区の全体像をしっかりと理解する一年になろうかと思います。できる限り多くの方にお話を伺う一年としたいと考えています。

とはいえ、東京教区の教区共同体はその間も眠っているわけではなく、生きているキリストの体として歩み続けております。年の初めに当たり、教区共同体全体として、どこを向いて歩みを進めようとしているのか、その方向性だけでもお話ししようと思います。

ご存じのようにわたしの司教職のモットーは、「多様性における一致」であります。一般的に考えて、多くの人が集まって生きている社会には、必然的に多様性が存在しています。一人一人が異なる人間であるから当然であります。ですから、人が多く集まるところには、必然的に何かしらの多様性があります。

私たちの信仰は、旧約の時代から新約の時代に至るまで、わたしと神との関係を基礎にしつつも、常にその個人的な神との関係は共同体の中で生き、はぐくまれ、実践される信仰であります。まさしく、神の民という言葉が表しているとおり、私たちの信仰は共同体と切り離せない関係にあります。

多くの人が集まったこの信仰共同体を一致させるのは、皆が同じように行動するといったたぐいの外面的な同一性ではなく、同じキリストに結びあわされて生かされているという意味での同一性であります。

わたしが、「多様性における一致」というモットーに掲げている一致は、一見それぞれがばらばらに生きてはいるのだけれども、それぞれが唯一のキリストにしっかりと結びあわされて生かされ、共同体全体としては神に向かって歩んでいる、そのような一致であります。

ですから問題は、教区共同体の皆が、しっかりと同じキリストに結びあわされて生かされているのかどうかであります。わたしたちは、自分が出会ったことのないキリストに結ばれることはありません。教皇ベネディクト16世がしばしば強調されていたことですが、私たちの信仰にはキリストとの個人的な出会いが不可欠です。キリストとの出会いは、「個人的な出会い」と言いながらも、それは決してわたし個人のためだけなのではなく、皆が同じキリストに結ばれるようにと、共同体全体のために不可欠なことであります。

教区共同体全体が多様性の中に一致することができるように、まず第一に、一人一人が個人的にキリストと出会うことができるように、祈りと学びを深めていきたいと思います。

その意味でも、今生きている神の御言葉に、しっかりとつながっていることは重要です。聖書に親しみ、同時にミサの時に朗読される聖書に記された神の言葉を、是非とも大切にしていただきたいと思います。それは昔記された格言集なのではなく、告げられたときに今生きている神の言葉であります。ミサの聖書をよりよく朗読し、また神の求められていることを知るようにと耳を傾けることは大切であります。

「わたしの口から出る言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と預言者イザヤに語らせた神の思いが、今実現するように、私たちは神の言葉を通じて示される神の使命を知り、その実現に寄与する生き方を見いだしたいと思います。

教会は、誰かが経営をしているお店にお客さんがやってくるようなそういう存在ではなく、その共同体に属するすべての人によって成り立つ存在です。それは教区共同体も、小教区共同体も同じことであります。信徒、司祭、修道者が、それぞれ共同体の中で役割を果たし、責任を分担していくことで、一つの体は成立いたします。その意味で、継続した信仰養成は重要であり、そのためのリーダーには、信徒の方々にも積極的に関わっていただきたいとわたしは思います。できる限り多くの方の協力を得られる道を、これから模索したいと考えています。

日本の司教団は、昨年、「いのちへのまなざし」のメッセージの増補新版を発表いたしました。私たちが生きているこの社会には、国家間の関係に始まり、身近な地域の関係まで含めて、様々な不安要素が存在し、私たちはある意味、先行きの明確ではない暗闇の中を手探りで進んでいるような漠然とした危機感の中で、何かしらの不安を抱えて生きております。そのような現実の中で、人間のいのちは、様々なレベルでの危機に直面しております。現実の紛争やテロの中で失われていく多くのいのち。国境を越えて移動する中で危機に直面するいのち。そうかと思えば、私たちの国でも、障害と共に生きている方々を殺害することが、社会にとって有益なのだと主張し、実際にそれを実行する人物が現れ、加えてその行為を肯定する人たちの存在すらも浮かび上がりました。

神からの賜物であるいのちの価値を、人間が決めることができるのだという考えは、神を信じている私たちにとっては、人間の身勝手な思い上がり以外のなにものでもありません。

世界の様々な現実の中で、多くのいのちが危機にさらされている、その背景には、世界が暗闇に取り残されてしまった不安から生じる自己保身と、その結果としての自己中心、利己主義が横たわっております。異質な存在を排除し、自分たちの周囲のこと以外には無関心になって目をつぶる。そのような自分中心の世界の中で、神からの尊い賜物であるいのちは、様々なレベルの危機に直面しております。

マルコによる福音に記されている洗礼者ヨハネは、主イエスを評して「わたしより優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履き物のひもを解く値打ちもない」と述べています。その言葉は、主イエスが優れているのだという宣言である以上に、洗礼者ヨハネの自己理解がいかに謙遜であり、自己中心ではないのかということを明確にしています。

わたしたちは、この世界では人間ではなく神が中心なのだと主張したいのです。洗礼者ヨハネのように、わたしではなく神こそが中心なのだと主張したいのであります。しかしそう主張するためには、この現実のなかで多くの困難が伴います。ですから、皆さんの力が必要なのです。

教会に属する多くの方が、それぞれの生きておられる現場で、それぞれの方法で、この利己的な価値観にあらがう活動を続けておられます。是非とも教区内のそういう力を結集し、ばらばらに個々人がではなく、教会が全体として、この社会の中にあって暗闇に輝く希望の光となることを目指したいと思います。いのちの大切さを説き、私たちの人生には本当の希望があるのだと主張する。社会の中にあってそういう光り輝く教区共同体であってほしいと思います。失敗を恐れずに挑戦してみましょう。教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」に記された言葉を引用して終わります。

「私は出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さ故に病んだ教会より好きです」(EG49)

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2018年1月 7日 (日)

東京教区修道女連盟@麹町教会

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昨日、1月6日の土曜日、東京教区修道女連盟の新年の集いが、麹町教会(イグナチオ教会)を会場に開催されました。300人を超える修道女の方々が、集まってくださいました。

いやあ、さすがに東京教区です。こんなにシスターがたくさん集まっているのは、あまり見たことがありません。

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実は、元々この集まりのために講演を頼まれていました。まだ新潟の司教であったときです。そのときの予定では、9時半からのミサを岡田大司教が司式され、その後の講話をわたしが担当することになっていたのですが、その後、わたしが東京の大司教に任命されたため、今回はミサからわたしがすべて担当。岡田大司教からは、シスター方のこれまで17年間の祈りと協力に感謝するメッセージが寄せられていました。

わたしとしては初めてイグナチオ教会でミサを司式いたしました。司教団の何かの行事で共同司式したことはありますが、自分でミサを捧げるのは初めて。大きな聖堂であることをあらためて実感しました。

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ミサ後は昼食を挟んで一時間の話を3回、都合3時間、カリタスジャパンの活動やガーナでの宣教活動を通じて学んだ、福音宣教とは何かについて、いろいろとお話しさせていただき、また国際カリタスが現在進めている難民と移住者のためのキャンペーンについて、説明もさせていただきました。日本ではカリタスジャパンと難民移住移動者委員会が共催で、「排除ゼロキャンペーン」として実施中です。詳しくはカリタスジャパンのホームページを

以下昨日の説教の原稿です。

先日東京の大司教に着座したばかりで、早速修道女連盟の皆さまとこのようにミサを捧げ、またお話をさせていただく機会を与えられたことに感謝申し上げます。

年頭ですから、この一年、2018年がどのような年になるのか、展望のようなことをお話しすればよいのか、などとも思いました。でもわたしは、政治や経済の評論家ではありませんから、世界の現実をざっくりと一刀両断にしてお話しできるだけの材料はありません。さりとて、牧者として任されることになった東京教区の今年の展望は、まだその全体像が把握できていないどころか、司祭評議会ですら開催しておらず、司教総代理をはじめとした様々な役職も今の段階では任命しておりませんので、もう少し時間をいただかないと、具体的なことはお話しできません。それでも、今の時代を肌で感じる中から、思うところをお話しさせていただきます。

ご存じのように、恒例の昨年の一文字の漢字は、「北」でありました。この漢字一字の選定にあたる日本漢字能力検定協会によれば、「北」を選んだのは、「2017年は、「北」朝鮮ミサイルの「北」海道沖落下や九州「北」部豪雨などの災害から、平和と安全の尊さを実感した年」であったからだといいます。

日本国内や近隣の地域との緊張関係にとどまらず、世界全体を見ても、「平和と安全」が脅かされていると感じる状況は、様々なレベルで存在しております。テロの脅威はなくならず、日本で報道されていないレベルで考えれば、各地で地域紛争は続き、加えて大国間の政治の緊張関係は、そのリーダーの存在とともに不測の事態すら招きかねない。その意味で、2018年は「平和と安全」をさらに希求しながらも、ある意味「混乱」のうちに過ごす一年となるのではないかと感じています。

混乱は、先行きが見通せない不安を生み出し、不安は希望を消し去ります。希望のない不安にいる人間は、疑心暗鬼を深めて参ります。疑心暗鬼を深めたとき人間は、少なくとも確実なものだけは守ろうといたします。確実なもの、それは自分自身の存在であります。すなわち、混乱の行き着く先は、自己保身であり、究極的には徹底した自己中心、利己主義であります。

そうであるにもかかわらず、人間は社会という共同体の中で生きていかなくてはなりません。共同体の構成員が自己保身を深めるとき、社会全体も自己保身的になってまいります。そのような社会にあっては、異質な存在は安定を損なう存在として、排除される傾向が強まります。

教皇フランシスコは、そういった社会の中心から排除される存在に、徹底的に目を向け手をさしのべようとする姿勢を明確にされてきました。

この1月1日の「世界平和の日」にあたって発表された教皇様の平和メッセージのテーマは、「移住者と難民、それは平和を探し求める人々」とされています。

ともすれば、移住者や難民は、社会の中の異質な存在として、安定と一致を乱すまさしく混乱の原因であるかのように見なされます。しかし教皇様はそれをあえて、「平和を探し求める人々」なのだといわれます。

教皇フランシスコは、メッセージの冒頭で、「平和を見いだすために」旅を続ける人々は、「いのちをかける覚悟で旅に出ます」と指摘され、その上で、「戦争と飢餓から逃れてきたすべての人々、差別や迫害、貧困、環境破壊のために祖国を去らざるをえないすべての人々を、いつくしみの精神をもって抱きしめましょう」と呼びかけます。

本日の福音は、主の洗礼の場面でありました。主イエスがヨルダン川で洗礼を受けられる前に、洗礼者ヨハネは「わたしは、かがんでその方の履き物のひもを解く値打ちもない」と述べています。その言葉は、主イエスが優れているのだという宣言である以上に、洗礼者ヨハネの自己理解がいかに謙遜であり、自己中心ではないのかということを明確にしています。

使徒ヨハネは、「御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません」と記して、私たちの求める真のいのちの源はどこにあるのかを明確に示します。

そしてこの二つの言葉は、私たちが生きている現実を支配する価値基準とは、かなり異なるものであります。

混乱の中で不安にさいなまれ希望を失い、異質な存在を排除して自己保身に走る社会は、自分にこそ世界の中心があるのだと主張します。命の源は自分が護っている好みにあるのだと主張します。そこではいつくしみですら、私が恵んでやるありがたいもの、わたしからのお恵みへと変質します。

そのような中で、私たちは、自分ではなく、いのちの源である神を信じようと主張します。世界はわたしを中心に回っているのではなく、わたしたちにいのちを与え生かしてくださる神を中心に回っているのだと主張します。神によって生かされているからこそ、その危機に直面している兄弟姉妹に手をさしのべなければならないと主張します。神からのいつくしみを受けて生かされているからこそ、そのいつくしみを分かち合わなくてはならないと、主張します。そしてそれは、結構努力を必要とする、しんどいことであります。

世界に新しい光を注いでくださった幼子イエスの誕生に励まされ、神のみ言葉を心に抱きながら、困難のうちにも希望を持って、いのちの与え主のいつくしみを、あかしして参りましょう。

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2018年1月 1日 (月)

神の母聖マリア、深夜ミサの説教

1月1日は、神の母聖マリアの祝日であり、また世界平和の日でもあります。今年は、東京カテドラル関口教会で、新しい年の始まりと同時に、深夜ミサを捧げました。聖堂内は、深夜にもかかわらず、ベンチ部分はいっぱいになるくらい多くの方がミサに与り、一年の始まりを祈りのうちに過ごしました。

以下、深夜ミサの説教の原稿です。

お集まりの皆様、新年明けましておめでとうございます。

新年の第一日目、これから新しい一年という時間を刻み始めるに当たり、教会はこの日を「世界平和の日」と定めています。かつて1968年、ベトナム戦争の激化という時代を背景に、パウロ六世が定められた平和のための祈りの日であります。

同時に、主の降誕から八日目にあたる今日は、「神の母聖マリア」の祝日でもあります。
神の御言葉、平和の王である主イエスは、聖母マリアを通じて私たちと同じ人となられました。八日目に「イエス」と名付けられた幼子は、聖母マリアの愛情のうちに救い主としての道を歩まれ、神の望まれる道を具体的に私たちに示されました。

新しい年の初めにあたり、聖母が信仰のうちにイエスと歩みをともにされたように、わたしたちも主の示される道をともに歩む決意を新たにしたいと思います。

今日、世界の平和を考える時、私たちは日本近隣を含め世界各地で見られる緊張状態や、この十数年間に頻発しまた継続している様々な地域紛争、残忍なテロ事件のことを考えざるを得ません。それ以外にも、全く報道されることのない、ですから私たちが知らない対立や不幸な出来事が、世界各地には数多く存在していることを思うとき、その混乱に巻き込まれ恐れと悲しみの中にある多くの方々、とりわけ子どもたちのことを思わずにはいられません。この新しい年を、希望の見えない不安な状況の中で迎え、いのちの危機にすら直面している多くの人たちに、私たちの心を向けたいと思います。

この新しい年には、日本をはじめとして、この地域の各国の指導者たちが、さらには世界の国々の指導者たちが、対立と敵対ではなく、対話のうちに緊張を緩和する道を見いだし、さらには相互の信頼を回復する政策を率先してとられることを期待せずにはおられません。一人一人のいのちが等しく大切にされる世界の実現に、一歩でも近づくように祈ります。

さて激しくグローバル化する世界では、様々な理由から国境を越えて移動する多くの人たちがおります。観光旅行に始まって、留学やビジネスや学術研究や医療など、人が移動し続ける理由は数限りなくありますが、そこには自分が積極的には望まない理由で移動をせざるを得なくなる人たちも多く存在しています。

一人一人のいのちが、神の前で等しく大切であり、誰一人として忘れられてよい人も無視されてよい人もいないのだと強調され続ける教皇フランシスコは、特に、様々な理由から母国を離れて移住するしか道のなかった人たちの、それぞれの心の悲しみと苦しみに目を向けられます。

本日の「世界平和の日」にあたって発表された教皇様の平和メッセージのテーマは、「移住者と難民、それは平和を探し求める人々」とされています。

ともすれば、移住者や難民は、平和を乱す混乱の原因であるかのように見なされます。しかし教皇はそれをあえて、「平和を探し求める人々」なのだといわれます。

教皇フランシスコは、メッセージの冒頭で次のように指摘されます。
「世界中に2億5千万人以上いる移住者と、その内の2250万人の難民について再び話したいと思います。わたしの敬愛する前任者、ベネディクト十六世が断言しているように、彼らは『平和のうちに過ごすべき場所を求める、男性、女性、子ども、若者、高齢者です』。彼らの多くは平和を見いだすために、いのちをかける覚悟で旅に出ます。その旅は多くの場合、長く険しいものです。そして彼らは苦しみと疲れに見舞われ、目的地から彼らを遠ざけるために建てられた鉄条網や壁に直面します。」

その上で教皇は、聖ヨハネパウロ2世の言葉を引用してこう記します。
「もし、すべての人々が平和な世界という夢を分ち合い、また難民や移住者の貢献が正しく評価されるなら、人類はもっと世界的な家族となり、地球は本当の意味での共通の家となるでしょう」

教皇フランシスコのこうした呼びかけに応えて、教会の援助救援団体である国際カリタスでは、昨年9月から、難民や移民として困難な旅路に出ざるを得ない人たちと、その旅路を分かち合おうという趣旨のキャンペーンを始め、日本の教会では、カリタスジャパンと難民移住移動者委員会が共同で、「排除ゼロキャンペーン」と題して実施中であります。

私たちはニュースなどを耳にするとき、難民だとか移住者と、ひとくくりの集団として考えてしまいがちであります。しかしそこには一人一人の大切な存在があり、そこには一人一人のユニークな歴史と物語があります。一人一人の喜びと希望、苦悩と不安が存在します。

どうしても第二バチカン公会議の現代世界憲章の冒頭を思い起こしてしまいます。
「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」

教会は、困難に直面する一人一人に、思いをはせ、その心に寄り添いたいと願っています。

世界平和の日にあたり、困難に直面している多くの方々の心に思いをはせましょう。平和を実現する道を歩まれたイエスの旅路に、聖母マリアが信仰のうちに寄り添ったように、私たちも神が大切にされている一人一人の方々の旅路に寄り添うことを心がけましょう。聖母マリアのうちに満ちあふれる母の愛が、私たちの心にも満ちあふれるように、マリア様の取り次ぎを求めましょう。

この一年、いのちの与え主である神が、一人一人の存在を愛おしく思われるように、わたしたちも一人一人を大切にし、その心に寄り添って生きるように、とりわけ困難な状況のうちに生きておられる多くの人たちに寄り添うように、ともに心がけて参りましょう。

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新年明けましておめでとうございます

新しい年、2018年が始まりました。

新年、明けましておめでとうございます。

先日東京カテドラルで行われた着座式では、本当に多くの方に参加していただき、励ましのお祈りとお祝いの言葉をいただきました。また、当日は様々なところで、多くの方のお祈りもいただきました。お一人お一人に御礼を申し上げたいのですが、なかなか適いませんので、このブログでもって、皆様に心から感謝申し上げます。

本来ですと御礼の言葉や、また新年のメッセージなどを用意すべきところです。申し訳ありません。何もできていません。年賀状すら用意することができませんでした。

というのも、実はまだ新潟からの引っ越しが完全には終わっておらず、また新潟教区での残務整理に加えて、新しい司教が決まるまでの新潟教区管理者の仕事もあるため、東京に落ち着いておりません。一段落するまで、今しばらく時間をいただきたく思います。

さて、年末最後の日には、都内でも雪がちらつきました。大晦日に初雪を観測したのは、130年ぶりだと、どこかで読みました。寒い一日でした。

厳しい寒さで始まるこの2018年は、私にとっては大きな挑戦の一年です。「教区共同体とともにどこへ向かうのか、そのためには何をしたらよいのか」。まずこの二つを、全く新しい環境の中で見極めていかなくてはなりません。そのためには、現在の教区共同体の現実と可能性を識別しなくてはなりません。

とはいいながら、教区共同体は生きています。教区共同体には、まさしく「多様性」そのものともいうべき、多様な教会の現実があり、その多様性は具体的な人として日々の信仰生活を生きておられます。ですから、完全に立ち止まり、いわばフリーズしてアイディアを練ることだけに集中することはできません。今まさしく動いている共同体を、動かし続けなくてはなりません。

これまで続けられてきたことは、ひとまずそのまま継続していただきたいですし、その動きの中で、課題や可能性を一緒に学ぶことができればと思います。私にとっては新しく知ることですし、また教区共同体を形成しているお一人お一人にとっては、これまでの過去を振り返り新たな道を見いだす機会ともなり得るかと思います。

そのような中にあっても、私にとっては明確なことを、二つだけ記しておきます。

まず第1に、教会共同体は、積極的に参加される人も、そうではない人も含め、すべての信徒・修道者・司祭はその一部です。それはご自分が好むと好まざるとに関わらず、洗礼を受けてキリスト者となっている限りにおいて、すでに教区共同体の一部として招かれているからです。ですから、皆さんすべての存在が、教区共同体には不可欠です。

そして第2に、教皇ベネディクト16世が、回勅「神は愛」に記された教会の本質的三つの務めを、教区共同体として具体化することが私の願いです。すなわち25番に次のように書かれています。

「教会の本質は三つの務めによって表されます。すなわち、神のことばを告げ知らせること(宣教ケーリュグマ)とあかし(マルチュリア)、秘跡を祝うこと(典礼レイトゥールギア)、そして愛の奉仕を行うこと(奉仕ディアコニア)です。これら三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです。」

福音宣教に励み、典礼を真摯に行い、愛の奉仕の務めに励む教会共同体。もちろん一人ですべてをすることができるはずがありません。だからこその多様性です。そしてそれら三つは、対立するものでも勝手なものでもなく、互いが互いの前提となり、切り離すことができないのです。だから、多様性における一致です。

教区共同体の中で、この三つの務めがバランスよく、そして互いを支え合いながら具体化されるとき、教会は社会の中で、福音を具体的に生きる「しるし」となるのではないでしょうか。

現代社会はめまぐるしく変化を続け、日本の社会構造もこれから大きな変化に直面しようとしています。社会が変わる中で、教会は変わらない福音を堅持しながらも、それを具体的に「あかし」する道は、常に時代の要請に応えて刷新し続けなければなりません。時代の流れに迎合するのではありません。そうではなく、神がこのすべての人に福音を伝えたいと願っている、その神の思いを、今の時代にどのように具体化するのかを、神の民は歴史の中で常に見極めてきたのです。それを私たちは、今も続けなくてはなりません。

新しい年が、すべての信仰者にとって、教区共同体において自らが果たすべき役割を見いだし、異なる考え、異なる生き方、異なる信仰の表現にあっても、同じキリストから離れることなく、互いに受け入れ合い、支え合っていく一年となりますように。

2018年1月1日

カトリック東京教区 大司教

カトリック新潟教区 教区管理者

タルチシオ 菊地功

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