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2018年1月 7日 (日)

東京教区修道女連盟@麹町教会

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昨日、1月6日の土曜日、東京教区修道女連盟の新年の集いが、麹町教会(イグナチオ教会)を会場に開催されました。300人を超える修道女の方々が、集まってくださいました。

いやあ、さすがに東京教区です。こんなにシスターがたくさん集まっているのは、あまり見たことがありません。

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実は、元々この集まりのために講演を頼まれていました。まだ新潟の司教であったときです。そのときの予定では、9時半からのミサを岡田大司教が司式され、その後の講話をわたしが担当することになっていたのですが、その後、わたしが東京の大司教に任命されたため、今回はミサからわたしがすべて担当。岡田大司教からは、シスター方のこれまで17年間の祈りと協力に感謝するメッセージが寄せられていました。

わたしとしては初めてイグナチオ教会でミサを司式いたしました。司教団の何かの行事で共同司式したことはありますが、自分でミサを捧げるのは初めて。大きな聖堂であることをあらためて実感しました。

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ミサ後は昼食を挟んで一時間の話を3回、都合3時間、カリタスジャパンの活動やガーナでの宣教活動を通じて学んだ、福音宣教とは何かについて、いろいろとお話しさせていただき、また国際カリタスが現在進めている難民と移住者のためのキャンペーンについて、説明もさせていただきました。日本ではカリタスジャパンと難民移住移動者委員会が共催で、「排除ゼロキャンペーン」として実施中です。詳しくはカリタスジャパンのホームページを

以下昨日の説教の原稿です。

先日東京の大司教に着座したばかりで、早速修道女連盟の皆さまとこのようにミサを捧げ、またお話をさせていただく機会を与えられたことに感謝申し上げます。

年頭ですから、この一年、2018年がどのような年になるのか、展望のようなことをお話しすればよいのか、などとも思いました。でもわたしは、政治や経済の評論家ではありませんから、世界の現実をざっくりと一刀両断にしてお話しできるだけの材料はありません。さりとて、牧者として任されることになった東京教区の今年の展望は、まだその全体像が把握できていないどころか、司祭評議会ですら開催しておらず、司教総代理をはじめとした様々な役職も今の段階では任命しておりませんので、もう少し時間をいただかないと、具体的なことはお話しできません。それでも、今の時代を肌で感じる中から、思うところをお話しさせていただきます。

ご存じのように、恒例の昨年の一文字の漢字は、「北」でありました。この漢字一字の選定にあたる日本漢字能力検定協会によれば、「北」を選んだのは、「2017年は、「北」朝鮮ミサイルの「北」海道沖落下や九州「北」部豪雨などの災害から、平和と安全の尊さを実感した年」であったからだといいます。

日本国内や近隣の地域との緊張関係にとどまらず、世界全体を見ても、「平和と安全」が脅かされていると感じる状況は、様々なレベルで存在しております。テロの脅威はなくならず、日本で報道されていないレベルで考えれば、各地で地域紛争は続き、加えて大国間の政治の緊張関係は、そのリーダーの存在とともに不測の事態すら招きかねない。その意味で、2018年は「平和と安全」をさらに希求しながらも、ある意味「混乱」のうちに過ごす一年となるのではないかと感じています。

混乱は、先行きが見通せない不安を生み出し、不安は希望を消し去ります。希望のない不安にいる人間は、疑心暗鬼を深めて参ります。疑心暗鬼を深めたとき人間は、少なくとも確実なものだけは守ろうといたします。確実なもの、それは自分自身の存在であります。すなわち、混乱の行き着く先は、自己保身であり、究極的には徹底した自己中心、利己主義であります。

そうであるにもかかわらず、人間は社会という共同体の中で生きていかなくてはなりません。共同体の構成員が自己保身を深めるとき、社会全体も自己保身的になってまいります。そのような社会にあっては、異質な存在は安定を損なう存在として、排除される傾向が強まります。

教皇フランシスコは、そういった社会の中心から排除される存在に、徹底的に目を向け手をさしのべようとする姿勢を明確にされてきました。

この1月1日の「世界平和の日」にあたって発表された教皇様の平和メッセージのテーマは、「移住者と難民、それは平和を探し求める人々」とされています。

ともすれば、移住者や難民は、社会の中の異質な存在として、安定と一致を乱すまさしく混乱の原因であるかのように見なされます。しかし教皇様はそれをあえて、「平和を探し求める人々」なのだといわれます。

教皇フランシスコは、メッセージの冒頭で、「平和を見いだすために」旅を続ける人々は、「いのちをかける覚悟で旅に出ます」と指摘され、その上で、「戦争と飢餓から逃れてきたすべての人々、差別や迫害、貧困、環境破壊のために祖国を去らざるをえないすべての人々を、いつくしみの精神をもって抱きしめましょう」と呼びかけます。

本日の福音は、主の洗礼の場面でありました。主イエスがヨルダン川で洗礼を受けられる前に、洗礼者ヨハネは「わたしは、かがんでその方の履き物のひもを解く値打ちもない」と述べています。その言葉は、主イエスが優れているのだという宣言である以上に、洗礼者ヨハネの自己理解がいかに謙遜であり、自己中心ではないのかということを明確にしています。

使徒ヨハネは、「御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません」と記して、私たちの求める真のいのちの源はどこにあるのかを明確に示します。

そしてこの二つの言葉は、私たちが生きている現実を支配する価値基準とは、かなり異なるものであります。

混乱の中で不安にさいなまれ希望を失い、異質な存在を排除して自己保身に走る社会は、自分にこそ世界の中心があるのだと主張します。命の源は自分が護っている好みにあるのだと主張します。そこではいつくしみですら、私が恵んでやるありがたいもの、わたしからのお恵みへと変質します。

そのような中で、私たちは、自分ではなく、いのちの源である神を信じようと主張します。世界はわたしを中心に回っているのではなく、わたしたちにいのちを与え生かしてくださる神を中心に回っているのだと主張します。神によって生かされているからこそ、その危機に直面している兄弟姉妹に手をさしのべなければならないと主張します。神からのいつくしみを受けて生かされているからこそ、そのいつくしみを分かち合わなくてはならないと、主張します。そしてそれは、結構努力を必要とする、しんどいことであります。

世界に新しい光を注いでくださった幼子イエスの誕生に励まされ、神のみ言葉を心に抱きながら、困難のうちにも希望を持って、いのちの与え主のいつくしみを、あかしして参りましょう。

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