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2018年2月14日 (水)

灰の水曜日@東京カテドラル

今日は灰の水曜日。四旬節が始まりました。復活祭に洗礼を受けられる方々が、最終的な準備をするこの時期は、すでに洗礼を受けている信仰者にとっても、洗礼志願者とともに信仰の原点に立ち返り、あらためてイエスとの出会いを模索する時でもあります。

次の日曜日、四旬節第一主日には、多くの教会で洗礼志願式が執り行われることと思います。関口教会でも30名近い方が洗礼志願者として準備をしているとうかがいました。

四旬節の始まりに洗礼志願式を共同体として行うのは、洗礼を受けることは、個人的な内心の問題だけではないことを教会共同体の全員が実感することが大切だからです。私たちの信仰は個人の内心の問題にとどまるのではなく、共同体において生きられるものだからです。

共同体のないキリスト教は考えられません。イエスご自身が、まず最初に12人の弟子という共同体を形成して、祈りをともにし、聖体の秘蹟を定め、福音宣教に送り出されました。

洗礼を受けることは、ひとり個人が新しい生命に生きることだけではなく、それを通じて、「神との交わりと全人類一致のしるし、道具」である教会の一部となることをも意味しています。一つの体の部分となるのだという自覚を皆が持つためにも、洗礼志願者として洗礼への最終的準備を始めるとき、それは共同体の中で行われるのがふさわしいのです。

今年の四旬節第一主日は、新潟教会9時半のミサで、例年の通り、共同の洗礼志願式を行います。また新潟では同日、岡神学生の司祭・助祭候補者認定式も執り行います。哲学の2年間にわたる勉強を終え、神学の課程に進む前に、正式に、将来司祭となる候補者として認定されなければなりません。召命のために、続けてお祈りください。

以下、本日10時の東京カテドラル、関口教会での灰の水曜日ミサの、説教の原稿です。平日の午前中にもかかわらず多くの方が参列され、関口教会の主任と助任、そして韓人教会の主任に終身助祭、さらには侍者の青年まで現れて、私にとっては盛大な灰の水曜日ミサでした。

なお四旬節に当たっての教皇様のメッセージは、こちらのリンクから。また今日からカリタスジャパンの四旬節キャンペーンが始まっています。どうぞ皆様の協力をお願いします。四旬節キャンペーンについては、こちらのカリタスジャパンのリンクから。

灰の水曜日                               

昨年2月に大阪で福者の栄誉を受けたユスト高山右近の初めての記念日、この2月3日を、私はマニラで過ごしました。マニラは、高山右近の終焉の地であります。日本の教会の栄誉ある殉教者である高山右近の記念日を、フィリピンの教会にとっても重要な記念日であるとして、この2月3日に、マニラのタグレ枢機卿様が自ら司式して、マニラカテドラルで記念ミサが捧げられました。このミサには、地元の多くの方も参加してくださり、日本からは私を含め6名の司教が60名近い巡礼団とともに参加いたしました。

家康によるマニラ追放に先立つほぼ30年間も、右近は国内で追放の身にありました。右近を最初に追放しようと決めた秀吉の気持ちをなんとか和らげるため、信仰を頑固に守り抜く右近に対して、対立を避けよと周囲は懸命に忠告したのだそうです。しかし彼は耳を貸さず、「神に関することは、一点たりとも曲げるべきではない」と述べたと言われます。右近はすべてを失い他人から施しを受ける身になったことを、最上の喜びとしていたといわれます。その人生の大半は、すべてを神にゆだねきった人生であり、他者の幸せのために、自らはすべてを失った人生でありました。

高山右近はマニラに追放の身となり亡くなったのですが、他の殉教者たちのように、処刑されたわけではありません。病死であります。しかし教会は高山右近を、「殉教者」として福者の栄誉を与えました。このことは、殉教が、信仰を守るために殺されるという、その人生の終わりの事実だけを意味しているのではないということを教えています。殉教とは、右近のように、信仰における逆境にあっても、信仰に忠実に生きる道を選び、それがために地位や名誉や財産というこの世の富をすべてを奪われ、それでもなおかつその事実を喜んで受け入れる。その信仰に真摯に生きようとする姿を通じて、その言葉と行いを通じて、信仰をあかしをする生き方。それこそが殉教者の人生であるということであります。

「神に関することは、一点たりとも曲げるべきではない」という覚悟は、神に対する信仰を命がけで生きるということでもあります。すべてをかけて真摯に信仰を生きるということでもあります。現代社会に生きるわたしたちは、その生き方をどのように考えるのでしょうか。

わたしたちは「現実的な判断」などという言葉が、賢い生き方だとされる時代に生きています。わたしたちは、自分の周囲で起こっている出来事やその中における人間関係などに翻弄されながら、その場その場で最善と考える道を選びながら、人生の荒波を生き抜こうとしている。それが現代社会に生きるわたしたちの姿ではないでしょうか。

往々にしてわたしたちは現実の壁の前で、信仰における価値判断において妥協を重ねてはいないでしょうか。そういう生き方を選択しているわたしたちに対して、高山右近は、人間の生きるべき姿の模範を示しているように思います。信仰に生きるとは、命をかける真剣さを持って生き抜くことだと、その人生が私たちに教えています。

とはいえ、だれでもが簡単に同じような道を歩むことができるわけではない。当然です。人間の弱さの故に、わたしたちは妥協への道へと誘われ続けるのであります。だからこそ、ヨエルの預言は、わたしたちにこう語りかけています。

「あなたたちの神、主に立ち返れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、いつくしみに富み、くだした災いを悔いられるからだ」

何度も何度も失敗を繰り返す私たちに、ヨエルは、何度も何度も、神のいつくしみに立ち返れ、立ち返れ、と呼びかけるのです。

さて四旬節の始まりに当たり、教皇フランシスコは、マタイ福音書24章12節の言葉を引用して、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」というテーマのメッセージを発表されています。

教皇は、絶対的な価値観が意味を失っている現代社会の混乱を見つめながら、相対的な価値観を偽預言者にたとえ、このように指摘されています。

「偽預言者は「詐欺師」にもなります。彼らは苦しみに対して簡単で手短な解決策を示しますが、それらはまったく役に立ちません。どれほど多くの若者が麻薬、「用が済めば切り捨てる」人間関係、安易だが不正な利益といった誤った治療を施されていることでしょう。また、まったくバーチャルな生活にとらわれている人々がどれほどいることでしょう。そこでの結びつきは、非常に容易で迅速であるかのように思えますが、まったく無意味であることがのちに判明します。これらの詐欺師は価値のないものを与え、その代わりに尊厳、自由、愛する力といったもっとも大切なものを奪います」

その上で教皇様は、「怠惰な利己主義、実りをもたらさない悲観主義、孤立願望、互いに争い続けたいという欲望、表面的なものにしか関心をもたない世間一般の考え方など」が蔓延する中で教会共同体の中でさえも愛は冷え込み、「宣教的な情熱は失われて」行くのだと指摘されます。

この説教の後、わたしたちは灰を額にいただきます。灰を受けることによって、人間という存在が神の前でいかに小さなものであるのか、神の偉大な力の前でどれほど謙遜に生きていかなくてはならないものなのか、心で感じていただければと思います。

神の前にあって自らの小ささを謙遜に自覚するとき、私たちは自分の幸せばかりを願う利己主義や、孤立願望や自分中心主義から、やっと解放されるのではないでしょうか。そのとき、はじめて、高山右近のような生き方に、少しは近づくことができるようになると、私は思います。

わたしたちを大切にし、愛し、導いてくださる主のいつくしみに信頼しながらも、殉教者たちのように真剣に信仰に生きることができるよう努力をいたしましょう。四旬節は、その真摯な信仰の道に、少しでも近づくことができるように、人生の軌道修正をするときであります。もたもたしてなかなか軌道修正できない私たちを、神は愛しみ深く待っていてくださいます。

確固たる信仰に生きた福者高山右近のような生き方を模範としていただきながら、それにならう道を、模索して参りましょう。

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