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2018年3月25日 (日)

受難の主日@田園調布教会

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聖週間が始まりました。洗礼の準備をしておられる方々にとっては、重要な一週間ですし、信仰者にとっては、イエスの死と受難と復活こそが信じる事柄の基本でありますから、クリスマス以上に大切な一週間です。

枝の主日とも呼ばれる受難の主日の今日、田園調布教会に生まれて初めて赴き、ミサを捧げることができました。写真は、フランシスコ会からの借り物です。

そうですこの田園調布教会はフランシスコ会の担当で、昨日と今日、全国のフランシスコ会担当の小教区かた侍者のリーダーたちを集めて、講習会を開催していたのです。30名くらいの侍者が集まり、新潟の高田からも参加者がありました。

ですから今日のミサは、侍者がいっぱい。ミサの最後にはフランシスコ会による侍者の認定証(ちゃんと等級付き)の授与までありました。一番上の等級になると、特製ジャンパーがもらえるのだとか。

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で、私はこれに誘われたとき、悩みました。初めての聖週間だからカテドラルの関口教会でミサを司式すべきかとも思いましたが、なんと言っても侍者の集まりです。私の霊名はタルチシオで、この方は初代教会のローマの殉教者ですが、御聖体を守って殺害されたことから、侍者の保護の聖人であります。ですから侍者の集まりと言われると行かないわけにもいかない。というわけで、初めての田園調布教会訪問となりました。

ミサ後には、残った信徒の方々との茶話会もありました。たくさん写真を撮っていただいて、感謝します。

以下本日の説教の原稿です。

その日、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と問いかけるピラトに対して、群衆は「十字架につけろ」と盛んに激しく繰り返し叫んだと、福音には記されていました。

「十字架につけろ」いう短い叫びは、深く考えるまでもなく、なんとなく興奮して集まった人々にはわかりやすいフレーズですから、瞬く間に人々の心をとらえ、大きなうねりとなっていきました。

この大きなうねりを前にしたとき、「落ち着いて考えてみよう」とか「イエスの言うことも聞いてみよう」などという理性的な言葉は力を失います。大きな波に飲み込まれてしまいます。
どんな理性的な言葉も群衆を落ち着かせることはできないという現実に直面したとき、ピラトは、その大きな波に抵抗することをやめてしまいます。捕らえられていた犯罪者を釈放し、神の子を十字架につけて殺すために手渡したのです。

「十字架につけろ」という短い叫びは大きな波となって、集まった人々の興奮を倍増させました。考えてみれば、今日の入堂行列の前の福音朗読にあるように、同じエルサレムの町で同じ時期に起こった出来事ですから、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆というのは、その数日前にイエスを喜びの声を持って迎えた群衆でもあります。数日前に、イエスを賛美し喜んでエルサレムに迎え入れたことなど、この大きな波は人々の記憶からすっかり忘れ去らせてしまいます。

聖書が記している、この「群衆」という存在。それは、自分自身の頭を使って自分としての判断をすることを停止した人々、その集まりを象徴しています。その時々の大きな波に飲み込まれて、喜んでみたり悲しんだり。どちらにしろ大切なことは興奮していることであって、その興奮を生み出している原因が何であるのかを考えることはしない。なぜなら手間のかかる面倒なことだからです。

その日、「十字架につけろ」と叫んでいる群衆に、たとえば今の時代のようなテレビのレポーターでもそこにいたとして、一人ひとりにインタビューをしたら、どんな反応が返ってくるでしょう。「十字架につけてイエスを殺せなんて、そんな大それたことは言ったつもりはない」とか、「イエスに死んでほしいなんて、実は思ってもいない」などという、無責任な返事がかえって来るのかも知れません。みんなの興奮に同調して叫んだ言葉への責任など、誰が感じるでしょう。

今の時代、スマホに象徴されるような様々なコミュニケーション手段を、私たちは持っています。それを利用した言葉のやりとりの中で、どうしても気にかかることがいくつかあります。

それは、まず第一になるべく「短い言葉」で交わすやりとりであります。なかでも、自分の感情を隠さずに直接表すような、短いけれども激しい言葉が飛び交っている様を、ネット上に目撃することがあります。短い言葉のやりとりが,時として、無責任な言葉の投げつけあいに発展することもよくあることです。長い文章であれば、じっくりと考えなければ意味が通じないので、何回も読み返してみたりする可能性もあるでしょう。しかし短いフレーズは、「十字架につけろ」と同じように、直感的にわかりやすいのです。だから深く考えることもなく、相手に送ってしまう。

短い言葉の投げ合いは,時に人を極端に感情的にさせます。感情的な短い言葉のやりとりは,結局は罵詈雑言の投げつけ合いに発展する可能性を秘めています。短い言葉の投げつけあいで興奮してしまっているやりとりを見るときに、イエスを「十字架につけろ」と叫んで盛り上がっている現代の「群衆」の姿をそこに見るような思いがします。短いフレーズの投げつけあいの世界は、興奮という波のうねりは生み出しても、その言葉から広がる背後の広い世界に目を向けさせることはありません。でも人間は、その広い世界で生きているのです。

教皇様は、本日の世界青年の日にあたり、メッセージを発表されています。今年のテーマは「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」というルカ福音書の言葉です。

メッセージの中で教皇様は、聖母マリアが天使からお告げを受けたときに、その驚くべき内容に「恐れ」を感じたであろうとして、次のように書いておられます。

「それでは若者の皆さんはどんな恐れを抱いているでしょうか。何が皆さんを心底、悩ませているのでしょうか。多くの皆さんが抱いている「根本的な」恐れは、自分という人間が愛されても、好かれても、受け入れられてもいないのではないかという恐れです。今日、多くの若者が人為的で実現不可能になりがちな標準に合わせるために、本来の姿とは別の姿にならなければならないと感じています。自分の姿を「画像修正」し続け、仮面と偽りのアイデンティティの後ろに隠れ、まるで自分自身を「偽造(フェイク)」しているかのようです。多くの人が出来るだけ多くの「いいね」を得ようとやっきになっています。自分が不十分であるという心情から、多くの恐れや不安が生じています。」

つまり、教皇様は、自分自身の存在に自信がないという恐れの中で、人から好かれたいという願いが、私たちをフェイクな生き方に招き入れていると指摘しています。私が心配する第二の点はこの教皇様の指摘に関係します。つまり、私たちは本当の人生を生きているのかどうか。フェイクニュースという言葉が有名になりましたが、少し前なら誰も信じなかったような嘘であっても、インターネットでまことしやかに流されるとあっという間に拡散して、群衆は興奮してしまう。中身は、あの人が悪いとか、あれが諸悪の根源だとか、わかりやすい単純な方があっという間に拡散します。まさしく現代の「群衆」による「十字架につけろ」という叫びです。

そもそも私たち自身も、自分を偽ってフェイクな生き方をしていないか。みんなと一緒になって興奮している私は、本当に本物の私なのだろうか。立ち止まって、落ち着いて考えてみる必要があります。

教皇様は、メッセージの中で、実際に人と話をすることの重要さを説いて次のようにアドバイスされています。

「さまざまな選択肢をしっかり見極め選べるよう助けてくれる、同じ信仰をもつ経験豊富な兄弟姉妹に相談するのです。少年サムエルは、主の声を聞いても、すぐにはそのことが分からず、老祭司エリのもとに三度駆け寄りました。エリは最後に、主の呼びかけに対する正しい答えをほのめかします。「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』といいなさい。もし疑いをもったら、教会に頼ることができることを思い出してください。」

教皇様は、信仰を同じくする多くの方と、実際にリアルに具体的に関わり、よく言葉を交わすことで、ふさわしい道を見いだすことができると教えられます。

みなさん、受難の主日にあたって、あらためて自分の生き方を見直してみましょう。私はどちら側に立っているのでしょうか。それが興奮の波に巻き込まれ「十字架につけろ」と叫んでいる「群衆」の側ではないことを祈ります。心落ち着けてサムエルのように、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と答える側に立ち続けることができるように、神様に心を強めていただきましょう。

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