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2018年8月16日 (木)

聖母被昇天祭@関口教会

8月15日は終戦の日であるとともに、聖母被昇天祭です。そしてもともとは初代教会時代の殉教者であるタルチシオの記念日。わたしの霊名です。8月15日は、8世紀くらいから聖母被昇天の日として祝われていたようですが、教義として決定されたのは1950年のこと。

昨日の聖母被昇天祭は、関口教会の晩6時のミサでお祝いしました。当初の予定ではルルドの前で行うはずでしたが、暑さもある事と台風のために風が強く、断念。聖堂で行いましが、韓人教会と共催であったので、カテドラルの聖堂も一杯でした。思いつきましたが、来年以降は、まずルルドの前でお祈りをして、聖母行列で聖堂に入り、ミサにしたらどうでしょう。

ミサの最後には、霊名のお祝いの花束も頂きました。感謝。ミサ後には関口会館で納涼会。楽しいひとときを、集まった皆さんとともにしました。

以下、聖母被昇天祭ミサの説教の原稿です。

聖母被昇天祭
2018年8月15日
東京カテドラル関口教会

聖母被昇天祭の8月15日は、戦争のない平和な世界について思いを巡らせ祈る日でもあります。

かつての戦争で生命を奪われた多くの方々、敵味方に分かれた双方の軍隊にいた人たち、一般の市民、戦場になった地で巻き込まれてしまった多くの方々。理不尽な形でその尊厳を奪われ、暴力的に命を失った多くの方々への責任から、私たちは逃れることはできません。「戦争は人間のしわざ」だからです。

過去の歴史を振り返り、その命に対する責任を思う時、私たちの選択肢は、同じ過ちを繰り返さないという決意を新たにする道しかあり得ないと思います。

はたして私たちは、いま、どのような道を歩もうとしているのか。あらためて、国家間の対立を解決する手段は武力の行使ではなく、対話でしかないことを、世界の政治の指導者たちが心に留めてくれるように、祈りたいと思います。対立や孤立ではなく、対話と協力の道を選び取る勇気と英知が、国家の指導者たちに与えられるよう、聖霊の照らしを祈りましょう。

さて、聖母被昇天祭に当たり、私たちの母であり教会の母であるマリア様について、少し考えてみたいと思います。

教皇フランシスコは、聖母マリアは祈りと観想のうちに、密やかに生きる信仰生活の姿を示しているだけではなく、その霊的な土台の上に、助けを必要とする他者のために積極的に行動する力強い信仰者の姿の模範でもあると指摘されます。

使徒的勧告「福音の喜び」の終わりに、次のように記しています。
「聖霊とともにマリアは民の中につねにおられます。マリアは、福音を宣べ伝える教会の母です。・・・教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります。というのは、マリアへと目を向けるたびに、優しさと愛情の革命的な力をあらためて信じるようになるからです」(288).教皇はそう記しておられます。

その上で、先ほど朗読された聖母讃歌(マグニフィカト)に、その「優しさと愛情の革命的な力」を読み取ることが出来ると、教皇は指摘されています。「革命的な力」です。

聖母マリアの人生を見れば、それは決して弱さのうちに恐れているような生き方ではありません。それどころか、神から選ばれ救い主の母となるというすさまじいまでの人生の転換点にあって、恐れることなくその運命を受け入れ、主イエスとともに歩み、その受難の苦しみをともにしながら死と復活に立ち会い、そして聖霊降臨の時に弟子たちとともに祈ることで、教会の歴史の始まりにも重要な位置を占めるのです。これほどに強い存在はありません。まさしく、「革命的な力」であります。

しかし聖母マリアは、あくまでもその強さを誇ることなく、謙虚さと優しさのうちに生きて行かれます。ですから謙虚さと優しさは、弱い者の特徴ではなくて、本当に強い者が持つ特徴です。

教皇フランシスコの言葉は、現代社会が優先するさまざまな価値観への警鐘であることがしばしばですが、ここでも、いったい本当に力のあるものはだれなのかという、この世の価値基準への警告が含まれていると思います。今の世界では、いったいどういう人が強いものだと考えられているのか。その判断基準は本当の強さに基づいているのか。聖母マリアの生き方を見ると、本当の強さとは、謙虚さと優しさという徳のうちにあるのだとわかります。

私たちの世界は「謙虚さと優しさ」に満ちているでしょうか。残念ながらそうとはいえません。それよりも、自分たちが一番、自分たちこそが強いと虚勢を張って他者を排除し、困難に直面する人や助けを必要とする存在に手を差し伸べるどころか、不必要なものとして関心を寄せることもない。そんな価値観が力を持ち始めてはいないでしょうか。

この世界は人間が支配している、自分たちがすべてを決めることができるのだ、などと、世界の創造主である神の前で、謙遜さを忘れてはいないでしょうか。

賜物であるいのちの価値を、役に立つのか立たないのかなどという自分たちの都合で決めることができる、などという、傲慢さに満ちあふれていないでしょうか。

「自分の重要さを実感するために他者を虐げる」のは、本当に強い者の徳ではないと、教皇は指摘されているのです。しかし現実の世界は、「自分の重要さを実感するために」、弱い立場にある者、対立関係にある者、意見を異にする者、生き方を異にする者、社会の中の少数派を、排除する傲慢さに満ちあふれていないでしょうか。

教皇ヨハネパウロ二世も、聖母マリアの讃歌から、困難に直面する人、とりわけ貧しい人を優先する教会の姿勢を学ぶべきだと、回勅「救い主の母」で次のように指摘されていました。

「マリアの『マグニフィカト』には、貧しい人たちを優先する教会の愛が見事に刻み込まれています。・・・救いの神であり、すべての恵みの源である神と、貧しい人たち、見下げられた人たちを優先させる神とを分けて考えてはいけない」

この言葉をうけて教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう記しています。
「自分の生活における選択のために他の事柄により注意を払っているので,貧しい人に対しては距離をおいているなどと、だれもいってはなりません。・・・貧しい人と社会正義に対し心を砕くことを免れている人は、誰一人いません。(201)」

聖母マリアは、ただ単に祈るだけの動こうとしない人ではありませんでした。聖母マリアはエリザベトのところへ手を貸しともにいるために、急いで出かけたのです。福音宣教におけるマリアという生き方とは、すなわち、深い祈りという霊性に支えられながらも、つねに行動することをいとわず、困難に直面する人のために手を貸すためであれば待つことなく即座にそのもとへ出かけていく、生き方であります。

私たちも「正義と優しさ、観想と他者に向けて歩む力」に満ちあふれたいつくしみ深い聖母の生き方に、少しでも倣っていきたいと思います。

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