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2018年8月10日 (金)

平和旬間です

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8月6日は広島、そして8月9日は長崎の、それぞれの原爆投下という戦争の悲劇を記憶する日であり、犠牲者の永遠の安息と、平和を祈念する日でもありました。

日本のカトリック教会は、8月6日から15日までの10日間を、毎年『平和旬間』と定め、各地で様々な関連行事が行われ、祈りが捧げられます。

東京教区では、明日、8月11日に教区としての行事が行われます。講演会と、平和巡礼ウォークと平和祈願ミサ。今年は、ちょうど教皇様の呼びかけに応えて、難民移住者委員会とカリタスジャパンの共催で、国際的なキャンペーン「Share the journey、排除ゼロキャンペーン」を実施中であることから、難民問題に焦点を当てた講演をお願いいたしました。

明日土曜日、午後2時から、聖イグナチオ麹町教会のヨセフホールで、弁護士の駒井知会さんによる「難民とともに生きる、日本社会の未来」というお話があります。

その後、関口へ向けて各所から平和巡礼ウォーク。詳しくは東京教区ホームページへこちらのリンクから。酷暑も予測されますので、気温を見定めながら。

最後に、東京カテドラル関口教会で午後6時から、私の司式で、平和を願うミサを捧げます。

また各宣教協力体などでそれぞれの企画もあります。詳細は、上掲の教区ホームページのリンクをご覧ください。

なお私は、12日日曜日は、上野教会で午前10時からミサ後に講演会。さらにその日の夕方6時半から立川教会でミサを捧げます。

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平和旬間を始めるに当たり、広島の祈りの日の前日、8月5日に、広島教区の平和行事が行われましたので、広島まで出かけてきました。午後には幟町教会を中心に講演会や分科会が行われ、夕方5時から平和公園の原爆供養塔前で聖公会と共催の祈りの集い。(上の写真)全国各地から、主に青年を中心に参加者があり、東京教区からも数名が参加。広島教区と姉妹関係にある釜山教区からも青年たちがおそろいのTシャツで参加。(下の写真は、長崎からバスで来た子どもたち)

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祈りと、聖公会主教、前田枢機卿、白浜司教による献水に続いて、カテドラルまでの平和行進となりました。今年は、基本的には歌を歌うなどせず、祈りのうちに静かに歩みを進める祈りの行進が企画されました。もっとも黙って商店街のアーケードを歩み続けるのも困難で、途中からは聖歌も聴かれました。でも、祈りのうちに歩み続ける行進にも、意味があると感じます。沈黙の祈りと、聖歌が組み合わさるような企画になればと思いました。

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幟町の世界平和記念聖堂は改修工事中のため、今年の平和祈願ミサは、お隣のエリザベト音楽大学のホールで。司式と説教は岡田大司教。教皇大使や前田枢機卿はじめ、全国の多くの司教司祭が共同司式でした。

核兵器廃絶は、教皇ヨハネ23世の「地上の平和」から始まって今に至るまで、歴代教皇が強調する優先課題の一つであり、国連などの外交の場でも、繰り返し聖座が主張してきたことです。

例えば、2017年の5月2日から、ウィーンで開催された「2020年核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議第1回準備委員会」では、参加した聖座代表は次のように述べて、聖座(バチカン)の立場を明らかにしています。

『この準備委員会への聖座の参加は、「核兵器から解放された世界をめざし、核不拡散条約の文字通りでその精神をくみ取った完全な履行によって、これらの兵器の完全な禁止という目標に向かって働く」その努力に、倫理的権威から協力しようとするものです』(私訳)

その上で、核抑止力についてこう述べています。

『核兵器は、間違った安全保障の感覚をもたらします。また、力のバランスによって、後ろ向きな平和(a negative peace)をもたらそうとします。国家は、自らの安全保障を保持する権利と義務がありますが、それは集団安全保障や、共通善や、平和と強く関係しています。この観点から、平和の前向きな理念が必要です。平和は、正義と、総合的人間開発と、基本的人権の尊重と、被造物の保護と、公共へのすべての人の参加と、人々の間の信頼と、平和構築に献身する諸機関の支援と、対話と連帯に基づいて構築されなければなりません』(私訳)

また2017年9月20日には、聖座は核兵器禁止条約に署名批准し、その際に総会において、国務省のギャラガー大司教は演説でこう述べています。

「皆が兵器拡散の重大な影響を非難する一方で、実際の世界では大きな変化は見られません。なぜならば、教皇フランシスコが指摘するように、「私たちは『戦争反対』と声を上げるものの、同時に兵器を生産し、紛争当事者に売りつけているからです」

「二年前の今日、教皇フランシスコは国連総会で演説し『核拡散防止条約(NPT))の文字通りの適用を通じて、核兵器の完全な禁止を目指しながら、核兵器のない世界の実現のために働く緊急の必要性』を強調されました。」

「聖座は、核兵器禁止条約に署名しすでに批准もいたしました。なぜならば、核兵器の完全な拡散防止と軍縮のために、核拡散防止条約の署名国にとって、早い時期に核軍拡競争をやめるため、また核軍縮のための交渉に誠実にあたるための取り組みを実現させる大きな前進であり、厳密で効果的な国際的監視下での完全な軍縮交渉に向けての一歩として、全体としては大きな貢献であると信じるからです。」(私訳)

教皇様ご自身は、その後、「戦争がもたらすもの」という言葉を入れた、いわゆる「焼き場に立つ少年」の写真を広く配布したりしたことで、核兵器の廃絶を強く求める立場を明確にしています。

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もちろん、多くの人が、「核兵器のない世界」の方が、「核兵器におびえる世界」よりも望ましいと言うこと自体には賛成していることでしょう。同時に、国際政治の力関係や実際の軍事バランスを考えて、同じ目的地であっても、採用する道筋は異なることも確かです。加えて残念なことに、核兵器を保有している国同士の相互不信は根本で払拭されそうもありません。

当然、核兵器の廃絶が一朝一夕で達成されるなどと、夢のようなことを考えているわけではありません。

しかし同時に、現実は、立場の異なる当事者が、それぞれの採用した道筋こそが正統であり正しいのだと主張するばかりで、目的地の山頂はガスの中に隠れてしまっているような状態です。だからこそ、教皇様のあの写真なのです。書類の上の文字ではなく、外交交渉の言葉ではなく、ののしり合いではなく、実際に肌と心で感じる悲しみ、苦しみ、喪失感、嘆き。その具体的な感覚を、具体的な心の叫びを忘れてしまっては、頂上が見えなくなるのです。

具体的な心の叫びをあらためて主張し、見失われそうになった頂上を、あえて見せつけ思いを呼び覚まそうとすることは、祈りとともに、理想を掲げ続ける宗教者の務めの一つであろうと思います。

戦争は想像の産物ではなく、「人間のしわざ」だからです。

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