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2018年9月16日 (日)

秋田の聖母の日@聖体奉仕会

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今年で5回目となりましたから、恒例の行事と言っても差し支えないでしょう。秋田の聖母の日が、秋田市郊外の聖体奉仕会を会場に、9月14日と15日に開催され、400名近い方が参加し、祈りをともにしました。

今回は、新潟教区内だけではなく、全国各地、そして台湾などからも多くの方がおいでくださいました。私は30名以上の巡礼団の皆さんと一緒に、秋田の聖母の日に先立って二日間、久慈教会、宮古教会、盛岡の四谷教会を巡礼し、東北の震災の被災者の方々のために祈りを捧げる機会がありました。忘れることなく訪問し、祈り続けたいと思います。

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もちろん聖体奉仕会の聖堂には、30年ほど前に101回の涙を流すという奇跡的な出来事のあったマリア像があります。その出来事に伴って、聖体奉仕会の会員が、マリア様からのメッセージを受けると言うこともありました。これら一連の出来事については、当時の教区司教である伊藤司教様が書簡を発表され、奇跡出来事であったことを認め、またメッセージについては信仰に反することは記されていない旨を記し、個人的な巡礼を禁じないと宣言されています。新潟教区は、現在も、この伊藤司教様の書簡に記されていることをそのままで継承しており、教区100周年の記念誌には、この書簡も含め、伊藤司教、佐藤司教の様々な書簡をすべて再収録して記録として残してあります。

秋田の聖母の日は、もちろんこういった一連の出来事に関係してはいますが、直接には、日々、聖母への祈りが捧げられる礼拝所において、改めて聖母の信仰における意味を見つめ直し、その取り次ぎのうちに、祈りを捧げる機会です。素晴らしい聖体奉仕会の祈りの雰囲気の中で、聖母とともに歩みながら、神を賛美するひとときであり、奇跡の聖母像を「あがめる」ような類いの行事ではありません。

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14日の午後はロザリオの祈りと聖体礼拝で始まり、わたしの講話もありました。その後、外に出て庭園での十字架の道行き。そしてミサで一日を締めくくりました。

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15日は、私の帰京の時間の関係から、朝9時からミサを捧げ、その後ロザリオと続いて、昼前に終了。参加してくださった皆さんに感謝します。

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以下、14日のミサの説教の原稿です。

                                  十字架称賛
                                2018年9月14日
                                秋田聖体奉仕会

東京という大都会に身を置くようになって、10ヶ月が過ぎました。もちろん新潟市は日本海側唯一の政令指定都市で、その意味では都会ですが、東京とは比較にならないほど、人口密度が違います。新潟ではしばしば夜の町中のアーケード街を散歩して回ったことがありますが、ボッとして歩いていても、誰かにぶつかることはほとんど無い。それが、東京でそんなことをしたら、あっと言う間に、誰かにぶつかってボッとしてるんじゃないと怒鳴られてしまいます。それほど人が多い。

そんな人混みの中を歩いているときに、いつも気になることが一つあります。今更ながらなのですが、そしてそれはもう何年も気にかかっていることでもありますが、とにかく、十字架をどこかにつけている人が結構おられます。年齢や性別にかかわらず。もちろんその多くがアクセサリーでしょう。ペンダントであったり、耳飾りであったり、なかには、なんとロザリオを首からかけている男の子まで見かけることがあります。そのたびにそういった人を一人一人捕まえて、「いったいあなたは何を身につけているのか知っているのか」と問いただしたくなります。もちろんそんなことはできません。でもいつも、問いかけてみたいという欲望に駆られ、人混みに出るたびに、できるできないの葛藤に苦しめられています。

そしてふと思いました。そういえば、キリスト者である自分自身は、どこにも十字架を身につけていない。海外に出かけるときには、かならず司教用の大きな十字架を持参します。そして現地に着くといつも、司教であることをアピールするためのつもりはないのですが、その十字架を身につけています。でも日本にいるときには、わたしを含め、多くの司教が司教十字架を身につけない。

外へ出るときはたいてい、ローマンカラーをつけているので、聖職者であることは隠していないのですが、十字架をつけていない。たしかに神父様たちの中には、スーツの襟などに十字架を常に着用している方もおられます。

わたしたちにとって、十字架の意味は何だろう。もちろんそれは、単なるすてきなアクセサリーではない。恥ずべき物だろうか。そんなはずがありません。

パウロはコリント人への手紙に、こう書いていました。
「キリストがわたしが遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかもキリストの十字架がむなしいものとなってしまわずように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためなだからです。十字架の言葉は.滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」

もちろん洗礼は救いのために必要です。しかし同時に、洗礼を授けるわざにはさらに重要なわざが伴わなくては意味が無いというのです。そのさらなるわざとは、福音を告げ知らせることです。

加えて、福音を告げ知らせるわざは、何か難しい学問を教えることでもないのだと、パウロは強調します。もちろん教会にとって、教会の教えや聖書の教えを伝承していくことは重要です.しかしそこに留まっていては、キリストの十字架がむなしくなるとパウロは強調します。

十字架は、神の愛のわざの目に見えるあかしです。自らいのちを与えられて人間を愛するがあまり、神はその滅びを許されなかった。滅びへの道を歩む人類の罪をあがなうため、自らを十字架の上でいけにえとしてささげられた。これ以上の愛のわざはあり得ません。わたしたちにとって十字架は、悲しい死刑の象徴ではなく、敗北の印ではなく、弱さの象徴でもありません。わたしたちのとって十字架は、希望の印であり、勝利の印であり、強さの象徴であります。そしてなによりも、神の愛のわざの目に見えるあかしのわざであります。

十字架は、キリスト者の生きる姿の象徴であります。他者の喜びのために、自らのいのちを投げ出す。いのちを賭してまでも、他者のために尽くそうとする生き方。キリストご自身の生き方そのものです。わたしたちキリスト者は、優しい人間だから、善人だから、困っている人を助けたり、愛のわざを行うのではありません。そんな、個人の性格に頼った、生やさしい信仰ではありません。

わたしたちは、わたしたちが信じ、ついて行こうと決断した主ご自身が、自らのいのちをかけて他者の救いのために人生を捧げ尽くしたからです。主ご自身の、その崇高な姿を目の当たりにし、その主について行こうと決意をしたからこそ、それにならって他者への愛の奉仕のわざに励むのです。わたしたちが愛の奉仕に努めるのは、主に従う限り、そうぜざるを得ないと信仰のうちに得心しているからであります。

十字架による究極の愛のあかしの傍らには、それが全うされるまで、聖母マリアは寄り添われました。わたしたちが十字架を称賛するとき、その方わらに立ち尽くす聖母マリアの姿を見過ごすことはできません。なぜならば、聖母マリアは、イエスの愛のあかしのわざに伴われ、ご自分の人生そのものを、すべてを神の計画のために与え尽くす人生であったからです。

十字架が神の愛のあかしであるならば、聖母はそのあかしを真っ先に生きた、わたしたちの模範となる方です。悲しみのうちにも、神からのお告げを信じ、神ご自身の生きる姿に倣い、その人生を捧げ尽くしたのです。わたしたちの生きる道しるべは、聖母マリアの人生にあります。

聖母マリアに倣い、わたしたちも、この社会の中で、自信を持って十字架を掲げ、十字架による愛の証しに倣って、言葉と行いを持って、福音を告げ知らせて参りましょう。

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