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2018年10月14日 (日)

受刑者のためのミサ@イグナチオ

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13日の土曜日午後2時から、イグナチオ教会を会場に、受刑者のためのミサが捧げられました。

主催したのは、受刑者との交流や出所者の支援を続ける特定非営利活動法人マザーハウス。200名近い方々が聖堂に集まり、祈りをともにしました。

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ミサの司式は私と、ちょうどこの日が75歳の誕生日となった教皇大使のジョゼフ・チェノットゥ大司教。そして大使館の参事官をはじめ、教誨師などとしてこの活動に関わる司祭5名加わってくださいました。ミサの終わりに、大使には誕生祝いの花束が贈られました。

マザーハウスの活動については、こちらのホームページを参照ください。

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ミサの後にはヨゼフホールで茶話会があり、その中で、弁護士の海渡先生と私で、ちょっとした質疑応答の時間もありました。

以前からこの活動を立ち上げたマザーハウス理事長の五十嵐氏から、このような機会を設けてほしいとリクエストを受けていました。教皇フランシスコも、いつくしみの特別聖年の間に、受刑者のためのミサを捧げられましたし。ご自身が毎年聖週間に刑務所を訪問され、洗足式を行ったり、受刑者への励ましを与え、人権を擁護するように、呼びかけています。

もちろん犯罪を犯した人がその罪を償うことは大切ですし、同時にそういった犯罪被害に遭われた方々のうけた大きな心身の傷にも十分な手当があり、思いをはせ祈ることは重要です。

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しかし教会は、罪を償うにあたっても、神が与えられたいのちの尊厳が護られるようにと呼びかけます。誰一人として本来は犯罪の被害に遭うといういのちの尊厳を脅かされるような状態に出会うことのないように努めなければならないように、罪を償う人のいのちの尊厳も軽視されてよいということもありません。その意味で、刑務所などにおける人間の尊厳を脅かすような事態は改善されるべきだと、教会は長年にわたって呼びかけてきました。

また出所した後にも、なかなか社会に受け入れられず、生活の困難を抱えている人や、また、犯罪の加害者にあっても被害者にあっても、そのご家族の方々が直面する困難にも思いをはせる必要があります。課題は山積しています。

教会は、神が愛する人間が、一人として排除されてよいわけがないと主張します。その意味で、教会共同体としても、愛といつくしみのうちに、マザーハウスをはじめ、各地でのこういった支援活動に協力していく姿勢を失わないように努めたいと思います。

人を裁くのであれば、自分自身も同じ秤で量り返されることを、心にとめたいと思います。

以下は、当日のミサの時手元にあった説教の原稿です(実際にお話しした内容と、少し異なっています)

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

毎日の生活を積み重ねる中で、私たちは一つのことを痛感しています。それは、わたしたちが、どれほど自分に優しい目を向け、他人に対して厳しい目を向けていることか。他人の言葉や行いを見て、口には出さないものの、どれほど心の中でそれを値踏みしていることか。 自分自身のことは、できる限り多くの人に理解してもらいたい。自分自身のことは、みんなから大切にしてももらい。そのように願うのだけれど、それでは肝心の自分はほかの人たちに対してどうだろう。「あいつはダメだ」などと、あっという間に判断を下してしまう私たち。

例えば、テレビやインターネットを見て、誰かのスキャンダルなどが報じられていようものなら、あっという間に私たちは、その人物がどのような人なのか、自分なりの判断を下してしまいます。でも考えてみれば、その興味の対象になっている人に、実際には出会ったことすらない。全く接点がなくて知らない人。本当に限定された情報しか自分の手元にはないにもかかわらず、私たちは簡単に価値判断を下し、他人を裁いてしまいます。

私たちは、どうしてこんなに簡単に、他人を裁いてしまうのでしょう。どうして思いやりの心を持つことができないのでしょう。

教皇フランシスコは、その教皇職のはじめから、神のいつくしみについて繰り返し語ってこられました。ご記憶のように、2015年12月から一年間を、「いつくしみの特別聖年」と定められたほどです。その聖年を告げる大勅書の中に、次の言葉があります。

「神のいつくしみとは抽象的な概念ではなく、わが子のことでからだの奥からわき起こる親の愛のように、神がご自分の愛を明かす具体的な現実なのです。実に『はらわたがちぎれるほどの』愛ということです」

「わが子のことでからだの奥からわき起こる親の愛」をもって、ほかの人たちを見ることができるのであれば、そこには相手を理解しよう、受け入れよう、助けようとするいつくしみと思いやりの気持ちがわき上がるのではないでしょうか。

実に、人類の誕生を描いた創世記には、私たちのいのちが創造された理由に、「人がひとりでいることは良くない。彼にあう助ける者を造ろう」という神のいつくしみに満ちあふれた配慮があるのだと記されています。

教皇様は大勅書で、この親のような愛を、次のように述べられています。
「この愛は深い自然な気持ちとして心からわき起こるもので、優しさ、共感、寛大さ、そしてゆるしの気持ちです」

教会は、神が愛のうちに創造されたこの人間のいのちには、尊厳があるのだと主張します。それは、いのちが完全である神の似姿として創造され、神ご自身が良いものだとされたと創世記に記されているからです。

すべてのいのちは、どのような状態にあったとしても、すべてのレベルにおいて、尊厳のうちに護られなければならず、「優しさ、共感、寛大さ、そしてゆるしの気持ち」のうちに、神のいつくしみに包まれ続けなければなりません。

さて今日私たちは、受刑者のためのミサをともにささげています。それには様々な側面からの祈りが必要です。

過去を顧みながら許しを求めている人に善なる道が示されるように、祈りたいと思います。同時に犯罪の被害に遭われた方々の、心と体のいやしのために、祈りたいと思います。加害者の、また被害者の御家族の方々の生きる希望のために、祈りたいと思います。そして、すべての人が神の望まれる道を歩むことができるように、受刑者の方々に、また犯罪の被害者の方々に支援の手を差し伸べるすべての人のために、心から祈りたいと思います。

教皇フランシスコは、難民や移民の受け入れに消極的な世界に向かって、無関心のからを打ち破って手を差し伸べようと呼びかけてこられました。同じことを今日呼びかけたいと思います。様々な理由から、社会の周辺部へと追いやられている多くの方々に、無関心のからを打ち破って手を差し伸べる教会でありたいと思います。

その上で、教皇は、私たちが無関心のからを打ち破り、共感の心を持つために、四つの行動が大切だと言われます。それは、「受け入れる、守る、促進する、共生する」という四つの行動です。この四つは、社会の中心から排除され忘れ去られている人たち、すべてに対して、手を差し伸べようとするときに必要だと感じます。

「受け入れる、守る、促進する、共生する」
私たちすべてが、大なり小なり、必ずや罪人であるのだという現実をまず直視し、その中で、いかに互いをいつくしみをもって受け入れあい、善なる道を進むことができるように守りあい、希望を失わないように促し、手を携えてより良い共同体を生み出していくことができるのか。あらためて祈りのうちに、考えていきたいと思います。

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