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2018年12月 8日 (土)

澤田和夫神父様、白寿の感謝ミサ

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東京教区の名物司祭のひとりであるヨハネ澤田和夫神父様は、1919年12月9日の生まれです。すなわち、明日で99歳。白寿であります。

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本日午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、澤田和夫神父様の白寿を祝い、感謝のミサが捧げられ、神父様とこれまで様々な出会いのあった多くの方々が参加してくださいました。その中には、岡田名誉大司教をはじめ司祭や修道者も多く、また信徒ではない方、様々な身体的であったり精神的困難を抱えて生きておられる方などなど、これまでの澤田神父様の人生を象徴するようなバラエティーに富んだ方々が集まりました。

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澤田神父様は、このところ車椅子での生活をされており、日曜日にはそのまま関口教会の主日ミサに会衆席から参加されておられます。今日は、屈強な侍者の青年たちが多数集まり、澤田神父様を、車椅子ごと内陣へ持ち上げ、久しぶりの共同司式となりました。

ミサ後には、ケルンホールで茶話会が行われ、神父様のお元気に、ケーキのロウソクの炎を吹き消されておりました。

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神父様、お誕生日おめでとうございます。次は来年の100歳の誕生日を目指して、これからもお元気でお過ごしくださいますように。

以下本日の説教の原稿です。

司祭が長年忠実にその務めを果たしてきたことを祝うとき、わたしたちは、神からの呼びかけ、すなわち召命に前向きに応えている人生そのものをお祝いいたします。ですから、澤田神父様の99歳の誕生日を祝うこのミサで、まずは召命について少し考えてみましょう。

召命は、わたしたちが神の望まれる生き方を選択することにあり、そのなかには司祭や修道者となる生き方もありますが、わたしたちキリストに従う者にはすべからく、何らかの神からの呼びかけがあり、すなわち召命があります。わたしたちひとりひとりは、その召命に忠実に生きるようにと招かれています。

わたしたちは、人生の中にあって幾度となく、どのように生きていくのか選択を迫られ、決断を重ねていきます。司祭や修道者になることだけではなく、わたしたちが神に従う者としてどのような生き方を選ぶべきなのか、どのような生き方へと招かれているのか、その神の呼びかけに耳を傾ける努力を続けることは、すべてのキリスト者に共通している大事な務めです。

召命のために祈るのは、単に、司祭が増えるようにとか、修道者が増えるようにと祈ることだけなのではありません。そうではなくて、キリストに従う者すべてが、神からの呼びかけを識別しながら、最善の道を見いだすことができるようにと、兄弟姉妹皆のために祈ることでもあります。

澤田神父様は1951年の12月に叙階されていますので、99年の人生のうちほぼすべてとも言うべき70年近くを司祭として奉仕されてきました。司祭が長年にわたり教会へ、社会へ、そして多くの人々へ奉仕されたことに感謝をささげるとき、わたしたちは、召命に生きる姿の模範をそこに見いだします。召命は、司祭であれ信徒であれ、キリストに従うすべての者に与えられているのですから、澤田神父様のように、長年にわたって司祭が忠実にその使命に生きる姿は、勇気を持って神からの呼びかけに応え生きる姿として、すべてのキリスト者の模範であります。

司祭は叙階の秘跡によって、「最高永遠の祭司であるキリストにかたどられて、新約の真の祭司として、福音を宣教し信者を司牧し神の祭礼を執行するために聖別される」とカテキズムには記されています。すなわち司祭には、三つの重要な役割があるということです。

一つ目は「福音を宣教すること」。二つ目が「信者を司牧すること」。そして三つ目が、「神の祭礼を執行する」ことです。この三つの務めすべてに忠実に生きる司祭の姿は、すべてのキリスト者にとって生きる姿勢への模範を示すものでもあります。

わたしたちは、司祭の示す模範に倣って福音を宣教したい。わたしたちは司祭の示す模範に倣って教会共同体を育て上げたい。そしてわたしたちは司祭の示す模範に従って聖なる者でありたい。

多くの方々が、澤田神父様の70年に及ぶ司祭生活の中で、様々な出会いの体験から、この三つの司祭の務めにおいて、大きな影響を受けられてきたことと思います。勇気を持って、司祭としての召命に応え、忠実に生きてきた人生の模範であります。

神からの呼びかけに、謙遜のうちにも勇気を持って応えられた最高の模範は、聖母マリアの生き方であります。

教皇フランシスコは、聖母マリアは祈りと観想のうちに、密やかに生きる信仰生活の姿を示しているだけではなく、その霊的な土台の上に、助けを必要とする他者のために積極的に行動する力強い信仰者の姿の模範でもあると指摘されます。

使徒的勧告「福音の喜び」の終わりに、次のように記しています。
「聖霊とともにマリアは民の中につねにおられます。マリアは、福音を宣べ伝える教会の母です。・・・教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります。というのは、マリアへと目を向けるたびに、優しさと愛情の革命的な力をあらためて信じるようになるからです」(288)。

聖母マリアの人生を見れば、それは決して弱さのうちに恐れているような生き方ではありません。それどころか、神から選ばれ救い主の母となるというすさまじいまでの人生の転換点にあって、「私は主のはしためです。お言葉通りに、この身になりますように」と、恐れることなくその運命を受け入れ、主イエスとともに歩み、その受難の苦しみをともにしながら死と復活に立ち会い、そして聖霊降臨の時に弟子たちとともに祈ることで、教会の歴史の始まりにも重要な位置を占めるのです。教会にとって、これほどに強い存在はありません。まさしく、信仰における「革命的な力」を身をもって表された方です。

しかし聖母マリアは、あくまでもその強さを誇ることなく、謙虚さと優しさのうちに生きて行かれます。ですから謙虚さと優しさは、弱い者の特徴なのではなくて、本当に強い者が持つ特徴であると言うべきでしょう。

教皇フランシスコの言葉は、現代社会が優先するさまざまな価値観への警鐘となっています。聖母マリアの生き方を語るとき、ここでも、いったい本当に力のあるものはだれなのかという問いかけを通じて、この世の価値基準への警告を発していると感じます。今の世界では、いったいどういう人が強い者だと考えられているのか。その判断基準は、真の強さに基づいているのか。

聖母マリアの生き方を見るときに、本当の強さとは、謙虚さと優しさという徳のうちにあるのだとわかります。それならば、私たちの世界は「謙虚さと優しさ」に満ちているでしょうか。残念ながらそうとはいえません。それよりも、自分たちが一番、自分たちこそが強いと虚勢を張って他者を排除し、困難に直面する人や助けを必要とする存在に手を差し伸べるどころか、不必要なものとして彼らに関心を寄せることもなく、排除すらしてしまう。そんな虚勢を張った強者の価値観が力を持ち始めてはいないでしょうか。虚勢を張った強者の価値観は、どこまでも自分本位で身勝手です。

聖母マリアの生きる姿勢に倣いながら、私たちも謙虚さと優しさのうちに、神から与えられた召命に一生涯忠実に生きていきたいと思います。

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