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2019年2月28日 (木)

御受難修道会の助祭叙階式@秋津教会

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2月23日の午後1時半から、秋津教会で、御受難修道会の会員であるヨセフ稲葉善章さんの助祭叙階式が行われました。これまで聖アントニオ神学院で学ばれ、秋津教会で司牧実習もされておられたとのことで、現在は御受難修道会は東京に修道院が存在しないものの、秋津教会での式となりました。

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当日は日本準管区長の山内十束神父をはじめ、御受難会の会員が大阪や福岡から駆けつけ、またその昔の青年時代に横浜の戸塚教会で出会ったという新潟教区の石黒神父、そして瀬田のフランシスコ会会員も参加。秋津教会主任の天本神父をはじめ近隣の教区司祭も加わり、10名を超える共同司式となりました。

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秋津教会の聖堂は一杯でしたし、侍者団もたくさん参加され、これから助祭として近い将来の司祭叙階への準備を進める稲葉さんのために祈りました。秋津教会での叙階式は珍しかったようです。確かに司祭や助祭の叙階式、また修道者の誓願式は、なかなか参加する機会もないので、今回、秋津教会で行われたことは良かったと思います。こういう機会に、ご自分の司祭や修道者への召命に目覚めてくれる人が現れるように、期待を込めて祈ってます。

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以下、当日の説教の原稿ですが、後半部分は、叙階式の儀式書からの引用です。

わたしたちの信仰は、一人で生きるものではなく、共同体の中で生きていく信仰です。旧約にあって神がイスラエルを民として救いに導いたように、また新約にあってはイエスが弟子たちを呼び集め共同体を築くことから始めたように、わたしたちの信仰は、共同体で生きる信仰です。

もちろんキリストに従うのかどうかは、個々人の決断であることは間違いありませんが、しかしその決断は共同体の中で育まれ豊かにされていきます。わたしたちの信仰は、共同体なしでは成り立たない信仰です。

実に福音を多くの人に告げしらせるためには、教会共同体が福音を証しする共同体となっていなくてはなりません。例えばこの教会を初めて訪れる人が、そこでの出会いから何を感じ取るのか。そもそも教会共同体がどのような雰囲気を醸し出しているのかは、福音宣教にとって重要なポイントです。日曜日の聖堂に満ちあふれている雰囲気こそは、その教会共同体のあり方の反映です。

現代社会において、真摯に福音宣教に取り組もうとするなら、それは何らかのテクニックを考えることではなく、教会共同体を成長させるところからはじまらなくてはなりません。言葉と行いによるあかし以上に力強い福音宣教はありません。それは一人のカリスマのある人物の出現に頼っているのではなく、教会共同体が全体として、社会の中における福音のあかしの発信源とならなくてはなりません。あの聖霊降臨の日、聖霊は聖母とともに集まった弟子たちの共同体の上に注がれ、その共同体の言葉によるあかしが、多くの人にとってキリストの福音のあかしとなりました。

その意味で、わたしたちの教会共同体が、そのような状態であるのかを振り返ることは大切です。少子高齢化が教会にも現実的な危機として感じられる昨今、わたしたちは今あるものの維持という多少後ろ向きな積極性に引きずられている嫌いがあります。その積極性を、前向きの積極性に変えていきたいのです。

教皇フランシスコは、福音の喜びの中で次のように指摘され、常に挑戦者であることを求められます。
「自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」(EG20)

その上で教皇は次のようにも指摘されます。
「教会は無償のあわれみの場でなければなりません。すべての人が受け入れられ、愛され、ゆるされ、福音に従う良い生活を送るよう励まされる感じられる場でなければならない」(EG114)

また本日の第一朗読にはパウロの言葉が次のように記されていました。
「へりくだりと優しさをもち、広い心で、愛によって互いに耐え忍び、平和という絆で結ばれて、霊のもたらす一致を大切に保つように」

はたしてわたしたちの教会共同体は、この社会の現実の中でどのような存在でしょうか。なにをあかししているのでしょうか。

前向きに積極的に出向いていく教会共同体でしょうか。あわれみといつくしみを感じることのできる共同体でしょうか。愛を感じ、励ましを受ける共同体でしょうか。互いにへりくだり、優しくある共同体でしょうか。互いに広い心と愛のうちに、耐え忍び合う共同体でしょうか。平和、すなわち神の望まれる秩序が実現し、祈りのうちに一致しているでしょうか。

教会共同体を強調することは、それぞれの個性を無視して、皆がおなじように同じことをするようにと内向きな圧力のかかる共同体となることではありません。共同体を前向きに育てるためには、それぞれが与えられたカリスマを理解し、それを生かし、共通の善のために行動することが不可欠です。いつくしみと寛容さにあふれた共同体こそが、個々のカリスマを豊かに生かす共同体となります。

そういう教会共同体を育てて行くに当たって、牧者である司祭の役割は重要ですし、それを助ける助祭の役割も重要です。(以下、儀式書から少し言葉を変えての引用)

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ご列席の皆さん。稲葉善章さんは、まもなく助祭団に加えられます。助祭の奉仕の務めとは何でしょうか。

助祭は聖霊のたまものに強められ、神のことばと祭壇に奉仕し、愛のわざに励み、すべての人に仕えて、司教とその司祭団を助けます。祭壇に奉仕する者となって福音を告げ知らせ、ささげものを準備し、主の御からだと御血を信者に授けます。

さらに、助祭の奉仕職には、司教から命じられたことに従って、信者にも信者でない人にもよい勧めを与え、聖なる教えを伝え、祈りを司式し、洗礼を授け、結婚に立ち会って祝福を与え、死に臨む人にキリストの聖なる糧を授け、葬儀を司式することがあります。

助祭は、すべての務めを神の助けによって果たし、仕えられるためではなく仕えるために来られたキリストのまことの弟子であることを示してほしいと思います。

稲葉さん、あなたは自らすすんで助祭に叙階されることを希望しているのですから、かつて使徒たちによって愛のわざの奉仕者として選ばれた人々のように、人望があつく、聖霊と知恵に満たされた者でなければなりません。あなたは独身のまま奉仕職を果たそうとしています。独身生活は、牧者としての愛のしるしと励ましであり、また、世にあって豊かな実りをもたらす特別な源なのです。主キリストへのひたむきな愛に駆り立てられ、すべてをささげてこの生き方を貫く人々は、ほかのことにとらわれず、よりたやすくキリストに結ばれるでしょう。こうして、より自由に神と人々に仕えることに専念し、人々を神によって新たに生まれる者とするわざに、よりよく奉仕することができるのです。信仰に根ざし、これを土台にして、キリストの役務者、神の秘義を人々にもたらす者にふさわしく、神と人々の前で汚れのない者、非のうちどころのない者として自らを示してください。また、福音の告げる希望から目をそらさないでください。あなたは、福音を聞くだけではなく、福音に奉仕しなければならないのです。

清い心で、信仰の秘義を保ち、口でのべ伝える神のことばを行いで示してください。こうして聖霊によって生かされるキリストの民は、神のみ旨にかなう清いささげものとなり、あなたも終わりの日に主を迎えて、「忠実な良いしもべだ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」という主のことばを聞くことができるでしょう。

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2019年2月27日 (水)

3月の予定

2月は、本当にあっという間に時間が過ぎ去る月だと感じます。まもなく3月ですので、主な予定を記します。

なお、すでに教区人事の公示に記載されているように、4月1日から教区本部の事務局次長が司教秘書として赴任します。神言修道会のエドガルド・ジュニア・サンティアゴ神父ですが、たぶんディンド神父と言えばご存じの方もおられるかと思います。4月1日以降は、私のスケジュール管理をはじめ司教へのさまざまな問い合わせなどに、まず最初に対応する窓口となっていただく予定です。

3月2日(土) 新潟地区信徒大会、講演とミサ (新潟)

3月3日(月) 責任役員会 (教区本部)、HIV/AIDSデスク会議 (15時半、潮見)

3月5日(火) バチカンより日本へ祈りのレクイエム、コンサート 

3月6日(水) 灰の水曜日ミサ (10時、関口教会)

3月7日(木) 常任司教委員会ほか (9時、潮見)

3月8日(金) ロゴス点字図書館 (午後、潮見)

3月10日(日) 一粒会総会 (関口)

3月11日(月) 司祭評議会、 東日本大震災8年追悼ミサ (14時半 カテドラル)

3月13日(水) 日本聖書協会会議 (10時半、日本聖書協会)

3月15日(金) ペトロの家会議 (14時半 教区本部)、経済問題評議会 (18時半 教区本部)

3月16日(土) アジア学院評議員会 (11時 都内)、 宣教司牧評議会 (14時半 教区本部)

3月17日(日) 「性虐待被害者のための祈りと償いの日」の集いとミサ (13時半、新潟教会)

3月18日(月) 新潟教区顧問会、司祭代表会議 (午後、新潟教区本部)

3月19日(火) 新潟司祭代表会議 (午前、新潟教区本部)、ロゴス点字図書館理事会 (14時半、潮見)

3月20日(水)~23日(土) カリタスアジア総会 (バンコク)

3月24日(日) 北町教会60周年ミサ (9時半)、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」晩の祈り (17時、カテドラル)

3月25日(月) 司祭月例会 (午前中、教区本部)、滞日外国人司牧関連会議 (13時半、教区本部)

3月26日(火)~29日(金) 国際カリタス理事会 (ウィーン)

3月31日(日) 茂原教会四旬節黙想会 (9時半講話、11時ミサ、茂原教会)

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「聖書 聖書協会共同訳」発行記念の式典@銀座教会

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日本聖書協会が推進役となり事業が進められてきた、いわゆる「共同訳」の新しい聖書が完成したのは、ご存じの通りです。今回は推進役となった聖書協会の名前を取り、「聖書 聖書協会共同訳」と命名されています。昨年12月に発行されました。

その発行を記念して、記念の講演会と奉献式が、2月22日の金曜日の午後、銀座教会を会場に行われましたので、参加してまいりました。

日本聖書協会には、その理事会にカトリック教会からも理事を出しており、これまでは横浜教区の梅村司教様が務めてくださいましたが、今年から私が理事に入ることになりました。

今回の新しい翻訳事業は、すでに2003年頃から始められており、1987年に発行された「新共同訳」以来、31年ぶりの新しい翻訳の登場となります。プロテスタント諸教会の専門家とカトリックの専門家が協力し合って完成した、一大事業です。

その翻訳方針は、いくつかありますが、特に「日本の教会の標準訳聖書となること」を目指し、「礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳を目指」して、作業が続けられました。聖書学の専門家とともに、日本語の専門家や、現場での司牧者も、様々なレベルで加わり、共同作業で完成した翻訳です。

カトリック司教協議会は2010年2月の司教総会で、今回の翻訳事業をカトリックとプロテスタントとの共同事業として認めています。聖書協会の事業の経緯や翻訳への取り組みは、こちらのリンクをご覧ください。聖書協会ホームページ上のPDF文書へのリンクです。

長い年月にわたって、今回の翻訳事業のために献身された多くの専門家の方々、聖書協会の関係者のみなさま、本当にご苦労様でした。御献身に、心から感謝申し上げます。

「自分の人生の60代のすべてを、この翻訳事業のためにささげた」とお話しくださった専門委員の方もおられました。聖書翻訳という歴史に残る事業のために、力を尽くしてくださったみなさまに、感謝します。

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当日の講演会は、オランダで同じく共同訳の聖書翻訳に携わられたローレンス・デ・ヴリース教授による「神の言葉と、今を生きるわたしたち」と題したお話で、どうして聖書の翻訳をし続けていくのかと、翻訳をあらため続ける意義についてお話しくださいました。

銀座教会には一杯になるほどの関係者が集まり、講演会後には祈りの式を持って新しい翻訳を奉献。式では聖書協会理事長の大宮溥先生が説教され、カトリックを代表して私が、そして聖公会を代表して総主事の矢萩新一司祭が祝辞を述べました。

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奉献式後には、会場を近くのホテルに移し、さらにたくさんの諸教会関係者が参加し祝賀会。ここではカトリックを代表して、梅村司教が祝辞を述べられました。

聖書研究や個人での使用については、どうぞ積極的にご利用ください。公式の典礼における朗読などでの利用に関しては、司教団として検討をさらに深めているところです。

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2019年2月24日 (日)

世界病者の日ミサ@東京カテドラル、2月11日

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2月11日はルルドの聖母の御出現の記念日ですが、同時に世界病者の日とも定められています。この日東京のカテドラルでは、二つのミサが捧げられました。午前中は、ボーイスカウトなど、スカウト運動の創始者であるロバート・ベーデン=パウエル卿の誕生を祝って、東京のカトリックスカウトによって行われたB-P祭ミサ。

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ロバート・ベーデン=パウエル卿の誕生日が1857年2月22日であることから、その日に近い日を選んで行われています。カテドラルの聖堂一杯に、各地から700名を超えるスカウトが集まり、ミサの終わりには宗教章の授与も行われました。

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そして午後1時半からは、世界病者の日のミサ。こちらも多くの方が参加し、祈りをともにしました。また教皇大使もミサに参加してくださいました。ミサの後には茶話会もありましたが、たくさんの方が一度に集まるので、皆さんとお話しできませんでしたし、顔出しをするようにと呼ばれていた会合にも行くことができず失礼しました。

以下、世界病者の日のミサ説教の原稿です。

完全完璧な人間など、この世には存在しません。もちろんわたしたちの信仰は、完全完璧な存在は神のみであり、人間をその似姿として創造されたにすぎないのですから、もとより完全完璧であるはずがありません。

にもかかわらず、多くの場合わたしたちは、思い違いをしてしまいます。心身の健康を保ち、医者とは無縁の生活をしているとつい、自分は誰からも助けなど必要のない存在であると勘違いをしてしまうのです。

その間違いの行き着くところは、神の存在など無視して、まるで人間がすべてをコントロールしているかのように錯覚し、この世の森羅万象は、人間の知恵と知識でなんとでもできるのだという思い違いであります。

人間が完璧ですべてをおさめているという思い違いは、身勝手な価値判断を生み出してしまいます。この人間社会の役に立っているから価値がある。社会に貢献しない存在には価値がない。

そうやって、本来完全完璧ではない人間が思い違いをし、人の価値を定めようとするとき、行き着く先は、人間の存在の根源である命でさえも、人間がその存在を判断できるという、究極の思い違いであります。

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教皇様は今年の第27回世界病者の日にあたり、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言うマタイ福音の言葉をテーマとしたメッセージを発表されています。

2月11日と言う日は、1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り湧き出した水は、その後、60を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かにわき出しています。

教皇聖ヨハネパウロ2世が、1993年に、この日を世界病者の日と定められました。
今年は、インドのカルカッタで、世界病者の日の行事が行われることから、教皇様のメッセージも、コルカタの聖テレサの活動を取り上げ、教会の愛の業の本質である無償での奉仕の尊さについて触れておられます。

メッセージの中で、教皇様は次のように述べられています。
「人はだれもが貧しく、助けを求めており、必要なものに事欠いています。生まれたときには、両親に世話してもらわなければ生きていけません。それと同様に、人生のあらゆる段階や局面で、わたしたちは皆、他者を必要とし、助けを求めずにはいられません。また、ある人や物の前で自分の無力さを実感するという限界から逃れることもできません。こうしたことは、わたしたちが「被造物」であることを表す特徴でもあります。この事実を率直に認めることにより、わたしたちは謙虚さを保ち、生きるうえで欠かせない徳である連帯を、勇気をもって実践するよう促されます。」

教会が病者のために祈るのは、もちろん第一義的には、イエスご自身がそうされたように、具体的に奇跡的な病気の治癒があるようにと願ってのことですが、同時にもっと広い意味をそこに見いだしているからです。

私たちは、様々な意味で病者であります。教皇様がメッセージで言われるように、何らかのかたちで「必要なものに事欠いて」おり、誰かの助けがなければ生きていけません。ジャングルの中に裸で放り出されて生き延びる人間はまずいないように、わたしたちは社会という共同体の中で守られ助けられて、命をつないでいます。

冒頭で触れたように、そもそも完全で完璧な人間は存在しません。たとえば障害者という言葉に対峙するかのように、健常者などという言葉を使ってしまいますが、よくよく考えるまでもなく、わたしたちは大なり小なり困難さを抱えて生きているのであり、また齢を重ねれば当然にその困難さはまし加わります。肉体的な困難さではなく、心に困難を抱えている人も多くおられるでしょう。

皆同じように、なにがしかの困難を抱えて生きているからこそ、その程度に応じて、私たちは助け合わなければならないのです。支え合って生きていかなくてはならないのです。

創世記の冒頭の天地創造の物語における神の言葉です。
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

私たちのいのちは、互いに助け合うためにと創造されているのです。
わたしたちすべてが、誰かの助けを必要とする弱い存在であるからこそ、教会とは、なにがしかの困難を抱えて生きている人が、互いに支え合って生きていく場であります。主イエスの癒やしの手は、私たちすべてに向けられています。私たちは教会にこのようにしてともに集うとき、その主イエスの癒やしの手に、ともに抱かれて、安らぎを得るのです。わたしたちの存在そのものを愛し、大切に思ってくださる神の、いやしの手に包まれて希望の光を見いだすのです。

ですから今日の世界病者の日は、特定の疾患のうちにある人たちへの回復だけを対象にした、特別な人の特別な日ではなく、私たちすべてを包み込む神の癒やしの手に、ともに包み込まれる日でもあります。主の癒やしの手に包み込まれながら、互いの困難さに思いやりの心を馳せ、その程度に応じながら、具体的に支え合って生きていくことができるように、決意を新たにする日でもあります。

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人間が完璧だなどと高ぶり、人間の存在の価値を定めようとするわたしたちの思い上がりをただす日でもあります。わたしたちは皆、神の前で不完全であり、互いに誰かに助けられて初めて、より良い生き方の道を選び取ることができるのです。

「教会は無償のあわれみの場でなければなりません」と教皇様は呼びかけられます。ルルドの泉で神のいやしの泉へとベルナデッタを招いた聖母マリアが、わたしたちが私利私欲ではなく、謙遜のうちに互いに助け合い、心のいやしを得られる道へと導いてくださいますように。

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2019年2月16日 (土)

藤岡師、國枝師、納骨式@府中墓地

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今日の土曜日午前11時から、府中墓地において、二人の教区司祭の納骨式を執り行い、多くの方に参列していただきました。幸い、暖かな日差しに恵まれた穏やかな土曜日となりました。

お二人の教区司祭は、パドアのアントニオ藤岡和滋神父とペトロ國枝夏夫神父。藤岡師は昨年の11月21日に、國枝師はその5日後の11月26日に亡くなられました。藤岡師が87歳、國枝師が86歳。(上の写真、向かって左が國枝師、右が藤岡師)

ほぼ同じ時間の流れの中で、二人は司祭職を果たしてこられました。興味深いことに、お二人とも8月のお生まれでした。藤岡師は1931年8月8日、國枝師は1932年8月5日。

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同じ時間を歩んできたお二人でしたが、その司祭としての人生は、同じ内容ではありませんでした。私にとってはお二人の現役時代のことは、伝聞でしか知らないのですが、その司祭人生は全く異なっていたようです。

藤岡師は、最後の最後までミサをささげることに全力を尽くした司祭でした。病気が進んで、立つことがままならなくなっても、ミサにだけは出てこようと努力なさっていました。亡くなる三日前の日曜日にも、関口教会のミサを司式されようと努力をしておられましたが、残念ながら体力がそれを許しませんでした。藤岡師の司祭としての人生は、小教区での司牧活動に全力を挙げた人生でありました。

國枝師のそれは、学生の指導司祭や様々な活動に身を投じ、どちらかというと小教区司牧とは異なる道を歩まれたようです。

しかしいずれの人生も、ローマの教会への手紙でパウロが語るように、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません」を具体的に生きた人生であったと思います。それはまさしく「司祭」を生きた人生であったと思います。

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すなわち「司祭」として生きることは、いわゆる職業としての司祭を務めることなのではなく、司祭を生きることそのものであります。「これとこれの、定められた業務を果たせば司祭がつとまる」のではなく、その生涯をかけて、最後の瞬間まで司祭を生きるのだと思います。その司祭を生きる人生は、自分のためではなく、主のために、さらにはすべての人のために、生き、死んでいく人生です。

生涯を司祭として生き抜き、いのちへの道を歩み続けた二人の司祭の、永遠の安息をお祈りください。

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2019年2月11日 (月)

新庄教会で雪の聖母祭@山形県

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この週末、2月9日と10日は、山形県の新庄市で過ごしました。山形県は、秋田県や新潟県と一緒に新潟教区を構成しています。わたしはまだ、新潟教区の教区管理者を兼任していますから、この訪問は新潟教区での務めです。

新庄市の少し南にある舟形町に、カトリック新庄教会があります。雪の聖母にささげられた教会は、毎年この時期に、大雪の中で雪の聖母祭を行ってきました。私としては、この教会の成り立ちに個人的な思いがあるので、なんとかして一緒に時間を過ごしたいと考えておりました。

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この教会は、できあがって来年が10年です。共同体はもっと前からありました。この地域で結婚して、住民として、妻として、母として生きている、フィリピン出身の信徒の方々が共同体の大半です。彼らの思いが結集して、できあがった教会です。9年前に、廃園となった一般の私立幼稚園の土地建物を買い取って改築し、教会としました。10月に献堂式をしたとき、共同体には90人近いフィリピン出身の信徒と、3名の日本人信徒が登録されていました。

新庄教会を担当しているのは、山形教会の主任司祭でもある千原神父様。新幹線に乗って山形駅に着くと、思ったほど雪がありません。千原神父様の車に乗って、国道13号線を北上し、新庄に近づくと道路の両端には山のような雪が。新庄教会は、例年のように雪に埋まっていました。

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周囲は田んぼや公共施設のため、いくら騒いでも苦情が出ることのないので、夜の食事会が大好きなこの共同体にとっては絶好のロケーションですが、何せ雪が半端ない。毎年の除雪費用が数十万円に及ぶのが、共同体の頭痛の種です。かといって除雪しなければ、建物は大変なことになります。昨年はまれに見る大雪で、除雪だけで数十万円が吹き飛び、赤字決算でした。

さて、夕方に教会に集まってきた20数名の信徒の方と一緒に、聖堂でロザリオの祈りを捧げ、千原神父様が聖母像をもち、皆はロウソクを手に、外へ出ました。

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教会の裏庭には、雪の中に祠がほられ、ロウソクがともされています。そして中心部には祭壇が作られ、皆で行列をして裏庭を回り、最後に聖母像が安置されました。さすがに寒いので、長時間は無理ですが、それでも皆で祈りを捧げ、聖歌を歌い、私も聖水をもって祝福をしました。

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祈りの後は皆で夕食会。楽しいひとときを過ごすことができました。

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翌日曜日は、午前10時半からミサ。普段は山形教会のミサが終わってからのため、新庄は午後のミサですが、この日曜は、午後に東京へ戻らなくてはならない私のために、皆が10時半に集まってくれました。山形や秋田県からも、信徒の方がやってきて、聖堂は一杯でした。

最初に触れたように、まもなく献堂10年です。10年前に、自分たちの教会を作ろうと燃えた人たちも10歳年をとりました。まだまだ燃えている人も少なくありませんが、10年はそれなりの時間です。今度は次の10年を見据えて、この教会をどのようにさらに自分たちの教会として育てていくことができるのかが、これからの課題です。

ミサ後、皆で持ち寄りの昼食会。2月に誕生日を迎える一人ひとりのために、名前が入ったケーキまで用意されていて、喜びにあふれたひとときを一緒に過ごしました。

もし山形県を訪れる機会があれば、どうぞ一度ご訪問ください。新庄の少し南、舟形町です。

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2019年2月 6日 (水)

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教皇フランシスコの言葉から。「福音の喜び」に次のような記述があります。

「神は人々を個々人としてではなく、民として呼び集めることをお選びになりました。一人で救われる人はいません。」(EG113)

教会はいろいろな人の集まりですし、いろいろな人が集まれば、そこには様々な人間関係が生じます。時には教会の中で対立さえみられ、そのために、教会を離れてしまう人も少なくありません。残念なことだと思います。

信仰は自分と神との関係だから、一人でも大丈夫。そうなのかもしれません。でもわたしたちの信仰の歴史は、その始まりから、共同体のうちに育まれてきました。救いの歴史は、私と神とのプライベートな関係の中にあるのではなく、神とその民との関係の中で刻まれています。

教会は、単に礼拝のために人が集まる場ではなく、現実社会の中で神の民として存在するあかしとして存在し、救いの実現のために不可欠なのです。わたしたちの信仰は、教会共同体の中で育まれます。

だからこそ、教会は常に、誰かを排除していないか、対立を生み出していないか、自らのあり方を顧み続けることが必要です。よく言われるように、対話は、互いの自己主張を我慢することではありません。互いに謙遜と尊敬をもって、それぞれの人生の歴史に耳を傾け、唯一の神の懐に抱かれて、ともに救いの道を目指したいと思います。

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東京教区の宣教司牧方針策定への協力願い

公式には次に発行される「東京教区ニュース」に掲載の予定ですが、次は3月号で少し時間がありますので、お願いの内容を先に掲載します。

なお、このお願いは、東京教区の信徒、司祭、修道者の方々に限定したお願いです。

東京教区のみなさま

東京教区宣教司牧方針策定への協力のお願い

先般、東京教区ニュース1月号(359号)の冒頭にてみなさまにお願いしたところですが、東京教区のこれからの宣教司牧方針を策定する作業に、ご協力ください。

2018年の聖霊降臨祭に、私は「多様性における一致を掲げて」と言う文書を発表いたしました。その中に、宣教司牧方針策定のために考えたい課題が10項目掲げてあります。

これらの課題について、みなさまからの提言をお願いしたいのです。どれか一つで構いません。すべてを網羅する必要はありません。小教区や修道院で、共同体として意見を交換し、提言を作成してください。話し合いのための10の課題は以下の通りです。

1:修道会の垣根を越えた、教区における司牧協力体制の充実

2:滞日外国人司牧の方向性の明確化と見直し

3:継続信仰養成の整備と充実

4:現行「宣教協力体」の評価と見直し

5:カトリック諸施設と小教区・教区との連携

6:イベントの豊かさだけではなく、霊的にも豊かな共同体の育成

7:信仰の多様性を反映した典礼の豊かさの充実

8:文化の多様性を尊重した典礼の豊かさの充実

9:教区全体の「愛の奉仕」の見直しと連携の強化

10:東日本大震災への取り組みに学ぶ将来の災害への備えの充実

話し合いと提言にあたっては、以下の諸点を心にとめてください。

1:個人の意見ではなく、必ず複数の方で意見の交換をお願いします。

2:どのような集まりでも構いませんが、必ず、祈りをもって話を始め、祈りもって終わってください。

3:提言はパソコンなどでワードのA4サイズで作成してください。差し障りがなければ、話し合われた方のお名前と所属小教区、あるいは修道会名を明記してください。

ただし、提言作成責任者のお名前と所属は必ず明記してください。また一つの項目についてはA4で2ページを超えることのない程度に、まとめてください。

4:積極的に前向きで、教区の福音宣教をより良くするための提言をお願いいたします。

5:提言を送付する方法は、次号の「東京教区ニュース」に掲載しますので、ご参照ください。締め切りは、2019年6月9日です。

繰り返しのお願いですが、今回の提言については、東京教区の小教区に所属されている方々、東京教区で働かれている司祭、また東京教区内の修道院に所属されている方々に限定したお願いです。東京教区以外の方からの提言は、残念ながら取り上げることはできませんので、是非ともご留意ください。

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2019年2月 5日 (火)

本所教会の殉教祭とベトナム語ミサ

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本日2月5日は、日本26聖人殉教者の祝日です。この26聖人を保護の聖人にいただく墨田区の本所教会では、長年にわたり一番近い日曜日に殉教祭を行っています。

と言うわけで、今年は2月3日の日曜日。午前9時半のミサが、本所教会の殉教祭でしたので、ミサの司式のために出かけました。

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実は、本所教会の日本26聖人殉教者の殉教祭に出かけるのは、ほぼ40年ぶりです。当時の主任司祭であった下山神父様が、長年にわたり名古屋の神言会の神学生養成を支援してくださったこともあり、毎年、この殉教祭には名古屋の神学生がやってきて、楽器を演奏したり、歌を歌ったりしておりました。わたし自身も1972年の殉教祭が初めてだったと思いますが、中学生から高校生、そして大学2年頃まで、毎年この時期は、東京へ遠足気分できておりました。記憶には、とても大きな教会で、とても華やかなお祭りでありました。上の写真はその40年ほど前の、名古屋の神学生が本所教会の聖堂前の庭で楽器演奏をしているところで、右手で立ってサックスを吹いているのが、当時の私です。

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規模は小さくなったものの、大勢の方が聖堂には集まり、日本の殉教者の祝日を祝いました。ミサは、主任司祭の渡邊神父、フランシスコ会のマリオ・カンドゥッチ神父との共同司式でささげられ、信徒の中には、昔から存じ上げている方もいれば、侍者をする青年たちの姿も。そして海外から来られた信徒の方の姿もありました。

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ミサ後には信徒会館で茶話会。準備してくださった皆さん、ありがとうございます。スカイツリーがすぐ目の前に見えて、そびえ立つ姿に、それもちょっとした驚きでした。できれば、また来年も。

同じ日の午後、今度はイグナチオ教会へ移動して、15時からのベトナム語ミサに参加。毎月第一日曜の15時に行われているミサだそうです。

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この日は、直前にはスペイン語のミサもあり、イグナチオ教会は大盛況でした。スペイン語ミサが終わると、今度はベトナム語ミサのために音響機材が大量に運び込まれ、ちょっと驚きました。ミサが始まってわかりましたが、制服をそろえた聖歌隊と(下の写真)それに伴う大がかりな演奏グループ。

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もちろん聖堂は一杯で、立ち見の方も大勢おられました。ベトナム語のミサに来られる方々は、以前から日本に生活されている方に加えて、近年とみに増加している実習生と見られる皆さん。いやあ、その若さと、エネルギーに圧倒されました。

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ミサ中には、お一人が洗礼と堅信を受けられました。残念ながら私はベトナム語ができないので、ミサは日本語で、説教は通訳していただきました。以下は、ベトナム語ミサの説教の原稿です。

年間第四主日
2019年2月3日
ベトナム語ミサ、 麹町教会

わたしたちは、すべて旅人です。実際に、ここにいる多くの方々もそうですが、自分の生まれた故郷を離れて他の町や国で生活をするという旅人もいます。そういう実際の旅に出なくても、わたしたちは時間の流れの中で生きているので、生きている限りは、ある一瞬に立ち止まることはできません。時間は常に前に向かって進んでいきます。ですから、わたしたちは、命のある限り時間の流れを旅する旅人です。この世における人生の終わりに向かって、誰ひとりの例外もなく、わたしたちは旅を続けています。

喜びや希望のある旅もあります。でも、また悲しみや不安の中で続けられる旅もあります。戦争や紛争から逃れるために、いのちの危険のなかを、不安のうちに旅する人たちも、世界中に多くおられます。

教会は、すべての旅人が、まもられなくてはならないと、常に主張してきました。なぜならば教会は、神の似姿である人間のいのちの尊厳が、必ず守られなくてはならないと主張しているからです。すべてのいのちは大切にされなくてはならない。そしてそのすべてのいのちは、全員がいろいろな意味での旅人です。ですから、旅人はまもられなくてはなりません。

もちろんわたしたちキリスト者が知っているように、困難に直面する人々に、救いの手を差し伸べることは、キリスト者の愛の務めです。

コリント人への手紙に、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」と記されています。自分のことばかりを考え、自分の幸せばかりを考える人は、他人のために我慢することができません。自分だけを大切にする人は、他人に対して情け深くなれません。自分ばかりが大切な人は、いつも他の人の方が幸せそうに見えて、ねたみを捨てることができません。自分ばかりが大切な人は、自分を大事にするために威張り散らします。

でもそれはすべて、神の教える本当の愛とは反対のところにある態度です。わたしたちは、困難にある人たちを優先して、手を差し伸べなくてはならない。だから、他人のいのちを大切にし、旅を続ける人に救いの手を差し伸べるのです。

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教会は、現実に旅を続ける人たちの現在の法律的な立場ではなく、人間としての尊厳を最も優先しなくてはならないと、長年にわたり主張してきました。

教皇フランシスコは、旅する人たち、特に難民や移住者への配慮を、いのちの尊厳に基づいて強調されています。多くの旅する人たちが、それぞれの国家の法律の枠内では保護の対象とならなかったり、時には犯罪者のように扱われたりしています。さらには社会にあって文化や言葉が異なる人たちを歓迎しないどころか、排除することさえ、多くの国で起こっています。日本もその例外ではありません。教皇フランシスコは、危機に直面するそのような人間のいのちの現実を前にして、まず人間のいのちはどうやったらまもられるのか、それを最優先するようにと呼びかけています。

2013年の5月、教皇就任直後の最初のローマ教区の外への司牧訪問は、イタリアのランペドゥーザ島でした。この島は、イタリアと言っても限りなくアフリカ大陸に近い島です。2000年頃から、アフリカからの移民船が漂着するようになり、亡くなる人も多く出て、社会問題化していました。

難破した船のさまざまな部品を組み立てたような祭壇や朗読台。この象徴的な朗読台の前に立ち、教皇様はこの日の説教で、その後何度も繰り返すことになる「無関心のグローバル化」という事実を指摘しました。教皇様はこう言われました。

「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった。これが私たちに、はかなく空しい夢を与え、そのため私たちは他者へ関心を抱かなくなった。まさしく、これが私たちを無関心のグローバル化へと導いている。このグローバル化した世界で、私たちは無関心のグローバル化に落ち込んでしまった」

母国を離れようとする人には、他人が推し量ることなどできない様々な事情と決断があったことでしょう。それがどんな理由であったにしろ、危機に直面するいのちに、誰が手を差し伸べたのだろうか。その苦しみとその死に、誰が涙を流したのだろうか。教皇様は力強くそう問いかけました。

世界各地でいのちが危機にさらされています。困難の中で希望を見失っている人たちが増えています。苦しんでいる人たちへの無関心も広がっています。自分とは違う人たちを排除することで安心しようとする社会の傾向も強まっており、排除や排斥によって人間の尊厳が危機にさらされる事態も相次いでいます。

こういった事態を打破するために、互いをよく知ろうと努力することが不可欠だと教皇フランシスコは強調されます。互いに良く語り合う、対話が必要だと強調されます。私たちは、知らない人に初めて出会うとき、どうしても警戒感を持ってしまいます。その人が、良い人なのかどうなのかわからないので、警戒するのです。でも一度良く話をしてみると、その警戒感から解放されることがあります。対話がない限り互いの理解はありえず、理解のないところに支えあいはあり得ません。そして互いの支えあいがないところに、希望は存在しません。

「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」とコリント人への手紙に記されていました。

神への信仰を持って、一つの体として、わたしたちは生きています。その信仰は、わたしたちが愛をもって、互いに支え合うように求めています。互いに支え合うときに、そこには希望が生まれます。

福音の光に導かれて生きようとする私たちは、神から賜物として与えられた人間のいのちが、その始まりから終わりまで、一つの例外もなく尊重されまもられなくてはならないと、あらためて強調します。人間のいのちを危機にさらすような現実を目の前にして、信仰における愛をもって、互いに支え合いましょう。その支えあいから、本当の希望を生み出し、互いに神における希望を持って、社会の現実を変えていきましょう。

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2019年2月 1日 (金)

教皇フランシスコ

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教皇フランシスコの来日がほぼ確実となってきましたが、バチカンの通例通り、半年前くらいにならないと確実な発表が行われませんので、まだ100%とはいえませんが、しかし教皇様ご自身がパナマへ行く機中で、「準備していてください」と言われたようですので、準備をしておきたいと思います。

教皇様のご意向のために、是非ともお祈りをこれまで以上にささげてください。同時に、教皇様の考えておられる教会のあり方について、信仰者の生き方について、少しずつ学びましょう。

これから折を見て、特に「福音の喜び」から、特徴的な言葉を、ごく短く紹介していきたいと思います。その一回目。

「私は出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さ故に病んだ教会より好きです」49

少子高齢化の波は、当然日本の教会を激しく飲み込んでいます。そのためか、だんだんと将来の心配ばかりをするようになってしまっていないでしょうか。教会の中に、ある種の積極性があることは確かですが、それが後ろ向きの積極性になっていないでしょうか。確かに今あるものを失いたくないですし、護りたいですし、大切にしたいのですが、それでもやはり、福音を掲げて、前向きの積極性を持ち続け、常に福音における挑戦者であり続けたいと思います。

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去りゆく務め、新たな務め

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教区の司教職とともに、様々な法人や団体の理事とか評議員とか委員とかの務めをいただいております。任期が定まっている役も多々あり、時には終わりを迎えたり、またはある時には新たなお役目をいただいたりしております。

まもなく終わろうとしている務めは、カリタスアジアの総裁であります。国際カリタスは、世界を7つの地域に分けており、そのうちの一つがカリタスアジアで、現在はカリタスジャパンをはじめ、アジアの24のカリタスがメンバーとなっています。その総裁は、選挙で選ばれ、一期が4年で再選は一度のみ。同時に、国際カリタスの理事会でもある代表委員会のメンバーにもなります。

私は2011年3月に開催されたアジアの総会で総裁に選ばれ、一度再選されましたので、これで8年の任期が終わろうとしています。

この3月にバンコクでカリタスアジアの総会があり、そこで後任の選挙。さらに5月にローマで開催される4年に一度の国際カリタス総会の場で、任期が終了となります。

カリタスアジアの事務局は、タイのバンコクにあり、専任の職員を5名雇用しております。フィリピン出身の事務局長をはじめ、インドネシア、カンボジア、タイの出身者です。

多くの業務はメールやスカイプで済ませることができますが、それでもこの8年間、しばしばバンコクに出かけました。

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3月の後任の総裁選びは推薦選挙ですが、その総会の準備のために、臨時の地域委員会が1月末に開催されたので、23日と24日、バンコクへ出かけてきました。バンコクは、乾期で涼しいのですが、大気汚染がひどいらしく、マスクをしている人たちであふれていました。地域委員会は、マカオ、モンゴル、ミャンマー、パキスタンの代表委員と、国際カリタスの担当者に、私と事務局長。前後の日本での予定があったので、現地は一泊にし、深夜便で出かけて、深夜便で帰国。(上の写真は、会場となったバンコク市内の会議施設。まるで宇宙船のような建物)

終わりを迎える務めもあれば、新しい務めもいただいています。その一つが世界宗教者平和会議(WCRP)日本会議の理事職。今回が初めての理事会参加でしたが、その設立の中心的存在である立正佼成会の本部で会議が行われ、初めて、立正佼成会の本部大聖堂を目にしました。(WCRPについてはこちらのリンクからホームページへ飛びます

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大聖堂の立派な佇まいは言うに及ばず(写真上)、会議のあった法輪閣という建物も巨大で、それだけではなく、そこに働きわたしたちを迎えてくださる職員の方々の、丁寧で、また笑顔の美しいこと。そういえば、新潟教区の米沢で、殉教者の列福記念感謝ミサを行ったとき、千人は集まるという参加者のために、あの狭い殉教地に、朝一番で現れて、「お手伝いします」と手を貸してくださったのは、地元の立正佼成会の方々でありました。

日本の諸宗教の方々が集まり、平和について考え行動するこの団体の活動は、白柳枢機卿様も力を入れて協力していた活動ですので、互いにより良い世界の実現のために、できることを忠実に果たしていきたいと思います。ちなみに現在の理事長は、聖公会の首座主教であり、札幌の主教でもある植松主教様です。

これ以外にも、今年からの新しい務めとして、日本聖書協会の理事にも就任することになっています。

なお2月になっていますので、今月の主な予定を。

  • 2月02日(土) アレルヤ会講演会 (14時イグナチオ教会)
  • 2月03日(日) 日本26聖人殉教者祭 (9時半、本所教会)
  • 2月03日(日) ベトナム語共同体ミサ (15時、イグナチオ教会)
  • 2月04日(月) 司教顧問会など (教区本部)
  • 2月05日(火) カリタスジャパン会議など (潮見)
  • 2月07日(木) 常任司教委員会など (潮見)
  • 2月09日(土)10日(日) 雪の聖母祭 (山形、新庄教会)
  • 2月11日(月) スカウト東京BP祭ミサ (9時半 カテドラル)
  • 2月11日(月) 世界病者日のミサ (13時半 カテドラル)
  • 2月12日(火)~15日(金) 定例司教総会 (潮見)
  • 2月16日(土) 藤岡師、國枝師、納骨式 (11時 府中墓地)
  • 2月17日(日) 南山常磐会ミサなど (10時 カテドラル地下聖堂)
  • 2月18日(月) カトリック小学校連合音楽会 (10時半 午前のみ出席)
  • 2月18日(月) CTIC会議、ロゴス会議 (13時 潮見)
  • 2月22日(金) 聖書協会共同訳発行記念行事
  • 2月23日(土) 御受難会助祭叙階式 (13時半 秋津教会)
  • 2月24日(日) 八王子教会堅信式 (10時)
  • 2月25日(月) 司祭月修 (10時半 教区本部)
  • 2月25日(月) 平和旬間常任会議 (18時 教区本部)
  • 2月26日(火) カリタスジャパン会議 (10時 潮見) 

 

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