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2019年2月24日 (日)

世界病者の日ミサ@東京カテドラル、2月11日

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2月11日はルルドの聖母の御出現の記念日ですが、同時に世界病者の日とも定められています。この日東京のカテドラルでは、二つのミサが捧げられました。午前中は、ボーイスカウトなど、スカウト運動の創始者であるロバート・ベーデン=パウエル卿の誕生を祝って、東京のカトリックスカウトによって行われたB-P祭ミサ。

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ロバート・ベーデン=パウエル卿の誕生日が1857年2月22日であることから、その日に近い日を選んで行われています。カテドラルの聖堂一杯に、各地から700名を超えるスカウトが集まり、ミサの終わりには宗教章の授与も行われました。

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そして午後1時半からは、世界病者の日のミサ。こちらも多くの方が参加し、祈りをともにしました。また教皇大使もミサに参加してくださいました。ミサの後には茶話会もありましたが、たくさんの方が一度に集まるので、皆さんとお話しできませんでしたし、顔出しをするようにと呼ばれていた会合にも行くことができず失礼しました。

以下、世界病者の日のミサ説教の原稿です。

完全完璧な人間など、この世には存在しません。もちろんわたしたちの信仰は、完全完璧な存在は神のみであり、人間をその似姿として創造されたにすぎないのですから、もとより完全完璧であるはずがありません。

にもかかわらず、多くの場合わたしたちは、思い違いをしてしまいます。心身の健康を保ち、医者とは無縁の生活をしているとつい、自分は誰からも助けなど必要のない存在であると勘違いをしてしまうのです。

その間違いの行き着くところは、神の存在など無視して、まるで人間がすべてをコントロールしているかのように錯覚し、この世の森羅万象は、人間の知恵と知識でなんとでもできるのだという思い違いであります。

人間が完璧ですべてをおさめているという思い違いは、身勝手な価値判断を生み出してしまいます。この人間社会の役に立っているから価値がある。社会に貢献しない存在には価値がない。

そうやって、本来完全完璧ではない人間が思い違いをし、人の価値を定めようとするとき、行き着く先は、人間の存在の根源である命でさえも、人間がその存在を判断できるという、究極の思い違いであります。

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教皇様は今年の第27回世界病者の日にあたり、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言うマタイ福音の言葉をテーマとしたメッセージを発表されています。

2月11日と言う日は、1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り湧き出した水は、その後、60を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かにわき出しています。

教皇聖ヨハネパウロ2世が、1993年に、この日を世界病者の日と定められました。
今年は、インドのカルカッタで、世界病者の日の行事が行われることから、教皇様のメッセージも、コルカタの聖テレサの活動を取り上げ、教会の愛の業の本質である無償での奉仕の尊さについて触れておられます。

メッセージの中で、教皇様は次のように述べられています。
「人はだれもが貧しく、助けを求めており、必要なものに事欠いています。生まれたときには、両親に世話してもらわなければ生きていけません。それと同様に、人生のあらゆる段階や局面で、わたしたちは皆、他者を必要とし、助けを求めずにはいられません。また、ある人や物の前で自分の無力さを実感するという限界から逃れることもできません。こうしたことは、わたしたちが「被造物」であることを表す特徴でもあります。この事実を率直に認めることにより、わたしたちは謙虚さを保ち、生きるうえで欠かせない徳である連帯を、勇気をもって実践するよう促されます。」

教会が病者のために祈るのは、もちろん第一義的には、イエスご自身がそうされたように、具体的に奇跡的な病気の治癒があるようにと願ってのことですが、同時にもっと広い意味をそこに見いだしているからです。

私たちは、様々な意味で病者であります。教皇様がメッセージで言われるように、何らかのかたちで「必要なものに事欠いて」おり、誰かの助けがなければ生きていけません。ジャングルの中に裸で放り出されて生き延びる人間はまずいないように、わたしたちは社会という共同体の中で守られ助けられて、命をつないでいます。

冒頭で触れたように、そもそも完全で完璧な人間は存在しません。たとえば障害者という言葉に対峙するかのように、健常者などという言葉を使ってしまいますが、よくよく考えるまでもなく、わたしたちは大なり小なり困難さを抱えて生きているのであり、また齢を重ねれば当然にその困難さはまし加わります。肉体的な困難さではなく、心に困難を抱えている人も多くおられるでしょう。

皆同じように、なにがしかの困難を抱えて生きているからこそ、その程度に応じて、私たちは助け合わなければならないのです。支え合って生きていかなくてはならないのです。

創世記の冒頭の天地創造の物語における神の言葉です。
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

私たちのいのちは、互いに助け合うためにと創造されているのです。
わたしたちすべてが、誰かの助けを必要とする弱い存在であるからこそ、教会とは、なにがしかの困難を抱えて生きている人が、互いに支え合って生きていく場であります。主イエスの癒やしの手は、私たちすべてに向けられています。私たちは教会にこのようにしてともに集うとき、その主イエスの癒やしの手に、ともに抱かれて、安らぎを得るのです。わたしたちの存在そのものを愛し、大切に思ってくださる神の、いやしの手に包まれて希望の光を見いだすのです。

ですから今日の世界病者の日は、特定の疾患のうちにある人たちへの回復だけを対象にした、特別な人の特別な日ではなく、私たちすべてを包み込む神の癒やしの手に、ともに包み込まれる日でもあります。主の癒やしの手に包み込まれながら、互いの困難さに思いやりの心を馳せ、その程度に応じながら、具体的に支え合って生きていくことができるように、決意を新たにする日でもあります。

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人間が完璧だなどと高ぶり、人間の存在の価値を定めようとするわたしたちの思い上がりをただす日でもあります。わたしたちは皆、神の前で不完全であり、互いに誰かに助けられて初めて、より良い生き方の道を選び取ることができるのです。

「教会は無償のあわれみの場でなければなりません」と教皇様は呼びかけられます。ルルドの泉で神のいやしの泉へとベルナデッタを招いた聖母マリアが、わたしたちが私利私欲ではなく、謙遜のうちに互いに助け合い、心のいやしを得られる道へと導いてくださいますように。

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