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2019年3月 6日 (水)

灰の水曜日@東京カテドラル

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3月6日は、灰の水曜日です。四旬節がはじまりました。40日間を通じて信仰の原点を振り返り、キリスト者のあり方をより深く追求し、ふさわしい準備の上で、御復活祭を迎えたいと思います。

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今日の午前10時の東京カテドラル聖マリア大聖堂のミサは、私が司式し、折から東日本大震災復興支援のチャリティーコンサートのグループにイタリアから同行しておられるフランチェスコ・モンテリージ枢機卿も、一緒に司式に参加してくださいました。

モンテリージ枢機卿は、以前は駐韓国教皇大使なども務められた外交官で、その後バチカンで働き、サンパオロ大聖堂の主席司祭を務めておられました。御年84歳で引退されておられますが、ますますもってお元気で、このチャリティーコンサートには最初から賛同しておられ、以前にも来日されています。

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以下、本日のミサの説教の原稿です。

わたしたちが信仰者として生きるとは、いったいどういうことなのか。教会は今、この大きな問いかけに直面しています。残念ながらその主な原因は、わたしたち聖職者の行いにあります。

米国やラテンアメリカ、ヨーロッパ諸国をはじめとして、その数年間、聖職者による未成年への性的虐待の問題が次々とあかされて、さらにはこの小さな教会である日本でも、同様の問題があることが明らかになっています。今、その問題を避けて教会を語ることはできません。

2月21日から24日まで、「教会における未成年者の保護」をテーマに、世界中の司教協議会会長が呼び集められ、バチカンで会議が行われました。その閉幕に当たりささげられたミサで教皇様は、「人々の魂を救いに導くために神から選ばれ、自らを奉献した者が、自分の人間的弱さや病的なものに打ち負かされ、無垢な子どもたちさえ犠牲にしてしまう、この虐待問題に、わたしたちは悪の手を見ることができる」と指摘されました。

その上で、「人々の正当な怒りの中に、教会は、不正直な奉献者に裏切られた神の怒りを見ている」と厳しく指摘し、この問題に真摯に取り組んでいく姿勢を強調されました。

本来教会は、社会における道徳的権威として、また倫理的信頼性に足る存在として、宗教の枠組みを超えて道しるべとなるべき存在です。それが、指導者であるはずの聖職者によるこのような問題を起こす体質であったことを真摯に反省し、虐待を受けた被害者の方々に誠実に関わっていかなければならないと、痛感しています。

パウロはコリントの教会への手紙の中で、「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」と述べています。さらには、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」とも述べています。

四旬節は、まさしくこの点を自らに問いかけ、神の前で誠実な僕であるのかどうかを振り返るときでもあります。果たしてわたしたちは、それぞれに与えられた神からの恵みを十分に生かして、キリストの使者としての務めを果たしているのかどうか。

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振り返るときに、心にとめておかなくてはならないことがあります。それは本日の第1朗読に記されていた、言葉です。預言者ヨエルは、「衣を裂くのではなく、おまえたちの心を引き裂け」と、主である神の言葉を伝えます。

わたしたちは、人間ですから、それぞれが心の中に承認欲求のような感情を抱えています。誰かに認められたい。それ相当に評価されたい。また、自らの望みを実現したいという、自己実現への欲求もあります。当たり前のことです。

信仰者として生きていくときに、わたしたちは本来、「キリストの使者としての務め」に重心を置いていかなければならないはずなのですが、どうしてもわたしたちの弱さは、承認欲求や自己実現へとその重心を引きずり込もうといたします。その生き方をイエスは、「偽善者たち」と指摘します。偽善者とは、すなわち自分の欲求に重心を置いて生きている人、自分中心に世界を回そうとする人であります。

自分の欲求に重心を置くときに、結局わたしたちは、教皇の言われる「悪の手」に身をゆだねてしまう可能性があるのです。本来「キリストの使者」として果たすべき、社会の現実にあって神のいつくしみを言葉と行いであかしし、その光を輝かせるという大切な働きを忘れ去り、周りの人々の心にまなざしを向けることなく、欲望の赴くままに道を踏み外してしまいます。

ヨエルの預言は、わたしたちにこう語りかけています。
「あなたたちの神、主に立ち返れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、いつくしみに富み、くだした災いを悔いられるからだ」

何度も何度も失敗を繰り返し、道を踏み外し、自分中心に生きようとするわたしたちに、預言者は、何度も何度も、神のいつくしみに立ち返れ、立ち返れ、と呼びかけるのです。

私たち信仰者は、そして特に今の時、私たち聖職者は、この四旬節にその生き方をあらためて見直し、踏み外した道から、愛と希望の道へと立ち返る努力をしなければなりません。

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四旬節の始まりに当たり、教皇フランシスコは、ローマの教会への手紙8章19節を引用して、「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」と題したメッセージを発表されています。

その中で、教皇は「神の子として生きていなければ、わたしたちはたびたび隣人や他の被造物に対して――自分自身にさえ――破壊的な態度をとり、すべてを自分の意のままに利用できるという考えを、多かれ少なかれ抱いてしまいます。それにより、節度のない行いが横行し、人間の条件と自然を尊ぶことからくる制約を逸脱した生活様式が現れ、歯止めの利かない欲望に従うようになります」と、あらためて指摘されています。

その上で、「復活祭への歩みは、過越の神秘の恵みの豊かさを余すことなく享受するために、悔い改め、回心、ゆるしを通してキリスト者としての顔と心を取り戻すようわたしたちを招いています」と指摘され、すべての被造物の前でおごることなく、謙遜に生きるようにと呼びかけられます。

この説教の後、わたしたちは灰を額にいただきます。灰を受けることによって、人間という存在が神の前でいかに小さなものであるのか、神の偉大な力の前でどれほど謙遜に生きていかなくてはならないものなのか、心で感じていただければと思います。

神の前にあって自らの小ささを謙遜に自覚するとき、私たちは自分の幸せばかりを願う利己主義や、孤立願望や自分中心主義から、やっと解放されるのではないでしょうか。そのとき、はじめて、キリストの使者として生きる道を、少しずつ見いだしていけるのではないでしょうか。

神は忍耐を持って、私たちが与えられた務めを忠実に果たすことを待っておられます。キリストの使者として生きる覚悟を、この四旬節に新たにいたしましょう。

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