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2019年3月11日 (月)

3月11日、あれから8年。

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2011年3月11日に、東北の地を巨大地震と津波が襲ったあの日から、8年となりました。あらためて、亡くなられた方々の永遠の安息のために祈ります。

東京カテドラルでは、本日午後2時半から、追悼のミサが行われました。カリタス南相馬で支援活動に携わっているCTVC・カトリック東京ボランティアセンターが中心となって企画してくださいました。

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2時半から現在の被災地の映像を見ながら音楽とともに黙想し、2時46分には黙祷。そしてミサが始まりました。ミサは私が司式し、南相馬で活動されている幸田名誉司教も共同司式に加わりました。ミサ後には幸田名誉司教から、現在の活動についてのお話もありました。

たくさんの方に参加頂き、祈りをともにしていただいたことに感謝いたします。

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以下本日のミサの説教の原稿です。

東北地方一帯に巨大な地震の被害をもたらし、特に太平洋沿岸においては想像を超える津波を発生させた、東日本大震災。日本だけにとどまらず世界中に衝撃を与えた2011年3月11日のあの日から、今日でちょうど8年となりました。あらためてこの大災害で亡くなられた多くの方々と、この8年間の復興の過程で亡くなられた方々の永遠の安息を祈りたいと思います。

8年という時間は、ある人にとってはゆっくりと進んできた時間であったと思いますし、ある人にとってはあっという間の8年だったのかも知れません。いずれであったとしても、あの巨大な災害の体験とその記憶から、またその体験から生まれたそれぞれの心のおもいから、新たな歴史を刻む一歩を始めるためには、短い時間であったと感じています。歴史に残る巨大災害は大きな爪痕を残し、そのときまで、その地にあって、普通の生活を営んでこられた方々の、その普通の生活を大きく変えてしまいました。以前そこにあった普通の生活を取り戻すためには、時間と、尋常ならざる心のエネルギーが必要だと感じます。

政府の復興庁の統計によれば、今年1月の段階で、いまだに5万人を超える方々が避難生活を送られているといいます。これほど多くの方が、8年という時間が過ぎても、まだ普通の生活を取り戻すことができないほどの負のエネルギーが発生したのだという事実を、私たちは心にとめなくてはなりません。

とりわけ、原子力発電所事故の影響が残る福島県内では、復興の歩みにはさらなる時間が必要だと、支援に関わる多くの方が指摘されています。

数日前のニュースでは、原発の廃炉作業の行き着く先が、普通の廃炉作業のような更地に戻すことなのかどうか、そのイメージさえ現段階では描けていないと報道されていました。人間が普通に把握できる時間の流れを遙かに超えるほどの影響を及ぼす事故であったことを、あらためて実感させられます。人間がその限界をわきまえることなく、能力を超えた事柄に手を出してしまったのではないかと考えさせられます。

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今年の四旬節メッセージの中に、次のような教皇フランシスコの言葉があります。
「神との交わりが絶たれれば、園が荒れ野と化したように(創世記3・17-18参照)、人間と、そこで生きるよう人々が招かれている環境との間の調和的な関係も傷つけられます。罪は、人間に自分のことを被造物の神、絶対的な君主であるという考えを抱かせ、たとえ他者や被造物を傷つけても、創造主のみ旨のためではなく自分の利益のために被造物を利用するよう人間を仕向けます」

自然災害がきっかけになった事態であるとはいえ、私たちが「創造主のみ旨のためではなく自分の利益のために被造物を利用」しようとしたことは否めず、神との交わりを絶ってしまった人間の傲慢さが私たちうちにないか、過去を振り返るようにと求められていると感じます。

福島に関連しては、公式の統計には表れない避難者の方々も全国に多数おられると推測されます。そういった方々を含め、普通の生活がある日突然奪われてしまい、人生の道筋が予想もしなかった困難な道のりとなってしまった多くの方が、多数おられることを忘れないでいたいと思います。困難に直面する多くの方々が、忘れ去られることのないように、教会はその全国的なつながりを生かしながら、地道な支援を続けていきたいと思います。

私たちの信仰は、絶望の淵から必ずや新しい希望が生み出されることを教えています。最高の指導者であったイエスが十字架で殺されていったという出来事を体験し、絶望の淵にあった弟子達に、イエスはご自身の復活の栄光を示して、その絶望の暗やみから新しい生命への希望が生まれることを示されました。私たちの信仰の基本です。

キリストにおけるこの希望を、社会の直中で告げしらせる責務を教会は担っています。様々な困難を抱え、その理不尽さにうちひしがれている方々に、希望の光へと続く道を示す責務を教会は担っています。私たちが告げるべき福音は、まさしくすべての人にとっての「喜びのたより」でなければなりません。具体的な喜びの光でなければなりません。

残念ながら、このところ、カトリック教会は世界的にみて、大きな批判を受ける対象となってしまっています。本当は、希望の光を掲げるはずであるのに、弱い立場にある人を虐げ苦痛を与えてきた事実が、大きな批判を受けています。加えてそういった行為が、模範となるべき聖職者によってなされてきたことに、私をはじめとした聖職者は心から許しを願い、反省をしなければ成らないと思います。

自らまいた種ではありますが、教会の存在を大きく傷つけてしまったことを猛省しながら、教会が本来行うべき業をあらためて自覚し、その業に真摯に打ち込んでいくことが、いま重要だと思っています。

だからこそ、私たちの国を襲ったこの大災害に直面し、不安と悲しみの淵に追いやられた多くの被災者の方々と歩みを共にしながら、教会は希望のともしびを掲げ続けたいと思います。喜びのたよりを告げしらせたいと思います。自らの言葉と行いで、福音を証ししていきたいと思います。そうしなければ、キリスト者と呼ばれる資格はありません。

私たちを愛してくださった神が、自らを犠牲にして新しい生命への希望を与えてくださったのですから、その希望の光を多くの方に分かち合うのは私たちの責務です。とりわけ、困難に直面する多くの方に、光から遠ざけられている多くの人に、出かけていってその光を届けようとするのは、私たちの使命です。

あの大震災から8年目となる本日、あらためてキリスト者としての私たちの使命を自覚し、いのちの主の希望の光を高く掲げ、困難な道を歩み続ける方々と、歩みをともにし続ける決意を新たにいたしましょう。

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