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2019年4月26日 (金)

福島とともに

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復活の月曜日、4月22日の午後2時半から、福島県の南相馬市にある東京カトリックボランティアセンター(CTVC、責任者は幸田名誉司教)の支援拠点であるカリタス南相馬において、一般社団法人カリタス南相馬の設立社員総会が開催され、新しい法人が正式に立ち上がりました。

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カトリック原町教会の敷地内にあるカリタス南相馬は、震災発生後から福島県内で様々な活動を展開してきたCTVCが、これからの長期的支援活動の拠点としてカリタスジャパンの援助の元に設置したもので、様々な女子修道会や地元などの団体からも人的な協力と支援をいただいています。

現在のカリタス南相馬所長は、聖心会のシスター畠中。これまでも長期にわたって、南相馬での支援活動を率いてこられました。

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司教団は、2021年の3月末まで、全国の教会をあげての復興支援活動を継続することにしています。しかし同時に、これまでの活動を通じて、それぞれの教区や団体が築き上げた地元の方々との深い絆や関係もありますし、また現実を見るならば、地域によってはこれからもまだまだ支援活動が必要な場もあります。

とりわけ福島にあっては、主に浜通り(沿岸部)を中心に、震災と原発事故の影響はなくなったわけではなく、特に原発事故によってもたらされた地域共同体への影響には深刻なものがあります。この地にとどまる選択をした人、避難先から戻られた人、現在も避難生活を続ける人。それまでごく普通の生活を営んできた人たちは、震災とそれに伴う原発事故によって『普通』を失い、予期せぬ道を歩み始め、いまだその『普通』を回復できてはいません。本来であればそのような状況で生活しているはずはない、すなわち自分たちに責任がないにもかかわらず、今どういう生き方をしているかで、様々な評価をされ、いらぬプレシャーを受けている方々もおられます。地域の共同体は、分断されて、それによって傷ついている方々が多くおられます。

そういう、外部要因によって予期せぬ生活に引きずり込まれた方々が、普通に生活ができるようになるまでは、やはり一緒に歩みをともにすることを止めるわけには行かない。そう判断して、10年後以降も歩みをともにする方法を模索しながら、その拠点として、カリタス南相馬を続けていくことにしました。とはいえ、東京教区だけでその活動を支えることは難しく、カリタスジャパンからの継続した資金提供もまた難しく、さらには、地元である仙台教区の意向や将来計画もある中で、確実な歩みを続けるためにとCTVCに関わる方々が検討を続けた結論が、法人化でありました。

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今般の一般社団法人化に当たり、26名の方が設立時社員として名を連ね、私も幸田司教様とともに、社員に加わりました。また設立社員総会で、理事も承認され、責任者である代表理事には幸田名誉司教が就任することになりました。なお仙台教区の平賀司教様も理事に加わっておられます。

今後、地元の方々や行政とも連携しながら、長期的な歩みを続けていこうとするカリタス南相馬の活動にご理解とご支援を頂けましたら、幸いです。

なお、将来的にはCTVCを東京教区の災害ボランティア活動拠点として発展させていきたいと考えていますが、ちょうど、カリタスジャパンが東日本大震災を教訓に災害対応マニュアルを作成中で、それに基づいてのこれからの備えなどを考える担当に、豊島神父様を任命したところですので、今後豊島神父様を中心に、整備していきたいと願っています。

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さて、福島つながりで4月25日の夕方、きらきら星ネットの方々(写真上)が、教皇謁見の報告のために教区本部を訪ねてくださいました。きらきら星ネットは、福島の原発事故以降、避難者、被災者を支援するための市民によるグループです。今回はきらきら星ネットが支援を続けている自主避難をしている方々を代表して、高校生の鴨下全生さんが、スタッフとご両親とともにバチカンで教皇様に謁見し、避難生活の実情を訴えたもので、一般紙にも報道されました。

事故があったからこそ避難することを選択したのに、避難先ではいじめに遭ったり、福島から来たことを隠さなくてはならなくなったりと、様々な困難に直面してきた鴨下さんは、教皇様に、原発事故が引き起こした地域共同体の分断とそれに伴う苦しみを訴え、教皇様に是非とも福島へ来てほしいと訴えました。

事故によって被害を受け、助けを求めて避難したところで差別されいじめられる。なんとも理不尽なことだと思います。原発事故によって分断された福島の方々の、心に負っている重荷は、忘れ去られて良いものではありません。

神が与えられた賜物である人間のいのち。そのすべてを愛され大切にされ、そしてその一つ一つが与えられた使命を十全に果たすことができる社会の実現。それを神様は望まれているのではないでしょうか。

教会全体として、様々なレベルでの、歩みをともにする活動を続けていくことができればと思います。

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2019年4月23日 (火)

復活の主日なのに

4月21日は復活の主日でありました。私たち、キリストの信仰に生きる者にとっては、クリスマスとともに、いや、クリスマス以上に大切な日ですし、主の復活は私たちの信仰の原点でもあります。同時に、主イエスがその言葉の通り、罪の枷を打ち砕き、死に打ち勝って新しい生命へと復活された勝利の日でもあり、喜びの日でもあります。

そのような日に、スリランカでは大きな爆発テロ事件が発生し、多くの方が生命を奪われ、また負傷されました。攻撃を受けたのは教会やホテルです。喜びであるべき日にこのような悲劇に直面された多くの兄弟姉妹の心に受けた衝撃を思うとき、また愛する人を失った悲しみを思うとき、ただただ悲しくて、なんと言えばよいのか言葉が見つかりません。どのような理由があるにせよ、このようなかたちで尊厳ある人間の生命を暴力的に奪うことは、決して認められることではありません。その蛮行を、強く非難します。

暴力的に生命を奪われた方々の永遠の安息を祈るとともに、怪我をされた方々の一日も早い回復をお祈りいたします。また、祈りのために教会に集まっていた多くの方が、これによって本当に恐怖にさらされたことを考えるとき、スリランカの教会の受けた衝撃と深い傷を思わずにはいられません。スリランカの兄弟姉妹の、いやしのために祈ります。

宗教に生きる者は、どのような理由があるにせよ、生命の尊厳を守り抜き、神の秩序が確立された世界を実現するために、平和への道を選択しなければならないことを、あらためて心に刻みたいと思います。

別途一斉ファックスなどでお知らせしますが、次の日曜日、復活節第二主日のミサでは、是非、大きな被害を受けたスリランカの教会の兄弟姉妹のために、またスリランカにおける平和のために、お祈りをささげてくださるように、お願いいたします。

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2019年4月21日 (日)

復活徹夜祭@東京カテドラル

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みなさま、御復活おめでとうございます。

関口教会では、土曜日の午後7時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた復活徹夜祭において、23名の方が洗礼を受けられました。また2名の方が転会されました。受洗されたみなさま、おめでとうございます。これからも教会共同体の一員として、歩みをともにしてまいりましょう。

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以下、本日の説教の原稿です。

私は司祭職のはじめから長年にわたって、いわゆる途上国に関わって参りました。司祭としての最初の任地はアフリカのガーナでしたし、帰国してからは教会の国際的援助組織であるカリタスの業務に関わり、多くの国々を視察などで訪れる機会がありました。その援助活動や宣教の現場で、様々な形をとって具体化している貧しさの現実を目の当たりにしてきました。

貧しさはどちらかと言えば相対的な概念ですから、比較が難しいのですが、それでもいったいどうやって生命をつないでいるのだろうと危機的に感じる貧しさの現実が、確かにあります。絶対的な貧困といえば、たとえば世界銀行は一日の生活を1.9ドル未満で過ごす人たちのことだとしています。世界ではいま7億人ほどの方々が、そのような状況の中で、毎日の生命をつないでいると言われます。

世界第三位と言われる経済大国である私たちの国でも,貧しさはいま大きな問題となっています。確かにアフリカの現実とは異なり、困窮している現実がはっきりと目に見える形ではないのかもしれません。しかし社会の現実はどうでしょう。全体との比較の中で相対的な貧しさのために、教育や就業の機会が奪われていたり、医療や社会保障が十分に受けられなかったり、頼る人がおらず孤立していたりと、貧しさに起因する困難な状況は枚挙にいとまがありません。そして私たちの国で、生命の危機に直面する人は、いまや例外的存在ではありません。

インターネットで貧困について検索すれば,どこにでも判で押したようにこう記されています。「世界第3位の経済大国でありながら、日本には高い貧困率という問題が存在している。7人に1人が貧困にあえぎ、1人親世帯では半数以上が貧困に苦しんでいる」

加えて、少子高齢化の進む中で人手不足が深刻化し、それを補う形で多くの外国籍の方が来日されたり、または生命の保護を求めて来日する方もある中で、厳しい労働環境や住環境、そして法規制という困難に直面しながら、十分な助けのない中で生命をつないでいる方々が増えているという事例は、もう珍しいことではなくなりました。

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日本の教会は、21世紀の初めから、人間の生命が危機に直面していると訴えてきました。その始めから終わりまで大切にされ守られなければならない人間の生命が、様々な社会の現実の中で危機にさらされている。しかもその解決を、個々人の責任として放置することは,さらなる生命の危機を生み出すと警告し続けてきました。

障害のある人たちには生きる価値がないとする考えで殺人に走る人や、幼い子どもに虐待を加え生命を奪ってしまう親が存在することは,確かに許されないことですし衝撃的です。しかしそれは、一人加害者が特別な人物だったからではなく、社会に蔓延する生命への価値観そのものを反映した行動だともいえます。

私たちはいったい何を大切にし、何を優先させて生きているのか。
本日のミサで一番最初に朗読されたのは,人類創造を語る創世記でありました。そこにこう書いてあります。
「神はご自分にかたどって人を創造された。神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ,それは極めて良かった」

完全な存在は唯一、神だけです。その完全な存在に限りなく似たものとして,人間の生命は創造されました。そこに人間の尊厳の根源があります。そして人間の生命を含め,すべての被造物は神の目に適うよいものであった。だからこそ神は被造物を,とりわけ人間の生命を限りなく愛されました。

イスラエルのエジプト脱出の出来事も、そしてイエスの受肉と受難と死と復活も,すべてはその生命の誕生を原点として、神のあふれんばかりの愛といつくしみの結果としての救いの計画の中で実現してきました。

この生命が、尊厳あるものとして現実社会の中で大切にされ、十分に生きられるようになることは、神が望まれることではないでしょうか。だからこそ私たち信仰者は、そのためにありとあらゆる手を尽くしていかなくてはなりません。危機に直面している生命を守る努力を続けなくてはなりません。

第二バチカン公会議を契機として、しばしば「開かれた教会」という言葉が聞かれるようになりました。教会は内にこもっていてはいけない、社会に対して開かれていなければならない。それは組織論として、現実において生きる教会の取り組みを強化しようという以上に,信仰者一人一人に社会に開かれた信仰生活を求める回心の呼びかけでもありました。

教皇フランシスコは,そこに留まらず、「出向いてく教会」であることを呼びかけます。とりわけ、貧困や困難のうちに生命の危機に瀕している人のもとへと、積極的に出向いていく教会であれと呼びかけます。門戸を開いて待っているだけではなく,その門から外へ向かって、社会の中心から離れている人たちのもとへと出向いていくことを求められています。

その教皇様は、今年の11月頃には東京にやってこられるのですが、私たちはどんな教会の姿を教皇様にお見せするのでしょうか。

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本日洗礼を受けられる皆さん。先ほど朗読されたエゼキエル書に、こう記してありました。
「私はおまえたちに新しい心を与え、おまえたちの中に新しい霊を置く」
洗礼を受けることによって、キリストともに古い自分は終わりを告げ、新しい自分の生き方が始まります。キリストと共に生きる人生の始まりです。共に生きるキリストが,いったい何を大切にしているのか、私たちがどのように生きていくことを望まれるのか、それを心にとめていなければ、キリストと一緒に生きていくことはできません。

教会が社会の中にあって掲げることのできる希望の根源は、生命を守り抜くところにあります。一人一人の生命は、条件なしに,すべてに尊厳があり、神から大切な存在だと言われているのだということを、多くの方々に伝えていきたいと思います。教会は,社会の中にあって希望の光を輝かせる存在でありたいと思います。

復活された主に、暗闇の中で光を輝かせる勇気を願いましょう。復活された主に、信仰における勇気を願いましょう。復活された主に、その死と復活に与り、新たな一歩を踏み出す、信仰における力を願いましょう。復活された主に、神の福音の光を照らし続ける忍耐の力を願いましょう。復活された主に、神のいつくしみを一人でも多くの人に分けていく思いやりの心を願いましょう。

 

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2019年4月20日 (土)

聖木曜日主の晩餐@東京カテドラル

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聖なる三日間がはじまりました。私たちの信仰の原点である主の受難と死を黙想し、復活に与り喜びをともにするときです。関口教会の聖なる三日間の典礼は、すべて午後7時から始まり、韓人教会との合同ミサとなっています。

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聖木曜日のミサ中には、福音書に記された主ご自身の業の模範に倣い、その思いを私たちの心に刻み込むために、洗足式が行われます。数年前に典礼の規則が改定されたので、現在は男性だけでなく女性も参加するようになっています。関口教会と韓人教会から、それぞれ6名ずつの12名の方が内陣に並んでくださいました。もっとも共同体が小さいところでは12名の方に出ていただくのは難しいところもあろうかと思います。人数が少なくとも、このミサの中で、実際に足を洗うことがどのようなことかを目の当たりにすることは重要だと思います。それを通じて、あの晩の主イエスの思いを私たちの心に刻むことができるからです。

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以下、説教の原稿です。

1981年2月23日の午後、私は東京カテドラル聖マリア大聖堂、この聖堂の中におりました。その頃私は名古屋の南山大学の学生で、その3月に神言修道会で初めての誓願を立てる準備をしているときでありました。

その日、聖堂内のすべてのベンチは取り払われ、真ん中に通路が設けられ、司祭や修道者、シスター方で立錐の余地もないほどでありました。日本の教会にはこれほどたくさんの聖職者や修道者がいるのかと、感激したことを鮮明に記憶しております。

あらためて言うまでもなく、この日、1981年2月23日から26日まで、当時のローマ教皇聖ヨハネパウロ二世が、ローマの司教として初めて日本を訪問されました。その日、羽田に到着された教皇は、この聖堂に直行され、まず聖堂入り口で挨拶のメッセージを読み上げられました。あのヨハネパウロ二世の太くて力強い声が、マイクを通じて聖堂内まで響いてきました。そしてそれはなんと、予想もしていなかった日本語でありました。その事に、メッセージの内容は興奮で記憶に残らなかったものの、大変感激したことだけは鮮明に記憶しています。

この日、集まった聖職者・修道者に対して、教皇は次のように呼びかけられました。
「司祭の務めの中心は、わたしたちの主イエズス・キリストの福音を述べ伝えることであります。この述べ伝えは聖体祭儀によってその頂点に、その目的に達するものです」

その上で教皇ヨハネパウロ二世は、自らの回勅「人間のあがない主」を引用してこう言われました。
「教会がその生命をまともに生きるのは、創造主であり、贖い主であるかたの最も驚くべき属性である哀れみを信じ、それを述べ伝えるときである」

そしてこの聖堂に集まった多くの聖職者・修道者にこう呼びかけられました。
「あなたがたのすべての言葉と行ないが、哀れみに富むわたしたちの神に証を立てるものとなるようにしてください。皆さんの説教が、贖い主の哀れみに対する希望を呼び起こすものであるように。」

それから40年ほどが経過した現在、教皇フランシスコは同じように、神のいつくしみを伝えることこそが教会の最も大切な努めであると繰り返されています。教会が神の哀れみといつくしみを具体化する存在となるときに、そこに人類の希望が生まれるのだと説かれます。つまり、40年近くたっても私たちの牧者が同じことを繰り返し伝えなければならないように、現実社会にはあわれみといつくしみが欠如しており、希望が失われているのです。教会には今、自らに与えられた使命を思い起こし、それに立ち返ろうとすることが強く求められていると感じます。

私は38年前のあの日、この聖堂に立ち、教皇ヨハネパウロ二世の言葉を耳にして心に覚えた感動を忘れることはありません。教会の日本における福音宣教には、明るい希望があり、多くの人に伝えていくべき宝があるのだと、その日に確信したからです。

心に感動を覚え、希望へと確信を持った出来事は簡単に忘れることはありませんし、それを多くの人に教えたいと思うものだと、私は感じています。

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本日の第一朗読、出エジプト記は、エジプトの奴隷状態からの解放である過越の出来事の詳述であります。イスラエルの民にとって、生きる希望、将来への大いなる希望を見いだした出来事として、忘れることはできず、いつまでも伝えていきたい出来事です。

第二朗読のコリントの教会への手紙は、最後の晩餐における聖体の秘跡の制定であります。弟子たちにとって、そしてその後に続くキリスト者にとって、新しい契約が結ばれた、まさしく希望の出来事であります。主御自身に命じられるまでもなく、新しい生命への希望をもたらす出来事として、忘れることはできず、いつまでも伝えていきたい出来事です。

福音は、弟子の足を洗う主イエスの姿を記しています。イエスが伝えようとした福音の神髄を、自らの行動で模範として残された、その衝撃的な出来事は、まさしく神のいつくしみのうちにこそいのちへの希望があるのだと言うことを具体的に示しています。キリストに従うものにとって忘れることはできず、いつまでも伝えていきたい出来事です。

私たちの信仰は、伝承に基づいた信仰です。でもそれは昔語りとしての伝承、すなわち懐かしいと感じる過去のある時点へと立ち返ろうとする後ろ向きの伝承ではありません。そうではなく、前向きに未来に向かって今を生きる一人一人にとっての、生命の希望を生み出す源としての伝承であります。

私たちに生命という尊い賜物をくださった神は、私たち人間への限りない愛を明確にするために、自ら人間となり、その身を贖いのいけにえとしてささげられました。加えてその愛を、日々私たちが知ることができるようにと、聖体の秘蹟を制定することを通じて、ご自身が常に私たちと共におられ、その語られたこと、その行われたこと、そして究極的にはその身を私たちのためにささげられたことを、私たちがその再臨の時まで伝え続けるよう命じられました。

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最後の晩餐での出来事は、弟子達を通じて私たちに引き継がれ、私たちはそれをさらに将来へと伝えていく義務を負っています。聖体祭儀に与る時私たちは、「私の記念として」といわれた主の言葉を思い返し、主がなさったこと、伝えたことをあらためて自分の心に刻み込みます。そしてそれをさらに伝えていく役割を果たして行く決意を日々新たにしなくてはなりません。

その伝えていく役割とは、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と福音に記されているように、主がなさったことを、私たちが同じように繰り返していくことに他なりません。そう考える時、今この21世紀に主イエスが私たちと共におられるのならば、一体私たち従う者に、主はどうすることを求められるのだろうか。それを自分に問いかけないわけにはいきません。

私たちは、信仰において前向きに希望へとつながる感動を伝承していくようなそんな物語を持っているでしょうか。信仰においてそんな体験をしているでしょうか。多くの人が前向きな希望を心に抱くことができるような、そんないつくしみに満ちあふれた教会共同体を生み出しているでしょうか。

私たちの信仰の原点を振り返るこの聖なる三日間、イエスの呼びかけに耳を澄ませ、そのいつくしみに満ちた聖なる御心のおもい自らの心に刻み、それに生き、また多くの人に伝えていく決意を新たにいたしましょう。
 

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聖香油ミサ@新潟、東京

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教会の秘跡の執行に重要な役割を持つ聖なる油は、三種類あります。病者の油、洗礼志願者の油、そして聖香油です。これらの油は、毎年一度、その教区で働く司祭団と信徒修道者の代表と一緒にミサを捧げる司教が、祝福することになっています。聖香油ミサと呼ばれています。通常は聖週間の聖木曜日の午前中に行われることになっていますが、教区によっては知り的に広くて、その晩の主の晩餐のミサに間に合わない可能性もあります。そのため聖木曜日以外の日や、ほかの皆が集まることのできる日に行うことできるように定められています。

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現在、私が教区管理者を務めている新潟の聖香油ミサは、聖週間の水曜日の午前10時から行われました。東京教区の聖香油ミサは、聖木曜日の午前10時半から行われ、こちらには教皇大使をはじめ、岡田名誉大司教と森名誉司教も参加されました。個々に掲載した数枚の写真を見比べていただけるとわかりますが、新潟と東京では、教区の規模が本当に違います。新潟では司祭団は教区司祭と修道会司祭の全員が集まっても30人ほど。この日ミサに参加したのは20名ほどです。比べて東京は教区司祭団が70名ほど、修道会も100名を遙かに超えるので、秘めたちからと可能性はまだまだあるかと・・・。

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以下、当日の説教の原稿です。なお原稿にはありませんが、パリのノートルダム大聖堂の火事についても、冒頭で触れました。

残念なことですが、今の時点で教会を語るときに、どうしても避けて通れないのは、聖職者による性的虐待、なかでも未成年者に対する性的虐待の問題です。様々な国で過去から現在に至る中での問題が明らかにされ、社会全体から厳しい目が注がれる中で、日本においても同様の問題があることが明らかになりました。

教会は社会の現実の中でいかに善なる生き方をするべきなのかを、しばしば語ってきましたし、神の望まれる世界とは異なる世界のありように対して、厳しく批判を続けてきました。また私たちの生命が神からの賜物であり、始まりから終わりまで徹底的にその尊厳を守られなくてはならないと主張しつづけてきました。だからこそ、今その責任を厳しく問われています。
 

例外なくすべての生命を守らなくてはならないと説くものが、その立場を利用して弱い立場にある子どもや女性の人格を否定するような行動をとることは、本末転倒であります。神の望まれる世界の実現を説くものが、その神が大切にされる一人一人を排除するような行動をとることも、大きな矛盾であります。

私たち聖職者は、過去から現在に至る歴史の中で、その召命を裏切ってしまうような行動をとり、弱い立場にある女性や子どもたちを深く傷つけてしまった数々の出来事を認め反省し、特に心に深い傷を負われた被害者の方々のために、どのようなことができるのか、また同じようなことが繰り返されないために何をすべきなのか、善なる道へと戻る方策を見いだす努力を徹底して続けたいと思います。私たちの司祭叙階第一日目を思い起こし、自らに与えられた使命を再確認いたしましょう。

すでに数日前、司教協議会会長の高見大司教が被害を受けられた方の集会に参加し、一般に向けて公表したところですが、特に未成年者への性的虐待については、できる限り早い時期に全国的調査をあらためて行うことになりました。これを、語っていることを実行する誠実な教会であり続けるための、新たなる一歩を歩み始める機会としたいと思います。

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さて、そのような状況の中でも、私たちはイエスの福音を宣べ伝えることをやめるわけには行きません。それこそが私たちの第一の使命だからです。いや、教会が危機的な状況に直面しているからこそ、私たちが真摯に生きるべき姿勢は何であるのかを明確に意識しなおし、自らの本来の使命を再確認し、それに生きる決意を新たにしなくてはなりません。

私たちは、イエスの福音を告げると言いながら、恐怖や絶望を伝えたいわけではありません。暗闇をもたらしたいわけでもありません。私たちは、喜びと希望を告げ知らせたい。光をもたらしたい。

今年の10月に予定されている福音宣教のための特別月間にむけて、司教団のメッセージ、「ともに喜びをもって福音を伝える教会へ」が先日発表されました。

その中に、これまで何度も指摘されてきたことですが、次のように記されています。
「今日の日本の文化や社会の中には、すでに福音的な芽生えもありますが、多くの人々を弱い立場に追いやり、抑圧、差別している現実もあります。」

社会の常識や社会情勢が醸し出す雰囲気、法律の壁、経済の状況、政治の状況などなど、また年齢、国籍など様々な社会的要因がそこには絡んで、残念ながら社会の中心から排除されてしまう人たち、機会を奪われてしまう人たち、孤独と孤立に追いやられてしまう人たちも少なくありません。排除されるだけではなく、生命の危機に直面する人たちもおられます。

教会は、そういった社会のただ中にあって、希望の光を照らし続ける灯台でありたいと思います。安心して碇をおろすことのできる港でありたいと思います。

司教団のメッセージは、こう結ばれています。
「教皇フランシスコは2019年11月に日本を訪問する意向を示されています。わたしたちは、教皇の訪日を日本の教会に向けられた「神の恵みの風」とうけとめ、「全世界に行って…福音をのべ伝えなさい」(マルコ16・15)というキリストの呼びかけに応えて、『新たな熱意、手段、表現をもって』、絶えず全力で福音宣教に取り組む決意を新たにしたいと思います。」

まさしくその通り、私たちは今日、「『新たな熱意、手段、表現をもって』、絶えず全力で福音宣教に取り組む決意を新たにしたい」、そう思います。

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さて聖香油ミサは、日頃は目に見える形で共に働いているわけではない東京教区の司祭団が、司教と共に祭壇を囲み、信徒を代表する皆さんと一緒になってミサを捧げることによって、教会の共同体性と一致を再確認する機会です。教会憲章に「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である」と記されていますが、こうして司祭団が司教と一緒に祭壇を囲んで聖体の秘跡に与ることが、「神との親密な交わりと全人類の一致の」本当に目に見える「しるし」となっていることを、心から願っています。この共同体が、社会の現実の中で、希望の光となる努力を怠らないようにいたしましょう。

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加えて、この説教のあとで司祭団は、それぞれが司祭に叙階された日の決意を思い起こし、初心に立ち返ってその決意を新たにいたします。一年に一度、司祭はこのようにして共に集い、自らの叙階の日、すなわち司祭としての第一日目を思い起こしながら、主イエスから与えられた使命の根本を再確認し、あらためてその使命に熱く生きることを誓います。

お集まりの皆さん、どうか、私たち司祭が、主キリストから与えられた使命に忠実に生き、日々の生活の中でそれを見失うことなく、生涯を通じて使命に生き抜くことが出来るように、お祈りくださるよう、お願いいたします。

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2019年4月19日 (金)

教皇フランシスコ 4

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教皇フランシスコは、しばしば『排除』に言及されます。教会共同体が神のいつくしみのあふれる場であり、見に見えるしるしでなければならないと強調される教皇様は、だからこそ、誰ひとりとして排除されない教会共同体を求められています。

わたしたちは、完全な存在ではありません。様々な弱さを抱えています。時に、神の前で罪に定められるような行いを繰り返してしまいます。互いにそうであるにもかかわらず、どういうわけかわたしたちは、他人を厳しく裁いてしまうことがしばしばです。もちろん、いつくしみにあふれる教会とは、なんでもどうでもよいのだ、などという柱のない存在のことではありません。そこには神が望まれる人の有り様という柱があり、常にそこへと向かって歩みを続けるようにわたしたちを促すのが教会です。しかし時として、裁いてしまうことが、教会共同体からの排除となり、神の元へと立ち返る機会を、そもそも奪ってしまうことになってしまうことがあります。

何でもよいわけではないのですが、でも、教会は誰をも排除することなくともに歩みながら、神の望まれる道へと互いに立ち返る努力を、辛抱しながら続ける場でありたいと思います。そしてその思いを、社会全体に伝えていきたいと思います。

「わたしたちは『廃棄』の文化をスタートさせ、・・排他性は・・もはや社会の底辺へ、隅へ、権利の行使できないところへ追いやられるのではなく、社会の外へと追い出されてしまうのです。排除されるとは『搾取されること』ではなく、廃棄物、『余分なもの』とされることなのです」(福音の喜び53)

教皇のこの言葉は、経済体制への警告として記されています。しかし同時に、わたしたちの教会共同体にも影響を及ぼす現代社会全体の傾向への警告です。排除の行き着く先は、その存在さえも認めない『廃棄』なのだと警告されています。この世界に誰ひとりとして『余分なもの』はいないはずなのに。

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2019年4月18日 (木)

聖なる三日間の典礼@東京カテドラル聖マリア大聖堂

今年の御復活祭は次の日曜日、4月21日です。聖なる三日間の東京カテドラル聖マリア大聖堂での大司教司式の典礼開始の時刻は;

聖香油ミサ 午前10時半

聖木曜日主の晩餐 午後7時

聖金曜日主の受難 午後7時

復活徹夜祭(聖土曜日)午後7時

復活の主日 午前10時

パリの司教座聖堂であるノートルダム大聖堂が火災のため大きな損害を受けたことは,報道されているとおりです。日本の教会は、再宣教の開始からパリ外国宣教会の宣教師によって育てられた教会です。東京教区も土井枢機卿様が初めて邦人司教として任命されるまで、フランスから来られた宣教師の司教様がたによって,基礎を築いて頂きました。フランスの教会の兄弟姉妹の祈りと支援によって、私たちの教会は基礎を築き上げることができました。この歴史に対する感謝を心にとめながら、パリの、そしてフランスの信仰と文化と歴史のシンボルでもあるノートルダム大聖堂の悲劇を目の当たりにして衝撃を受けた多くの方々と心を合わせ、御父の癒やしの御手がさしのべられるように、祈りたいと思います。

司教協議会の会長である高見大司教様のメッセージは,中央協議会のホームページに掲載されています。私も、当日即座にパリの大司教様にお見舞いのメールを送り、昨日お返事も頂きました。現在のパリの大司教様とは、昨年の6月29日にバチカンで教皇様から一緒にパリウムを頂きました。

ノートルダム大聖堂はフランス政府の所有だと聞いていますので、どのような形で復興が進むのかわかりませんが、大切な心のシンボルを失ったフランスの兄弟姉妹のために、祈り続けたいと思います。

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2019年4月15日 (月)

受難の主日(枝の主日)@東京カテドラル

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聖週間がはじまりました。関口教会の10時のミサで、受難の主日の典礼を司式させていただきました。

ルルドの前に集まり、枝を祝福し、エルサレム入城の福音を耳にした後に、東京カテドラル聖マリア大聖堂の正面入り口を開け、皆で入堂しました。

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この一週間は、信仰者にとって特別なときです。イエスの受難と死と復活がなければ、私たちの信仰はあり得ません。信仰の原点をあらためて見つめ直すときであります。歓喜の熱気の渦の中でエルサレムに迎え入れられ、その直後には友から裏切られる。その流れの中で、主イエスは聖体の秘跡を制定されました。弟子たちに『私の記念としてこれを行え』と述べられた主の思い。その切々たる思いは、書物の中に記された過去の記録ではなく、今まさに繰り返される現実であります。それを特にこの一週間で肌で感じたいと思います。主は私たち、一人ひとりに、切々と語りかけられています。

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とはいえ、学校は新学期がはじまったばかりですし、職場も新年度でばたばたしているかも知れません。時間がとれるのであれば、是非とも聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日の典礼に参加していただければと思います。関口教会では聖マリア大聖堂で、すべて大司教司式の典礼として、三日間とも午後7時から行われます。また聖木曜日(18日)には、午前10時半から、教皇大使も参加されて、聖香油ミサが行われます。どうぞおいでください。

様々な理由で時間がとれない場合でも、この一週間は、いつも以上に、主イエスの存在を意識して過ごされればと思います。私たちは、その主ご自身の苦しみによって、生かされているのだ。その死と復活によって、生きる希望を与えられたのだと、感謝する思いを、一日の中でのちょっとした瞬間に、心に思い起こしていただければと思います。せっかくの、一年に一度の、信仰の原点に立ち返るチャンスですから。

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以下、枝の主日ミサの説教の原稿です。

「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と、集まっていた人々は一斉に叫んだ、受難の朗読にはそう記されていました。
一人の人間の生命を暴力的に奪ってしまえと主張するのですから、そう叫ぶ人々には、それ相応の憎しみや怒りの感情があってしかるべきだと思います。その日そこに集まっていた多くの人の心に、果たしてそんな深い憎しみや怒りの感情が存在していたのか。そもそも、イエスという人物を個人的に知っていたのか。イエスとの間に、そんな感情が芽生えるほどの人間関係があったのか。

私たちが聖書の物語から推測できるように、そこに集まった人たちの大多数には、イエスとの間に、これといった個人的な関係はなかったことでしょう。たまたまその場に居合わせて、騒ぎに巻き込まれただけかも知れません。多くの人々はその場で起きている状況に身を任せ、感情に翻弄されているだけ、それこそ「扇動」されているだけであります。皮肉にも、「民衆を扇動しているのです」とイエスのことを訴えていた当人たちが、かえって人々を扇動していました。

歴史を振り返ってみると、多くの人が何かしらの意見を表明するリーダーによって扇動されて、熱狂的な行動をとった事例は多々あります。そして今の時代にも、その危険性は十分に存在します。残念ながら扇動が生み出す熱狂は、時として暴力的な結末を生み出します。

人と人との関わりの中で、感情は生み出されていきます。具体的に人と出会い、意思を疎通し、様々なやりとりをすることで相互の理解を深め、人間関係を構築していきます。具体的な人間関係は、相手の心情、心持ちに対する思いやりの心を深めさせていきます。

残念ながら、どんどん便利になる現代社会は、たとえばコミュニケーションの手段としての電話ひとつにしても、便利になればなるほど、現実の人間関係よりも、仮想現実の中に私たちを引き込んでいき、たくさんの人を知っているようで、本当のところ互いをあまりよく知りもしないという、なんとも矛盾した現実を生み出しています。

携帯電話も最初はただ電話をかけるだけで、どこにでも持ち運べる電話機に過ぎませんでしたが、そのうちメールが使えるようになり、さらにはインターネットにもつながって、今ではスマートフォンとなりました。一昔前であれば、コンピュータでしかできなかったことが、手元の小さな「板」で、何でもできてしまう、確かに便利になりました。

コミュニケーションの手段が便利になったことで、私たちが手にしたものは多くあります。それは間違いありません。でも同時に、失ったものも少なからずあるように思います。

失ったものの筆頭は、皮肉なことに現実の人間関係ではないかと感じることがあります。

具体的な人間関係が希薄になった現実のなかで、私たちはよりいっそう孤独を深め、深まる孤独の中で自らの存在を守ろうとするがあまり、身勝手で自己中心になってしまった。そうではないでしょうか。残念ながら希薄になった人間関係の中に生きている私たちは、具体的な誰かとの関わりを失い、相手への思いやりの心を失い、そして簡単に扇動されるものとなってしまっているように感じます。

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扇動されて生じる熱狂は、あの日の夜のエルサレムでそうであったように、極端へと暴走し始めます。熱狂は時として悪の方向へと暴走します。ネガティブな暴走は、人の生命を奪います。あの日の夜のエルサレムでそうであったように。

ともに十字架につけられた二人の犯罪人の態度は、象徴的です。イエスをののしる犯罪人は、彼らを十字架につけた人々の熱狂の渦から逃れることができずに、自分が何を言っているのか理解しないまま、生命を失う道を歩んでしまいます。

しかしもう一人の犯罪人は、熱狂に飲み込まれることなく、冷静に自分自身を振り返り、自分がいったい何者であるのかをしっかりと理解しながら、イエスと具体的な人間関係を築きあげようとしたことで、永遠の生命への道を歩むことになりました。

私たちキリスト者は、今、どの道を歩もうとするのでしょうか。

エルサレムへ入城するために、子ロバを引いてくるようにとイエスは弟子に命じています。考えてみれば「主がお入り用なのです」といって勝手に連れてきてしまうのですから、かなり常識外れな行動です。しかし、救いの計画の成就のためには、人間常識を越えた行動、神の価値観に基づいた行動が不可欠であることを、この物語は教えています。

神が望んでおられる世界は、残念ながら具体的に実現してはおりません。少なくとも、今私たちが生きているこの世界が、理想的な世界だと自信を持って断言できる人はそれほど多くはないだろうと思います。そもそも基本中の基本である、神の賜物としての人間の生命が、その始まりから終わりまで、一つの例外もなく尊厳を守られる世界は、全く実現していません。世界は様々な理由を口実として見つけては、理想はわかるけれども現実はそんなに甘くはないのだなどといって、身勝手な道を歩み続けています。

そんな中で、イエスは、神の価値観を具体的に生きることは、この世界の様々な扇動に乗せられて、それに身を任せて熱狂することではないと教えます。たとえそれが人間の常識を越えていたとしても、神の価値観にとことんこだわって生きることが、大切であり必要だと教えています。

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私たちは、社会のそこここにある扇動の声に身を任せて熱狂することのないように、まず第一に、イエスとの個人的な人間関係を築き上げましょう。御聖体の秘跡のうちに、イエスとしっかりとした太い関係を築き上げましょう。キリストであるイエスは、書物の中に残された記憶ではなく、今生きておられる主だと私たちは信じています。

そして、私たち自身、教会共同体の中で、具体的な人間関係をしっかりと構築していきましょう。目に見える関係の中で、互いに耳を傾けあい、互いに理解を深め、互いに助け合い、互いにイエスの弟子であることを自覚しながら歩みをともにしていきましょう。たとえどれほど小さな声であったとしても、扇動された熱狂的な大声に負けることなく、神の望みをひるまず頑固に叫び続ける存在でありたいと思います。

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2019年4月10日 (水)

東京カトリック神学院の再出発

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4月3日は11時から、東京カトリック神学院の開校ミサでした。「開校」と言っても、神学院は以前からそこにありましたし、建物もそのままです。

もともと1929年に「東京公教大神学校」この地に創立されており、それが1947年に「東京カトリック神学院」となって、この上石神井の地にありました。九州の福岡には、1948年に創立された「福岡サン・スルピス大神学院」がありました。長年にわたり二つの神学校を持つことへの負担について、また日本全体の福音宣教と司牧というビジョンに基づいて話し合いを進めた司教団は、教皇庁福音宣教省の認可(2008年11月18日付)を得てこの二つを合同し、それぞれを「二つのキャンパスとする一つの神学院」として、2009年4月1日に「日本カトリック神学院」が開校しました。

合同したことは良かったのですが、同時に問題も見えてきました。これについて、詳しい解説が中央協のホームページにありますが(こちらのリンク)、問題となった部分を引用します。

『一つの神学院に二つのキャンパスという体制は、東西間に見えない壁があった日本の教会の交わりのために、また、交流が少なかった二つの神学院の伝統や教育法の融合のために有意義でしたが、一つの神学校とは言え、遠距離間に二つのキャンパスがあることで、予想以上に問題が生じました。
たとえば、

神学生が6年のうち2回キャンパスを移動するので、養成者と神学生との関わりが希薄化し、また、霊的同伴が一貫してできない。また、すべての学年で3学年離れている神学生同士が、6年間を通じて一度も生活を共にすることのない状況になってしまった。

各キャンパスが平均20人以下の人数の場合、各キャンパスでの共同体を構築する能力が低下している。

教員(講師)が遠方から来るため、集中講義が多くなり、教員と学生の負担が大きい。

二つのキャンパスの運営のため経費がかさむ。また、神学生と教師の移動にかかる時間と費用が大きい。

各キャンパスに最低5人の養成者が必要で、全体で10人の養成者の確保が容易ではない。

 

そのため、6年経過した2014年4月から、二つのキャンパス制の養成上の弱点を改善するため、二つのキャンパス制を見直し、キャンパスの統合を検討することになりました。そして、ほぼ4年をかけて縷々検討し審議を重ねました。』

そういうわけで、このたびあらためて東京と福岡に神学院を持つことになり、東京は、東京教会管区(札幌、仙台、さいたま、新潟、横浜、東京)と大阪教会管区(名古屋、京都、大阪、高松、広島)、福岡は長崎教会管区(福岡、長崎、大分、鹿児島、那覇)の諸教区による、「諸教区共立神学校」として福音宣教省の認可をいただきました。

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ちょうどバチカンの教皇庁聖職者省が、2016年12月8日に『司祭召命の賜物~司祭養成の為の基本綱要~』と言う指針を新たに示したこともあり、それに沿って日本の司祭養成の綱要も作成されました。今年はまた、司祭養成がこれまでの哲学2年、神学4年の都合6年からから、予科1年が最初に加わり7年と変更になる節目の年でもあります。その意味で、新たな一歩として、神学院は踏み出しました。なお東京教区からは、新たに松戸教会所属の田町さんが予科生として入学しました。

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開校ミサは、前田枢機卿が司式し、私が、風邪でほとんどかすれた声でしたが、ささやくように、説教をさせていただきました。以下、当日の説教原稿です。

教会は、いままさに危機的な状況に直面しています。残念ながら、教会が聖なる道から離れ、善なる存在とは全く異なる過ちを犯した性虐待の問題が次々と明らかになり、日本でも同様の事例があることも、明らかになっています。

教会において聖性の模範であるはずの聖職者が、全く反対の行動をとって多くの人の心と体を傷つけ恐怖を与えてきたことを真摯に反省し、私たちは被害を受けられた方々に、また信頼していた存在に裏切られたと感じておられる方々に、心からゆるしをこいねがわなくてはなりません。

教会が今直面する危機的状況は、偶発的に発生している問題ではなく、長年にわたり悪のささやきに身を任せて積み重なってきた諸々のつまずきが、いまあらわになっているのです。虐待の被害に遭われた多くの方が心に抱いている傷の深さに思いを馳せ、ゆるしを願いながら、その心の傷にいやしがもたらされるように、教会はできる限りの努力を積み重ねる決意を新たにしたいと思います。

そのような危機的な状況の中で、カトリック教会の司祭養成課程は、ある意味で注目を集めています。教会の内外から、司祭の養成には神学や聖書学の勉強だけではなく、カウンセリングの技能習得が不可欠だとか、性に関する知識を深めるべきだとか、聞こえてくる声には様々なものがあります。それはそうなのかも知れません。

先ほど朗読された福音には、湖で網を打っていたシモンとシモンの兄弟アンデレに対してイエスが、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたことが記されていました。

福音を告げしらせる者になるようにとの呼びかけに応えた二人にとって、それからの3年間ほどに及ぶイエスとの生活は、まさしく神学校での養成の期間だったのかも知れません。イエスと歩みをともにした弟子たちが、イエスの受難と死の時点で完成した福音宣教者となっていたのかと言えば、そうではなかったことを私たちは知っています。弟子たちは復活の出来事を体験し、聖霊を受けて強められ、福音宣教者としての完成を目指して生涯にわたる旅を続けました。

すなわち養成期間の終了は、その完成を意味していません。神学院の養成課程をすべて無事に終了したからと言って、その時点で私たちは完成した司祭となっているわけではありません。

司祭の養成は、神学院と名付けられた専門の学校で、ある一定量の知識や技能を身につけることによって完成するものではなく、生涯をかけて完成を目指して歩みを進める旅路であります。確かに、神学院修了時に完成した司祭が輩出されるべきなのだとするならば、あれもこれも神学院の課程に詰め込むべきだという考えは理解できます。でも司祭養成は、生涯をかけての旅路であり、神学院はどちらかと言えばその旅路を歩む術を身につける場であります。どうしたら、道を外れることなく、主にしたがって生きていくことができるのか、その道を見いだす術を身につける場であります。「私に従いなさい」と常に声をかけてくださる主の呼びかけに、耳を傾ける術を身につける場であります。私たちは、常に未熟な存在であることを心にとめて、謙遜のうちに歩みを進める術を身につけておかなくてはなりません。

昨年の世界召命祈願の日にメッセージの中で、教皇フランシスコは、「わたしたちは天から呼びかけている(神の)そのことばを聞き、識別し、生きなければなりません。そのことばは、わたしたちの能力を活かし、わたしたちをこの世における救いの道具にし、幸福の充満へと導いているのです」と述べられています。すなわち「聞き、識別し、生きる」ことが、召命を全うするために不可欠だと指摘されます。

その上で、まず聞くことについては、「主のことばと生き方に心の底から耳を傾ける心備えをし、自分の日常生活の隅々にまで注意を払い、さまざまな出来事を信仰のまなざしで読み解くことを学び、聖霊からもたらされる驚きに心を開く必要があります」と言われます。

また識別については、「わたしたち一人ひとりも霊的な識別、すなわち『人が、神との対話において、聖霊の声に耳を傾けながら、生き方の選択をはじめとする根本的選択を行う過程』を経て初めて、自らの召命を見いだすことができます」と言われます。

さらに生きることについては、「福音の喜びは、神との出会いと兄弟姉妹との出会いに向けてわたしたちの心を開きます。しかしその喜びは、ぐずぐずと怠けているわたしたちを待ってはくれません。もっとふさわしいときを待っているのだと言い訳をしながら、窓から見ているだけでは、福音の喜びは訪れません。危険をいとわずに今日、選択しなければ、福音の喜びはわたしたちのもとで実現しません。今日こそ召命のときです」と指摘されています。

私たちは、司祭職の中で使徒であり福音宣教者としての立場を忘れないために、旅路を歩み続けなければ成りませんが、そのときに常に人々の声に耳を傾ける人間であることが必要です。それは、私たちは一人ではなく、いつも人々から支えられているという謙虚さを身につけるためです。神学院の生活が、他者の声に、とりわけ弱い立場にある人の声に耳を傾ける術を身につけるものとなりますように。

また神学院の生活が、良い指導者に恵まれて、神の御旨を識別する術を身につけるものとなりますように。

そして神学院の生活が、自らの弱さを自覚させ、より一層神の助けと聖霊の導きに身をゆだねる謙遜さにおける勇気を身につける場となりますように。

東京カトリック神学院の新たな出発の上に、聖霊の導きと助けをともに願いましょう。

 

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2019年4月 3日 (水)

青年のためのシノドスを受けた使徒的勧告が発表されました。

昨年10月に開催された、青年のためのシノドス(日本からは勝谷司教が参加)を受けた、教皇様の使徒的勧告が発表されました。日本語聖式翻訳には少し時間がかかるかと思いますが、以下、その概要を、バチカンニュースの日本語版から抜粋して引用します。ニュースの全文は、このリンクです。また英語版の本文全文はこちらのリンクです。

教皇、若者テーマのシノドス後の「使徒的勧告」発表 (2019年4月2日記事から一部引用)

教皇フランシスコは、昨年の若者をテーマとしたシノドスの成果をふまえ、「使徒的勧告」を発表された。

教皇フランシスコは、若者をテーマとしたシノドス後の「使徒的勧告」を発表された。

「使徒的勧告・クリストゥス・ヴィヴィト」の公式発表をもって、その内容が明らかにされた。

「クリストゥス・ヴィヴィト」のタイトルは、序文の書き出しの言葉、「キリストは生きておられます」から採られている。

書き出しで教皇はこのように記される。

「キリストは生きておられます。キリストはわたしたちの希望、この世界で最も美しい若さです。キリストが触れるすべてのものは、若返り、新たにされ、いのちにあふれます。ですから、わたしは一人ひとりの若いキリスト者にこの最初の言葉を向けたいのです。キリストは生きておられ、あなたが生きることを望まれる、と!」

第1章「神のみことばは若者について何を言っているか?」では、教皇は旧約と新約聖書の記述を豊富に引用しつつ、神が若者をどのように見ておられるかを考察。

第2章「イエス・キリストは常に若い」において、教皇はイエスご自身も青年時代を過ごされたことに注目。若きイエスと家族や人々との関係を考えることが、青少年司牧に役立つと助言している。また、教皇は、「教会の若さ」にも触れ、教会が過去に留まることなく、自由であることを願われている。

第3章「あなたがたは、神の現在である」で、教皇は、若者たちは未来だけでなく、まさに今現在を生きていることを強調。

第4章「すべての若者への偉大な知らせ」では、教皇は、何にもまして大切な3つの偉大な真理を若者に告げることを望まれている。その真理とは、1.「神はあなたを愛しておられる」、2.「キリストはあなたを救う」、3「キリストは生きておられる!」である。

第5章「青年期の道のり」では、福音に照らされた若者たちがどのように青年期を過ごすべきかを考える。

第6章「ルーツをもった若者」で、教皇は、「ある時、若木が希望の象徴のように伸びているのを見たが、嵐の後に見ると、倒れて枯れていた。それはよく根を張っていなかったからである」と述べ、ルーツを持たずして未来はありえず、世代間の断絶は世界によい結果をもたらさないという確信を表している。

第7章「若者の司牧」において、社会・文化的な変化に絶えずさらされ、時に青年たちの不安に回答を与えられない青年司牧を見つめた教皇は、若者たち自身がその主役となり、司牧者らの指導のもとに、創造的で大胆な新しい道を切り開いていくことを望まれた。

第8章「召命」で、教皇は、神が一人ひとりに望まれる素晴らしい計画に触れ、特に基本として、家庭と仕事の形成を挙げ、結婚し、家庭を持つことを恐れないよう励ましている。同時に、教皇は、神に奉献する生き方をも示している。

最終章である、第9章「識別」では、教皇は、自分の召命を発見するために必要な、孤独と沈黙に触れている。

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北町教会と茂原教会

 

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3月24日の日曜日は、東京都内の北町教会へ司牧訪問に出かけました。関口の司教館からは車で30分ほどの距離ですが、当日は近隣でマラソン大会があり、道路が規制されていたこともあり、事前にグーグルマップで写真を見ながら道を確認していたとおりには走れず、結構道幅の狭い裏の満ちに入り込み、このまま車の両サイドをするのではないかと心配しながら北町教会の横に無事到着。

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北町教会の主任は、教区司祭で教会法の先生でもある田中昇神父様。堅信の準備をしてくださり、この日のミサで11名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

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ミサ後には、祝賀会も催され、その中では、皆さんからの質問コーナーもありました。子どもたちから、『日曜は何をしてますか』なんて言う質問もいただいて、そりゃ日曜はこうやって教会に出かけてますよとも思いましたが、思いの外、東京では教区や宣教協力体の合同の行事が午後にあることが多く、そういえば午前中はゆっくりしていることもあるなと思いながら、『時間があるときは、ぼーっとしてます」とお答えしました。ぼーっとする時間も必要です。

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準備してくださった皆さん、ありがとうございます。大きくもなくちょうど良いくらいのサイズの共同体です。互いの絆を深めながら、良い呂委教会共同体を育ててくださいますように。

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翌週の3月31日は、千葉県の茂原教会で四旬節の黙想会を行いました。茂原教会は千葉県でも九十九里浜に近い方面にありますので、かなりの距離です。初めてでしたのでナビの言うとおりに出かけましたら、まずはレインボーブリッジを通り、ディズニーランドの横を過ぎて、いくつかの自動車専用道を経て茂原に到着。1時間40分ほどでした。

主任司祭の安次嶺神父様は、現在は療養中で不在です。安次嶺神父様は、以前新潟教区でも働いてくださいました。近くに桜のきれいな公園のあるすてきな場所に教会はありました。

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9時半から講話を一つ、一時間ほど。実は、この直前にウィーンに会議で出かけていましたが、そこでの寒さと飛行機の機内の乾燥などで風邪を引き、体調は今ひとつでしたが、それ以上に、この日は途中から声の出が悪くなりました。ゆるしの秘跡後、11時からミサ。しっかりと歌いました。そして昼食会で質疑応答。ここまで来たら、声が出なくなりました。その後、声はますます出なくなり、月曜日にはまったくアウト。これを書いているのは水曜日の夜ですが、ほんの少し戻ってきたところ。まだ声がまともに出ていません。困りました。

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千葉県内の教会は、一つ一つの守備範囲が広い。茂原教会も、かなり広い範囲から信徒の方がおいでになるようです。ここもまたちょうど良いくらいのサイズの共同体ですから、これからさらに結びつきを深めて良い教会共同体を育てられるように願っています。迎える準備をしてくださった皆さんありがとうございます。

以下、すでに4月になりましたので、4月の主な予定です。

4月3日(水) 東京カトリック神学院開校ミサ (上石神井11時)

4月4日(木) 常任司教委員会 (潮見10時)

4月6日(土) 新潟清心女子中学高校入学式 (新潟)

4月8日(月) 東京教区司教顧問会など (関口)

4月14日(日)受難の主日ミサ (東京カテドラル10時)

4月15日(月)ロゴス図書館会議 (潮見)

4月17日(水)新潟教区聖香油ミサ (新潟)

4月18日(木)東京教区聖香油ミサ (東京カテドラル10:30)、主の晩餐ミサ (東京カテドラル19時)

4月19日(金)聖金曜日主の受難 (東京カテドラル19時)

4月20日(土)復活徹夜祭 (東京カテドラル19時)

4月21日(日)復活祭 (東京カテドラル10時)

4月22日(月)カリタス南相馬法人設立総会 (南相馬)

4月23日(火)カリタスジャパン会議 (潮見)

4月27日(土)イエズス会黙想の家60年ミサ (上石神井11時)

4月28日(日)千葉中央宣教協力体ミサ (鎌取12時)

 

 

 

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2019年4月 2日 (火)

3月24日、東京カテドラルでの晩の祈り

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毎週日曜日の午後5時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、晩の祈りが捧げられています。構内に修道院のあるシスター方と一緒に、教会の祈り(時課の典礼)を唱え、また司式する司祭が、説教も行います。お時間に都合がつく方は、どうぞ毎週日曜夕方の晩の祈りにご参加ください。

3月24日の日曜日夕方5時からは、私が司式して、性虐待被害者のための祈りと償いの日の晩の祈りを捧げました。以下、当日お話しした説教の原稿です。

この世において聖なる存在、善なる存在であるはずの教会は、残念ながら時にその道からはずれ、悪のささやきに身をゆだねてしまうことすらあります。聖なる存在、善なる存在は、常に宣教を妨げようとする悪のささやきにさらされます。その最前線で防波堤となり、悪への傾きから教会を護らなくてはならない牧者。その牧者たるべき聖職者が、自らが護らなくてはならない人々、とりわけ年齢的にも立場的にも弱い人々へ、性的な虐待をすることで、教会を悪のささやきにゆだねてしまった事例が、全世界であまりにもたくさん報告されております。

米国での聖職者による性的虐待問題の報告書や枢機卿の辞任、オーストラリアやフランスなど、各地で自らの犯罪行為や事実の隠蔽に関わったとして、聖職者がその責任を問われています。残念ながら、教会が聖なる道から離れ、善なる存在とは全く異なる過ちを犯した問題が次々と明らかになり、日本でも同様の事例があることも、明らかになっています。

教会において、聖性の模範であるはずの聖職者が、全く反対の行動をとって多くの人の心と体を傷つけ恐怖を与えてきたことを、特に私たち聖職者は真摯に反省しなければなりません。被害を受けられた方々に、また信頼していた存在に裏切られたと感じておられる方々に、心からゆるしをこいねがいます。

教会が今直面する危機的状況は、単に偶発的に発生している問題ではなく、結局は、これまでの長年にわたる教会の歴史の積み重ねであり、悪のささやきに身を任せて積み重なってきた諸々のつまずきが、あらわになっているのだろうと思います。教皇様を頂点とする教会は、結局のところ、この世における巨大組織体ともなっています。組織が巨大になればなるほど、その随所で権力の乱用と腐敗が生じます。この世の組織としての教会のあり方をも、私たちは今、真摯に反省し、組織を自己実現のためではなく、神の国の実現のために資する共同体へと育てていかなければならない。そういう「とき」に、私たちは生きているのだと感じています。

そして、虐待の被害に遭われた多くの方が心に抱いている傷の深さに思いを馳せ、ゆるしを願いながら、その心の傷にいやしがもたらされるように、教会はできる限りの努力を積み重ねる決意を新たにしたいと思います。

同時に、積極的で真摯な対応を怠り、事態の悪化を漠然と看過してきた私たち司教も、その怠りの罪を反省し、真摯に対応していく決意を新たにしたいと思います。

私たちは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言うイエスの言葉のうちに、すべての人、とりわけ弱い立場に置かれた人のうちに主がおられると信じているはずです。虐待の加害者は、残念ながら、被害者の方の心に思いを馳せることができなかっただけでなく、そこにおられる主ご自身をも傷つけてしまいました。

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教会は、「キリストの光をもってすべての人を照らそうと切に望む」存在であるはずです。教会は、世界にいつくしみを伝え、それを生きる姿で具体的に表す存在であるはずです。教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるし、道具で」あるはずです。

しかし教会は、聖職者自身の犯した罪によって、その輝きを失い、いつくしみを表すことなく、自ら一致ではなく混乱する姿をさらけ出してしまっています。

現代社会こそ、暗闇に輝く光を必要としています。神が賜物として与えられた人間のいのち、神の似姿として尊厳を与えられた人間のいのちが、社会の様々な現実の中で危機にさらされている様々な現実を目の当たりにするとき、まさしくわたしたちは暗闇の中に生きていると感じさせられます。

その暗闇の中で、教会こそは、キリストの光を輝かせる存在でなくてはならない。果たしてその役割を真摯に果たしているのだろうか。

また現代社会の様々な現実を客観的に見るならば、私たちは一致と言うよりも分裂の中に生きていると感じることがあります。教皇様がしばしば指摘されるように、現代社会には排除の論理が横行し、異質な存在を排斥し、時に無視し、自分を中心とした身内だけの一致を護ろうとする傾向が見受けられます。教皇様は、「廃棄の文化」と言う言葉さえ使われます。弱い立場にある人、助けを必要としている人に手を差し伸べるのではなく、そんな人たちは存在しないものとして、社会の枠から追い出されてしまう、捨てられてしまう。

護るべきいのちの尊厳を、自分中心の考えから、ないがしろにしてしまった聖職者の存在と、その逸脱を許してしまった教会組織が、いのちの尊厳を語る教会から信用と信頼を失わせてしまっています。

2月21日から24日まで、「教会における未成年者の保護」をテーマに、世界中の司教協議会会長が呼び集められ、バチカンで会議が行われました。その閉幕にあたりささげられたミサで教皇様は、「人々の魂を救いに導くために神から選ばれ、自らを奉献した者が、自分の人間的弱さや病的なものに打ち負かされ、無垢な子どもたちさえ犠牲にしてしまう、この虐待問題に、わたしたちは悪の手を見ることができる」と指摘されました。

その上で、「人々の正当な怒りの中に、教会は、不正直な奉献者に裏切られた神の怒りを見ている」と厳しく指摘し、この問題に真摯に取り組んでいく姿勢を強調されました。

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教皇フランシスコは、教会の聖職者による性的虐待の問題、特に児童に対する問題に教会が全体として真摯に取り組み、その罪を認め、ゆるしを願い、また被害に遭った方々と教会がともに歩むことを求めておられます。またそのために、特別の祈りの日を設けるように指示されました。日本の司教団は、2016年12月14日にメッセージを発表し、その中で日本における「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を、四旬節・第二金曜日とすることを公表しております。2019年にあっては、3月22日(金)がこの「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたります。

聖職者が自らの生き方を顧み、無関心や隠蔽も含め、その罪を真摯に認めなくてはなりません。被害を受けられた方々に、神のいつくしみの手が差し伸べられ、癒やしが与えられるように、祈るだけではなく、教会として具体的な対応をとるように努めたいと思います、被害を受けられた世界中の多くの方々に、心から許しを願います。

そして、教会のために、また弱い人間である司祭たちのために、祈りをお願いいたします。

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