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2019年4月15日 (月)

受難の主日(枝の主日)@東京カテドラル

Palm1901

聖週間がはじまりました。関口教会の10時のミサで、受難の主日の典礼を司式させていただきました。

ルルドの前に集まり、枝を祝福し、エルサレム入城の福音を耳にした後に、東京カテドラル聖マリア大聖堂の正面入り口を開け、皆で入堂しました。

Palm1906

この一週間は、信仰者にとって特別なときです。イエスの受難と死と復活がなければ、私たちの信仰はあり得ません。信仰の原点をあらためて見つめ直すときであります。歓喜の熱気の渦の中でエルサレムに迎え入れられ、その直後には友から裏切られる。その流れの中で、主イエスは聖体の秘跡を制定されました。弟子たちに『私の記念としてこれを行え』と述べられた主の思い。その切々たる思いは、書物の中に記された過去の記録ではなく、今まさに繰り返される現実であります。それを特にこの一週間で肌で感じたいと思います。主は私たち、一人ひとりに、切々と語りかけられています。

Palm1902

とはいえ、学校は新学期がはじまったばかりですし、職場も新年度でばたばたしているかも知れません。時間がとれるのであれば、是非とも聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日の典礼に参加していただければと思います。関口教会では聖マリア大聖堂で、すべて大司教司式の典礼として、三日間とも午後7時から行われます。また聖木曜日(18日)には、午前10時半から、教皇大使も参加されて、聖香油ミサが行われます。どうぞおいでください。

様々な理由で時間がとれない場合でも、この一週間は、いつも以上に、主イエスの存在を意識して過ごされればと思います。私たちは、その主ご自身の苦しみによって、生かされているのだ。その死と復活によって、生きる希望を与えられたのだと、感謝する思いを、一日の中でのちょっとした瞬間に、心に思い起こしていただければと思います。せっかくの、一年に一度の、信仰の原点に立ち返るチャンスですから。

Palm1903

以下、枝の主日ミサの説教の原稿です。

「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と、集まっていた人々は一斉に叫んだ、受難の朗読にはそう記されていました。
一人の人間の生命を暴力的に奪ってしまえと主張するのですから、そう叫ぶ人々には、それ相応の憎しみや怒りの感情があってしかるべきだと思います。その日そこに集まっていた多くの人の心に、果たしてそんな深い憎しみや怒りの感情が存在していたのか。そもそも、イエスという人物を個人的に知っていたのか。イエスとの間に、そんな感情が芽生えるほどの人間関係があったのか。

私たちが聖書の物語から推測できるように、そこに集まった人たちの大多数には、イエスとの間に、これといった個人的な関係はなかったことでしょう。たまたまその場に居合わせて、騒ぎに巻き込まれただけかも知れません。多くの人々はその場で起きている状況に身を任せ、感情に翻弄されているだけ、それこそ「扇動」されているだけであります。皮肉にも、「民衆を扇動しているのです」とイエスのことを訴えていた当人たちが、かえって人々を扇動していました。

歴史を振り返ってみると、多くの人が何かしらの意見を表明するリーダーによって扇動されて、熱狂的な行動をとった事例は多々あります。そして今の時代にも、その危険性は十分に存在します。残念ながら扇動が生み出す熱狂は、時として暴力的な結末を生み出します。

人と人との関わりの中で、感情は生み出されていきます。具体的に人と出会い、意思を疎通し、様々なやりとりをすることで相互の理解を深め、人間関係を構築していきます。具体的な人間関係は、相手の心情、心持ちに対する思いやりの心を深めさせていきます。

残念ながら、どんどん便利になる現代社会は、たとえばコミュニケーションの手段としての電話ひとつにしても、便利になればなるほど、現実の人間関係よりも、仮想現実の中に私たちを引き込んでいき、たくさんの人を知っているようで、本当のところ互いをあまりよく知りもしないという、なんとも矛盾した現実を生み出しています。

携帯電話も最初はただ電話をかけるだけで、どこにでも持ち運べる電話機に過ぎませんでしたが、そのうちメールが使えるようになり、さらにはインターネットにもつながって、今ではスマートフォンとなりました。一昔前であれば、コンピュータでしかできなかったことが、手元の小さな「板」で、何でもできてしまう、確かに便利になりました。

コミュニケーションの手段が便利になったことで、私たちが手にしたものは多くあります。それは間違いありません。でも同時に、失ったものも少なからずあるように思います。

失ったものの筆頭は、皮肉なことに現実の人間関係ではないかと感じることがあります。

具体的な人間関係が希薄になった現実のなかで、私たちはよりいっそう孤独を深め、深まる孤独の中で自らの存在を守ろうとするがあまり、身勝手で自己中心になってしまった。そうではないでしょうか。残念ながら希薄になった人間関係の中に生きている私たちは、具体的な誰かとの関わりを失い、相手への思いやりの心を失い、そして簡単に扇動されるものとなってしまっているように感じます。

Palm1908

扇動されて生じる熱狂は、あの日の夜のエルサレムでそうであったように、極端へと暴走し始めます。熱狂は時として悪の方向へと暴走します。ネガティブな暴走は、人の生命を奪います。あの日の夜のエルサレムでそうであったように。

ともに十字架につけられた二人の犯罪人の態度は、象徴的です。イエスをののしる犯罪人は、彼らを十字架につけた人々の熱狂の渦から逃れることができずに、自分が何を言っているのか理解しないまま、生命を失う道を歩んでしまいます。

しかしもう一人の犯罪人は、熱狂に飲み込まれることなく、冷静に自分自身を振り返り、自分がいったい何者であるのかをしっかりと理解しながら、イエスと具体的な人間関係を築きあげようとしたことで、永遠の生命への道を歩むことになりました。

私たちキリスト者は、今、どの道を歩もうとするのでしょうか。

エルサレムへ入城するために、子ロバを引いてくるようにとイエスは弟子に命じています。考えてみれば「主がお入り用なのです」といって勝手に連れてきてしまうのですから、かなり常識外れな行動です。しかし、救いの計画の成就のためには、人間常識を越えた行動、神の価値観に基づいた行動が不可欠であることを、この物語は教えています。

神が望んでおられる世界は、残念ながら具体的に実現してはおりません。少なくとも、今私たちが生きているこの世界が、理想的な世界だと自信を持って断言できる人はそれほど多くはないだろうと思います。そもそも基本中の基本である、神の賜物としての人間の生命が、その始まりから終わりまで、一つの例外もなく尊厳を守られる世界は、全く実現していません。世界は様々な理由を口実として見つけては、理想はわかるけれども現実はそんなに甘くはないのだなどといって、身勝手な道を歩み続けています。

そんな中で、イエスは、神の価値観を具体的に生きることは、この世界の様々な扇動に乗せられて、それに身を任せて熱狂することではないと教えます。たとえそれが人間の常識を越えていたとしても、神の価値観にとことんこだわって生きることが、大切であり必要だと教えています。

Palm1905

私たちは、社会のそこここにある扇動の声に身を任せて熱狂することのないように、まず第一に、イエスとの個人的な人間関係を築き上げましょう。御聖体の秘跡のうちに、イエスとしっかりとした太い関係を築き上げましょう。キリストであるイエスは、書物の中に残された記憶ではなく、今生きておられる主だと私たちは信じています。

そして、私たち自身、教会共同体の中で、具体的な人間関係をしっかりと構築していきましょう。目に見える関係の中で、互いに耳を傾けあい、互いに理解を深め、互いに助け合い、互いにイエスの弟子であることを自覚しながら歩みをともにしていきましょう。たとえどれほど小さな声であったとしても、扇動された熱狂的な大声に負けることなく、神の望みをひるまず頑固に叫び続ける存在でありたいと思います。

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