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2019年4月20日 (土)

聖木曜日主の晩餐@東京カテドラル

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聖なる三日間がはじまりました。私たちの信仰の原点である主の受難と死を黙想し、復活に与り喜びをともにするときです。関口教会の聖なる三日間の典礼は、すべて午後7時から始まり、韓人教会との合同ミサとなっています。

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聖木曜日のミサ中には、福音書に記された主ご自身の業の模範に倣い、その思いを私たちの心に刻み込むために、洗足式が行われます。数年前に典礼の規則が改定されたので、現在は男性だけでなく女性も参加するようになっています。関口教会と韓人教会から、それぞれ6名ずつの12名の方が内陣に並んでくださいました。もっとも共同体が小さいところでは12名の方に出ていただくのは難しいところもあろうかと思います。人数が少なくとも、このミサの中で、実際に足を洗うことがどのようなことかを目の当たりにすることは重要だと思います。それを通じて、あの晩の主イエスの思いを私たちの心に刻むことができるからです。

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以下、説教の原稿です。

1981年2月23日の午後、私は東京カテドラル聖マリア大聖堂、この聖堂の中におりました。その頃私は名古屋の南山大学の学生で、その3月に神言修道会で初めての誓願を立てる準備をしているときでありました。

その日、聖堂内のすべてのベンチは取り払われ、真ん中に通路が設けられ、司祭や修道者、シスター方で立錐の余地もないほどでありました。日本の教会にはこれほどたくさんの聖職者や修道者がいるのかと、感激したことを鮮明に記憶しております。

あらためて言うまでもなく、この日、1981年2月23日から26日まで、当時のローマ教皇聖ヨハネパウロ二世が、ローマの司教として初めて日本を訪問されました。その日、羽田に到着された教皇は、この聖堂に直行され、まず聖堂入り口で挨拶のメッセージを読み上げられました。あのヨハネパウロ二世の太くて力強い声が、マイクを通じて聖堂内まで響いてきました。そしてそれはなんと、予想もしていなかった日本語でありました。その事に、メッセージの内容は興奮で記憶に残らなかったものの、大変感激したことだけは鮮明に記憶しています。

この日、集まった聖職者・修道者に対して、教皇は次のように呼びかけられました。
「司祭の務めの中心は、わたしたちの主イエズス・キリストの福音を述べ伝えることであります。この述べ伝えは聖体祭儀によってその頂点に、その目的に達するものです」

その上で教皇ヨハネパウロ二世は、自らの回勅「人間のあがない主」を引用してこう言われました。
「教会がその生命をまともに生きるのは、創造主であり、贖い主であるかたの最も驚くべき属性である哀れみを信じ、それを述べ伝えるときである」

そしてこの聖堂に集まった多くの聖職者・修道者にこう呼びかけられました。
「あなたがたのすべての言葉と行ないが、哀れみに富むわたしたちの神に証を立てるものとなるようにしてください。皆さんの説教が、贖い主の哀れみに対する希望を呼び起こすものであるように。」

それから40年ほどが経過した現在、教皇フランシスコは同じように、神のいつくしみを伝えることこそが教会の最も大切な努めであると繰り返されています。教会が神の哀れみといつくしみを具体化する存在となるときに、そこに人類の希望が生まれるのだと説かれます。つまり、40年近くたっても私たちの牧者が同じことを繰り返し伝えなければならないように、現実社会にはあわれみといつくしみが欠如しており、希望が失われているのです。教会には今、自らに与えられた使命を思い起こし、それに立ち返ろうとすることが強く求められていると感じます。

私は38年前のあの日、この聖堂に立ち、教皇ヨハネパウロ二世の言葉を耳にして心に覚えた感動を忘れることはありません。教会の日本における福音宣教には、明るい希望があり、多くの人に伝えていくべき宝があるのだと、その日に確信したからです。

心に感動を覚え、希望へと確信を持った出来事は簡単に忘れることはありませんし、それを多くの人に教えたいと思うものだと、私は感じています。

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本日の第一朗読、出エジプト記は、エジプトの奴隷状態からの解放である過越の出来事の詳述であります。イスラエルの民にとって、生きる希望、将来への大いなる希望を見いだした出来事として、忘れることはできず、いつまでも伝えていきたい出来事です。

第二朗読のコリントの教会への手紙は、最後の晩餐における聖体の秘跡の制定であります。弟子たちにとって、そしてその後に続くキリスト者にとって、新しい契約が結ばれた、まさしく希望の出来事であります。主御自身に命じられるまでもなく、新しい生命への希望をもたらす出来事として、忘れることはできず、いつまでも伝えていきたい出来事です。

福音は、弟子の足を洗う主イエスの姿を記しています。イエスが伝えようとした福音の神髄を、自らの行動で模範として残された、その衝撃的な出来事は、まさしく神のいつくしみのうちにこそいのちへの希望があるのだと言うことを具体的に示しています。キリストに従うものにとって忘れることはできず、いつまでも伝えていきたい出来事です。

私たちの信仰は、伝承に基づいた信仰です。でもそれは昔語りとしての伝承、すなわち懐かしいと感じる過去のある時点へと立ち返ろうとする後ろ向きの伝承ではありません。そうではなく、前向きに未来に向かって今を生きる一人一人にとっての、生命の希望を生み出す源としての伝承であります。

私たちに生命という尊い賜物をくださった神は、私たち人間への限りない愛を明確にするために、自ら人間となり、その身を贖いのいけにえとしてささげられました。加えてその愛を、日々私たちが知ることができるようにと、聖体の秘蹟を制定することを通じて、ご自身が常に私たちと共におられ、その語られたこと、その行われたこと、そして究極的にはその身を私たちのためにささげられたことを、私たちがその再臨の時まで伝え続けるよう命じられました。

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最後の晩餐での出来事は、弟子達を通じて私たちに引き継がれ、私たちはそれをさらに将来へと伝えていく義務を負っています。聖体祭儀に与る時私たちは、「私の記念として」といわれた主の言葉を思い返し、主がなさったこと、伝えたことをあらためて自分の心に刻み込みます。そしてそれをさらに伝えていく役割を果たして行く決意を日々新たにしなくてはなりません。

その伝えていく役割とは、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と福音に記されているように、主がなさったことを、私たちが同じように繰り返していくことに他なりません。そう考える時、今この21世紀に主イエスが私たちと共におられるのならば、一体私たち従う者に、主はどうすることを求められるのだろうか。それを自分に問いかけないわけにはいきません。

私たちは、信仰において前向きに希望へとつながる感動を伝承していくようなそんな物語を持っているでしょうか。信仰においてそんな体験をしているでしょうか。多くの人が前向きな希望を心に抱くことができるような、そんないつくしみに満ちあふれた教会共同体を生み出しているでしょうか。

私たちの信仰の原点を振り返るこの聖なる三日間、イエスの呼びかけに耳を澄ませ、そのいつくしみに満ちた聖なる御心のおもい自らの心に刻み、それに生き、また多くの人に伝えていく決意を新たにいたしましょう。
 

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