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2019年7月13日 (土)

赤羽教会堅信式

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7月7日の日曜日は、赤羽教会で堅信式ミサでした。赤羽教会はコンベンツアル聖フランシスコ修道会が司牧を担当し、現在は同会員の永尾稔師が主任司祭です。

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ミサの中で、18名の方が堅信を受けられました。おめでとうございます。赤羽教会の聖堂は、古くからの祭壇が残され、荘厳な雰囲気でありました。同会の神学生二人を含む侍者の皆さんも熱心で、共同体全体に祈りと信仰の熱意がこもっているのを感じた日曜でした。

ミサ後には、信徒会館で祝賀会。教会学校の皆さんの歌の披露もあり、楽しいひとときを過ごすことができました。準備してくださった皆さん、ありがとうございます。

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1949年に正式に小教区となった赤羽教会について、東京教区のホームページには次のように記されています。

「赤羽教会の設立は、当初長崎を拠点として活動していたコンベンツアル聖フランシスコ修道会が終戦後、東京に新しい修道院や神学生養成のための神学校の必要性を強く感じ始めたことに起因します。ドナト・ゴスチンスキー神父とゼノ修道士が派遣され、赤羽にその地をみつけ、戦争中の空襲で焼けた工場跡のこの土地を、当時の管区長であったサムエル・ローゼンバイゲル神父がアメリカからの寄付金で購入しました」

以下、当日のミサの説教の録音を文字に起こしたものですが、意味不明なところは直してあります。

 

どうして司教が小教区を訪問するか、皆さんご存じですか?

今日は堅信式があるからと思っておいでかもしれませんが、堅信は、司教の委任で主任司祭が授けることができます。堅信を授けることだけが、司教が小教区にやってくる目的ではないのです。

今年11月に教皇様が日本に来られるという話がテレビや新聞で流れていますね。全て決まっているように思われていますが、実はまだなんにも決まっていません。

カトリック教会ではローマが発表しないとなにも決まらない。正式的にはなにも決まっていませんが、でも教皇様は日本に来られる予定です。

で、なぜ教皇様が日本にやってくるのかというと、それは司教が小教区にやってくる理由と同じ理由なんです。

物見遊山ではない。政治の交渉のためでもないし、もちろん洗礼を授ける為でも堅信を授けるためでもない。あるひとつの目的のために、教皇様はやってくるし、おなじように司教も訪ねてくるのです。

その目的は、教会共同体に励ましを与えることなんです。

では、そもそも教会はどこから始まったのか。

それは聖霊降臨の日、弟子達が聖母マリアと共に集まっているところに聖霊が降(くだって)きた。そこに初めて教会共同体が始まったといわれています。

聖霊降臨の日は教会の誕生の日といわれていますが、あの日から全てが始まっているんです。あの日から全てが始まり、この極東の外れの日本という国にも、その同じ教会共同体が存在しているのです。

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最初に始まった教会共同体にはリーダーがいました。もちろんマリア様もそこにおられていたけれども、リーダーはだれだったのか。

それはイエスご自身が、使徒たちのリーダーとして天国の鍵を授け託した弟子、ペトロです。ペテロを中心として教会共同体が存在していた。

それが徐々に世界に広がってゆくと、ペトロ一人ではやっていけませんから、リーダー役をどんどん分けていくわけですね。つまりそれが司教。

司教たちというのは、そのペトロと11人の使徒から始まり、使徒の後継者として世界中に存在しているのです。

ですから実は、今日こうしてみなさんと一緒にいるこの教会共同体は、あの聖霊降臨の日の、あのペテロを中心として一緒に集まっていた教会共同体と、繋がっているわけですよ。

そしてその教会共同体は、リーダーのペトロによって励ましを受けて福音宣教に遣わされている。

すなわち、司教や教皇様がやってくる一番大きな理由は、そこに存在している教会共同体に、あなた方はただ孤立し自分たちだけで存在している教会ではないのだと、あの聖霊降臨の日から連綿と続いている教会共同体の流れの中に一緒にいるんだと、伝えに来ているということです。

だから私たちはカトリック教会というんですよ。普遍教会、普遍に広がっている教会。

だから与えられている使命をしっかり果たしなさいと、励ましを与える為に教皇様は来られるし、励ましを与えるために私も、小教区の共同体を訪問しているのです。

何を励ましているのかというと、すでに申し上げた通り、福音を告げ知らせること。イエス・キリストの福音を証しすること。

今日の福音では、教会が12人のところから始まり、さらに72人をリーダーとして任命し派遣していくわけです。

その72人を外に向けて派遣していく時に、訪ねていったら何を言えとイエスは言ったか。

イエスはただ、「この家に平和があるように」と。

私がここであなた方に教えたことを教えなさいとか、そんなことをイエスは一言も言わなかった。私達は「平和があるように」という言葉を、伝えていかなければならないのです。

平和っていったいなんでしょう。

戦争しないことだとか、みんなが仲良くしていくこと、などと考えていくと、実はそれは平和の結果なのです。平和の結果として戦争がないのですし、平和の結果として皆さん等しく尊重されて仲よく生活をしていくのです。

平和っていったいなんなんだろう。

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創世記の一番最初に神は混沌としている中で世界を創られていったと記されている。神は思いつきで、世界を作っていったわけではなくて、神は自分が考えられた最善の秩序で世界を生み出していかれた。

最初に創られた世界には、神の秩序が存在していたのです。神が、これが一番最適だと思われる秩序に従って創造したのです。

あの時にこそ、神の完全な秩序が実現していたのです。それを神の平和と呼ぶのです。

つまり、神の平和というのは、神が望まれている世界の秩序が実現している状態です。神が望んでいる実現の象徴。

今どうなのかというと、もちろん実現していません。なぜならばアダムとエバの時、罪の誘惑によって人間が神の望みに背いたために、そこから神の秩序が崩れっぱなしなのです。ずーっと今に至るまで崩れっぱなしです。

だから、あそこでもここでも戦争が起こり、人の命が粗末にされ、そして皆が仲良く生きてゆけないという状況が生まれてくるのです。

神の平和が存在していない所に、我々が考えている平和な世界はないのですよ。

ですから、神が望まれている世界を生み出しましょう。神が望まれている世界を、改めて実現しましょう。神が一番最初に世界を創り、人を創った時の、望まれていた秩序を回復しようということを、実は宣べ伝えたいのです。

そしてイエスが教えておられるさまざまなこと、イエスが私たちに教えられたさまざまな言葉、行いはすべてそこに結ばれているのです。

愛することによって、敵を許すことによって、人の為に命を捧げることによってと、さまざまなことをイエスは教えていらっしゃいます。それはすべて究極的には、神の秩序を実現するところに繋がっているのです。つまり平和の実現に繋がっているのです。

私たちはこの世界にあって、神が望まれていることと違うことがたくさん起こってますよね。命が粗末にされている、人間の命が大切にされていない、戦争が起こる、貧富の格差ががある。様々な状況がある中で、神が望まれている世界を創ろうじゃないか。その為に、イエスが言われているこれを、あれを実行しようと、伝えていきたいのです。それは私たち一人一人が与えられている福音宣教の務めです。

福音宣教の務めは、あんた洗礼を受けなさいなどと言うことではない。勧誘することではないのです。私たちは勧誘する為に派遣されている勧誘員ではないのです。

そうではなくて、この神の秩序を実現する為にイエスが言っていることに耳を傾けようよと、それをなんとか実現していこうよと、神が一番最初に創られたそれを、私たちはこの社会の中に伝えていきたいのです。

しかしそうゆうことは、現実からかなりかけ離れているので、何を夢物語、何を理想を言っているのかと、どうしても言われがちなことですが、その中にあって気が心が萎えてしまっている時に司教がやってくる、教皇様がやってくる。

そして、一番最初の教会から今に至るまで、この萎えた気持ちを神が聖霊によって生かしてくださっているんだ、力付けてくださるんだということを、改めて伝えるのです。

それによって私たちはもう一回力を得て励ましを得て、改めてこの社会の、福音を生きていこうという思いを強めてゆきます。新たにしていきます。

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幸いなことに、堅信の秘跡は、それを目にみえる形で私たちに自覚をさせてくれますよね。祈りがあって油を塗ることによって、堅信を受けられる一人一人に聖霊が注がれるのだといわれています。

聖霊を受けたからといって、なにか急に力がみなぎってきて、エナジードリンクを飲んだように、スーパーマンのように、急にできるようになるわけではないです。

なんにも起こらないのだけども、この萎えた気持ちでも前向きに生きて行こう、萎えた気持ちがあるけれど、でも前向きにイエスの福音を伝えていこうとする思いを、聖霊が後ろから支えてくれるのです。

支えてくれるのが聖霊です。後ろから神がフーッと息を吹きかけて支えてくれるのです。倒れ込まないように支えてくれるのです。それが聖霊を受けること、聖霊の力です。

今日堅信を受けられる方々も、このミサに与っている方々も、聖霊を豊かに受けて萎えた気持ちを改めてふるい立たせ、この社会の中でイエスの言葉に耳を傾けましょう。

あらためて自分の言葉で語り、毎日の生活で証していく。それによって少しでも世界が神の望まれる世界に近付いていくように、努力を続けていきたいと思います。

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