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2019年8月21日 (水)

教皇フランシスコ 7

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残念なことに、今日に至るまでも教皇様の訪日に関する公式な発表はありません。最終的にはバチカンと日本という二つの国家の外交交渉ごとですので、司教団としてもただただ発表されるのを待つしかありません。公式発表がまだなので、詳しい日程や肝心のミサの参加について発表ができず、様々な憶測が飛んでいるようです。申し訳ありません。

この数年の慣例を見る限り、だいたいどこの国の訪問でも三ヶ月ほど前にならないと、バチカンからの公式発表はありません。ちなみに三十八年前の来日の際の準備の大変さについては、当時広報を担当した水浦征男神父様の書かれた「教皇訪日物語」(聖母文庫)に詳しく、私もすでに何度も読み返しました。これを読まれると、現時点での状況を推し量ることが可能です。ぜひご一読を。いずれにしろ、公式発表がありましたら、即座に中央協議会のホームページなどで、そのほかの詳しいことは公表される予定ですので、今しばらくご辛抱ください。

というわけで、教皇様を迎える準備のために、もう少し教皇フランシスコの言葉から学んでみましょう。

信仰はいわば個人の内心の問題ですから、信じるのか信じないのか、何を信じるのか信じないのかは、それぞれの個々人がその内心において自己決断する事柄であって、決して外部からコントロールされて良いものではありません。その意味で、信仰は非常に個人的な性格を持っています。

それでは何でも好き勝手に自分の好みで信じて良いのかというと、そういうわけでもありません。たとえばキリストを信じると公に宣言する者が、とんでもない異端説に取り込まれ主張するのであれば、教会は同じ信仰に生きるものとして、正しい道を示して導こうとします。それは、私たちの信仰は極めて共同体的な性格を持っているからです。

そもそも聖書を通じて、旧約時代の神による民の選びもそうですし、新約時代にあってイエスが弟子たちの共同体を通じて福音を告げたこと、また弟子たちの共同体に聖霊が降臨することで教会が始まったことなどをみれば、私たちの信仰は共同体の存在を前提として成り立つ信仰であることがわかります。

私たちの信仰は、極めて個人的であると同時に、極めて共同体的でもあります。

信仰における共同体的性格を目に見える形で反映しているのが、私たちが通い祈りを捧げる教会、つまり小教区の存在です。

教皇フランシスコは、『出向いていく教会』を強調しておられました。ヨハネパウロ二世の言葉を引いて、教皇フランシスコは『福音の喜び』でこう指摘します。

「教会の刷新はすべて宣教を目的とすべきです。教会的な内向性というものに陥らないために」(27)

ただし教皇フランシスコは確かに教会の刷新を求めてはいるものの、しかしそれは、伝統的な小教区という共同体をぶちこわして、それぞれが自由に、そしてばらばらに活動すれば良いのだということを目指すのではないということを、教皇は『福音の喜び』で次のように指摘しています。

「小教区は時代後れの構造ではありません。非常に柔軟性があるからこそ、司牧者や共同体が持つ開放性や宣教における創造性が求める、多様な形態を受け止めることができます。・・・小教区は地域社会における教会の現存であり、御言葉に耳を傾ける場であり、キリスト者としての生活の成長の場であり、対話、宣教、愛徳、礼拝、祭儀の場なのです。」(28)

教皇フランシスコが、これまでの伝統的な小教区のあり方から脱皮した教会の新たな姿を模索しようとしていることは確実です。しかしそれは小教区というシステムの否定ではなく、創造性と柔軟性を持って、新たな形での「地域社会における教会の現存」となる存在を生み出すことです。

そこで、教皇ベネディクト十六世が、『神は愛』の中で示した、教会の本質的要素の指摘が重要です。教皇ベネディクト十六世は、こう指摘されていました。

「教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神の言葉を告げ知らせることとあかし、秘跡を祝うこと、そして愛の奉仕を行うことです。これらの三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです」(神は愛25)

福音宣教と、典礼と、愛の奉仕が絶妙に併存している共同体。教皇フランシスコはそれを「御言葉に耳を傾ける場であり、キリスト者としての生活の成長の場であり、対話、宣教、愛徳、礼拝、祭儀の場」と位置づけます。

もちろん皆が同じことをできるはずはなく、皆が同じことをする必要もありません。それぞれの与えられた賜物に応じて、果たすことができる役割は異なっているでしょう。でも、例えば、一人で祈るときにも、共同体の一部として祈っていることを意識し、ミサに与るときも、共同体の一部として与っているのだという意識を持つことは大切だと思います。共同体を中心に据えているのはとりわけ典礼において顕著ですが、愛の奉仕にしても、自分の優しさの故ではなく、共同体の愛の奉仕の一部として行っているという意識が大切なのではないかと、私は思っています。

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