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2019年8月16日 (金)

聖母被昇天祭@東京カテドラル

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8月15日は様々な思いが去来する日です。470年前に聖フランシスコ・ザビエルが日本に初めて福音をもたらした日であり、ザビエルが日本を聖母に奉献した日でもあります。

74年前には、日本が降伏を受け入れ、戦争が終結することが明らかになった日でもあります。ですから、8月15日は過去の歴史を振り返り、戦争という手段を国家間の争いごとの解決のために選択はしないという決意を新たにする日です。日本の教会は、8月6日の広島の原爆の日からはじまり、9日の長崎の原爆の日とともに、15日までの10日間を平和旬間として、過去に学び、今の生命に生き、将来の平和を祈り続ける『時』としてきました。

わたし自身とっては、3世紀のローマの殉教者である聖タルチシオの記念日でもあります。(現在は聖母被昇天祭の関係で、8月12日に移りましたが、たぶん多くのタルチシオを霊名にいただいている人は、いまでも8月15日に祝っていると思います)

そして、教会にとっては、聖母被昇天祭であります。

『聖母の被昇天の祝日は、1950年に「無原罪の聖母が地上の生涯の終わりにからだも魂もろとも天にあげられた」と教皇ピオ12世によって定義されたように、マリアが栄光につつまれて天国へ上げられたことを祝います。(女子パウロ会Laudateから)』

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東京カテドラル聖マリア大聖堂では、午前10時のミサに続いて、夕方6時からもミサが行われ、夕方のミサは私が司式いたしました。当初の予定では、カテドラル構内で一番歴史の長いルルドの前で祈りを捧げ、そこから大聖堂までロウソク行列をする予定でした。残念ながら、台風の影響で雨が降り、ロウソク行列は取りやめになってしまいました。昨年も強い風が吹いたため、この日の外での行事は中止でしたが、来年の好天に期待しましょう。

ミサは同じ聖マリア大聖堂で祈りを捧げている、カトリック関口教会(小教区)と東京韓人教会(属人小教区)の合同で行われ、ミサ後にはカトリックセンターホールで、納涼会も行われました。参加してくださった多くの方々に感謝します。

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以下、昨晩のミサの説教の原稿です。

「ともに手をとり合って、友情と団結のある未来をつくろうではありませんか。窮乏の中にある兄弟姉妹に手をさし伸べ、空腹に苦しむ者に食物を与え、家のない者に宿を与え、踏みにじられた者を自由にし、不正の支配するところに正義をもたらし、武器の支配するところには平和をもたらそうではありませんか。」

38年前の2月25日、教皇ヨハネパウロ二世は、広島での平和メッセージのなかで、特に若者に対して呼びかけて、そのように述べられました。

第二次世界大戦が終結したものの、ベトナム戦争をはじめアフリカや世界各地での紛争や内戦は頻発し、さらにはイデオロギーの相違から来る東西の対立が深刻となり、全面的な核戦争の可能性も否定できなかった時代に、教皇は「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」と力強く宣言して広島の平和メッセージを始められました。

戦争は、自然発生的に生まれてくるものではなく、人間の意図によって引き起こされるものだからこそ、人間は生命の破壊を避けるために自ら行動することができるのだし、そうしなければならないと、教皇は広島から世界に向かって呼びかけられました。

今わたしたちが生きている38年後の現実は、平和を確立できたのでしょうか。

世界は「ともに手をとり合って、友情と団結のある未来を」実現してはいません。地域紛争は各地で絶えることがなく、自らと異質な存在を排除しようとする動きは消え去るどころか、勢いを増しています。

「窮乏の中にある兄弟姉妹に手をさし伸べ、空腹に苦しむ者に食物を与え、家のない者に宿を与え、踏みにじられた者を自由にし、不正の支配するところに正義をもたらし、武器の支配するところには平和をもたらそうではありませんか」という教皇の呼びかけは、格差が拡大し、教皇フランシスコの言われる「廃棄の文化」と排除が進み、その存在すら無視される人々をさえ世界各地で生み出しています。38年経っても、平和は実現されていません。

かつての戦争で生命を奪われた多くの方々、敵味方に分かれた双方の軍隊にいた人たち、一般の市民、戦場になった地で巻き込まれてしまった多くの方々。理不尽な形でその尊厳を奪われ、暴力的に生命を失った多くの方々の生命への責任から、私たちは逃れることはできません。「戦争は人間のしわざ」だからです。

過去の歴史を振り返り、その生命に対する責任を思う時、私たちの選択肢は、同じ過ちを繰り返さないという決意を新たにする道でしかあり得ないと思います。

あらためて、戦争で亡くなられた数多くの方々の永遠の安息を祈りたいと思います。その上で、国家間の対立を解決する手段は武力の行使ではなく、対話による信頼醸成にしかないことを、世界の政治指導者たちが心に留めてくれるように、神様の導きを祈りたいと思います。対立や排除ではなく、対話と協力の道を選び取る勇気と英知が与えられるよう、国家の指導者たちに聖霊の照らしがありますように。

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本日のルカの福音には、聖母讃歌(マグニフィカト)が記されていました。聖母マリアは、全身全霊をもって神を褒め称える理由は、へりくだるものに目をとめられる主のあわれみにあるのだと宣言されています。

すなわち、神の偉大さは、人間の常識が重要だと判断している当たり前の価値観とは異なっている神ご自身の価値観に基づいて、自らが創造されたすべてのいのちが、一つの例外もなく大切なのだと言うことを、常に具体的行動で示されるところにあるのだと、聖母は自らの選びに照らし合わせて宣言します。

まさしく教皇フランシスコが、神のいつくしみを強調し、誰ひとりとして排除されてよい人はおらず、誰ひとりとしてその存在を無視されてよい人はいないと、常々強調されていることに、聖母の讃歌はつながっております。

勝ち組、負け組などという言葉がもてはやされ、他者を押しのけてさえも、自分の利益や立場を確保することがよいことだとでも言わんばかりの社会に対して、人間の尊厳は神から与えられたいのちを生きていること、その事実にあるのだと言うことを明確に示されています。

自分の力に頼るのではなく、創造主である神の存在の前に謙遜にたたずむときに初めて、神のいつくしみはわたしたちに働きかけることができます。自分が、自分がと、自らの力に頼って生きているときには、神のいつくしみは、あたかもバリアに跳ね返されるようにして、わたしたちに働くことはできません。聖母マリアの選びは、「お言葉通りに、この身になりますように」という、天使ガブリエルへのへりくだりの言葉によって、初めて実現しました。

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教皇パウロ六世は、ベトナム戦争が激化し、東西の対立が鮮明になっていた1969年の聖母月10月に、平和のためにロザリオを祈るようにと呼びかける使徒的勧告を発表され、そこでこう述べておられます。

「『平和の君』、平和のしるしのもとにお生まれになったかた、『平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる』と全世界に向けて宣言された方の母となったのは、ナザレの慎ましいおとめです。福音書はわたしたちに、マリアは人々の必要に敏感な方であると教えています。・・・それなら、わたしたちが心から祈っただけでも、マリアが尊い宝である平和のために仲介しないことなど、どうしてあり得るでしょうか。(レクレンス・メンシス・オクトーベル)」

今日、聖母被昇天を祝っているわたしたちは、同時に世界の平和のためにも祈りを捧げます。それならばこそ、平和の君である主イエスの母であるマリア様に、平和を求めて取り次ぎを祈らないわけにはいきません。聖母讃歌の中で、マリア様ご自身が神の望まれる世界の姿を示唆されたように、その世界が、すなわち神の平和が達成されている世界が実現するように、聖母の取り次ぎを祈りましょう。

パウロ六世は、ロザリオの祈りの重要さを説いたこの文書の続きにこう記します。

「マリアは非常に簡単に『葡萄酒がなくなりました』と知らせ、キリストは大変寛大にこたえました。それならば『平和がなくなりました』と告げるマリアに、キリストが同じ寛大さをお示しにならないことがあるでしょうか」

わたしたちも聖母の取り次ぎに信頼しながら、ひたすら神の平和の実現のために祈り、自らの言葉で神の平和を語り、そして『お言葉通りにこの身になりますように』と応えた聖母に謙遜さを学びながら、神の国の実現のために行動してまいりましょう。

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