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2019年9月21日 (土)

秋田の聖母の日2019@聖体奉仕会

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今年で5回目となりますので、そろそろ恒例と呼んでもいいものだと思いますが、秋田の聖体奉仕会を会場に、秋田の聖母の日の祈りの集いが、9月14日と15日に開催され、300人近い方々が、全国は言うに及ばず世界各地から参加してくださいました。

聖体奉仕会は、新潟教区認可の奉献生活者の会ですが、会員が祈りの生活を営む場であり、また聖母の御像に関する奇跡的な出来事があった場であります。新潟教区は、わたしの前々任者である伊藤庄治郎司教が、1984年4月22日に発表された司牧書簡を引き継いでおり、その書簡によって奇跡的な出来事を認め巡礼が許されています。

わたしは今回は、東京教区のカテキスタの認定式があった関係で、少し遅れて秋田に入りましたので、15日日曜日のミサを教区管理者として司式させていただきました。特別な機会ですので、主日ではありますが、悲しみの聖母の記念日のミサを捧げました。

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同日のミサにはポーランドからの巡礼団の司祭や、ベトナムからの司祭も加わり、世界各地から訪れてくださった皆さんと、祈りをともにすることができました。

できれば来年の秋田の聖母の日が行われる頃には、新潟の新しい司教が誕生していてほしいとは思いますが、同時に、一度マリア様に捕らえられると離してもらえなくなるので、わたし自身は来年以降も、少なくとも一日だけでも参加させていただこうと思います。

より多くの方がこの聖なる祈りの場を訪れ、聖母の取り次ぎを祈りながら、回心の道を歩まれますように。

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以下、9月15日のミサの説教の原稿です。

苦しみはいったい何のためにあるのか。

わたしたちが生きている現実には、ありとあらゆる困難が存在しており、様々な意味で苦しみを生み出しています。また理不尽な出来事に翻弄されたり、大きな災害によって人知を遙かに超える苦しみや悲しみに見舞われることさえあります。この数年は、大切な賜物である人間の生命が、まるでもてあそばれているとでも言うような仕方で暴力的に奪い取られる理不尽な事件も続発しています。

理不尽な現実を目の当たりにするとき、どうしてもわたしたちは、「なぜ」という疑問を口にいたします。

2011年の4月に、子どもたちの質問に答えるテレビの企画で、教皇ベネディクト16世は、日本の少女からの質問を受けられました。
東北の大震災を体験した直後のことです。少女は、「なんで子どもも、こんなに悲しいことにならなくてはいけないのですか」と教皇に質問しました。

それに対してベネディクト16世は、「他の人たちが快適に暮らしている一方で、なぜ皆さんがこんなにたくさん苦しまなくてはならないのか? 私たちはこれに対する答えを持ちません」と、正直に応えられました。

その上で、「でも、イエスが皆さんのように無実でありながらも苦しんだこと、イエスにおいて示された本当の神様が、皆さんの側におられることを、私たちは知っています。・・・神様が皆さんのそばにおられるということ、これが皆さんの助けになることはまちがいありません。・・・今、大切なことは、『神様はわたしを愛しておられる』と知ることです」

教皇ヨハネパウロ2世は、1984年の贖い聖年に当たって発表された書簡「サルヴィフィチ・ドローリス」において、苦しみの意味を考察されています。

教皇は、「神は御ひとり子を、人間が悪から解放されるために世に与えられた」と指摘し、その中に、「苦しみについての決定的、絶対的な見地が」示されていると述べています。

御子は、神が愛される人間の救い、すなわち贖いのために、罪と死に打ち勝たなくてはならなかった。そのための戦いが、イエスの人間としての苦しみの生涯なのだというのです。

ベネディクト16世が日本の少女に言われたこと、「イエスが皆さんのように無実でありながらも苦しんだこと」の理由は、神が人間を愛しているからに他ならず、その愛のために、イエスは苦しみ抜かれ、ご自分を贖いの生け贄として十字架上で御父にささげられました。

聖母マリアの人生は、母として、イエスの苦しみの人生に寄り添う生涯でありました。
イエスとともに歩む時の始まりに当たって、シメオンは、「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と預言します。すなわち、神の愛を実現しようとするイエスには、悪に基づく様々な抵抗があり、罪と死に打ち勝つための苦しみに彩られた生涯が待ち構えているが、聖母もまた一緒に、その苦しみを体験し、「心を刺し貫かれる」というのです。

聖母マリアは、イエスとともに歩む時の終わりである、イエスの十字架上の苦しみにも寄り添いました。
教皇ヨハネパウロ2世は、先ほどの書簡の中で、「キリストの傍らの最も崇高な場所で、いつも聖母が、一生涯を通して、この特別な苦しみの福音を模範的にあかししながら生きてこられた」と述べています。

キリストの生涯は、苦しみが、人類の救いのための力を生み出すことを教えています。

教皇ベネディクト16世は、「希望による救い」のなかに、真の人間の価値をこう指摘されます。
「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼす(「希望による救い」39)」

苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値を持って生きるために不可欠な要素です。苦しみは、神がわたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

聖母マリアは教会の模範であります。ですから教会は聖母と一致して、先に模範を示された聖母に倣い、キリストの苦しみにともに身をゆだねます。

聖母マリアは、一人ひとりの信仰者にとっても模範であります。「お言葉通りにこの身になりますように」と天使に応えた聖母は、すべてを神にゆだねる謙遜さの模範を示されました。わたしたちはその謙遜さに倣い、神の計画に身をゆだねる勇気を願いたいと思います。

聖母マリアは、わたしたち一人ひとりの霊的な母であります。真の希望を生み出すために苦しみを耐え忍ばれたイエスに、身も心も併せて歩みをともにされた聖母に倣い、わたしたちも、主イエスの苦しみにあずかり、真の希望への道を切り開いていきたいと思います。

教皇ヨハネパウロ2世は、苦しみについての考察を終えるにあたって、ただ漫然と苦しみに耐えていれば良いというわけはではないことも、指摘することを忘れてはいません。漫然と耐えているだけでは、この世における神の国の実現はあり得ないからです。そこで、教皇は、教会が「善きサマリア人」に倣って生きるようによびかけ、「我々お互いの関係は、苦しむ隣人の方に向かわなければならない」と指摘します。

その上で、教皇は「苦しみは、また、人間の人格の中で、愛を誘発するために存在している」とまで述べて、困難に直面する人たち、苦しみのうちにある人たちへ、徹底的に自己を与え尽くすことによって奉仕し、寄り添うことが必要であると説きます。苦しみの福音は、善きサマリア人としての生きたとを通じて、常に希望へと方向付けられるのです。

わたしたちは今日、イエスと苦しみの生涯をともに歩まれた聖母の悲しみを記念しています。聖母の悲しみは、ただ悲嘆に暮れる悲しみではなく、希望に向かって歩み出すための力を生み出す苦しみであります。困難に直面する人たちへと、わたしたちのまなざしを向ける苦しみであります。

聖母に倣って、社会の現実の中で、主イエスの耐え忍ばれた苦しみを心にとめ、主と歩みをともにしながら、希望を生み出すために力をいただき、手を差し伸べる存在であり続けましょう。 

 

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