カテゴリー「教皇来日に備え」の10件の記事

2019年10月 4日 (金)

教皇訪日にむけて

9月13日には、教皇フランシスコのタイと日本公式訪問が発表となり、さらに10月2日には、プログラムの主な内容もバチカンから発表されました。

東京では、11月25日月曜日に、(まだすべての時間が確定して発表されていませんが)、教会の行事としては、東北の被災者の方々との集まり、青年との集い、そして午後4時からの東京ドームでのミサが予定されています。被災者の方々とは麹町にある一般ホールで、また青年との集いは関口の東京カテドラルで行われます。

それ以外に、政府行事としては、天皇陛下や首相との会談などが予定されています。

教皇訪日に関する情報は、中央協議会の特設ページに掲載されていますので、このリンクから是非そちらをご覧ください。

東京教区のホームページにもすでに掲載しましたが、教皇訪日にあたってのビデオメッセージを作成しましたので、ご覧いただければと思います。メッセージは英語ですが、日本語の字幕をつけてあります。

 

今回の訪日では、とりわけ長崎や広島での核廃絶のメッセージに注目が集まっています。もちろん核兵器の廃絶は教皇様にとっても、また教会全体にとっても重要な課題であり、国際社会の場でも聖座はしばしばこの点を力説してきたところです。したがって、原子爆弾の被害を受けた長崎と広島の被爆地で、核兵器廃絶や平和を訴えられることは、国際社会に対して大きなインパクトを与えることでしょう。

同時に教皇様は、普遍教会の最高の牧者として、また使徒の頭ペトロの後継者として、私たち日本の教会を訪れることで、教会に与えられた福音宣教の使命を率先して果たされる模範を示されることでしょう。その意味で、日本の社会にある人間の「いのち」に関わる問題に、積極的に発言されることでしょう。

もちろん教皇様の立場は国家元首でもありますから、日本の内政に干渉するような直接的な発言は慎まれることと思いますが、倫理道徳的側面から、その始まりから終わりまで例外なく護られなくてはならない人間のいのちの尊厳、少子高齢化社会にあっての孤立や孤独の問題、貧困や格差、生きる希望の創出、真の幸福を見いだす道などについて、準備されたいくつかの行事におけるスピーチで触れられることが予想されます。

また教皇様は、しばしば難民の方々や移住者の方々の人生について、踏み込んだ発言を続けてこられましたから、そういった課題についても、何らかの形で触れられることが予想されます。

聖霊の導きのうちに、時のしるしを読み解きながら、神に至る道を示そうとされる牧者の言葉に、謙遜に耳を傾けたいと思います。

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2019年9月18日 (水)

教皇フランシスコの訪日正式発表を受けて

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9月13日金曜日ローマ時間の朝9時に、教皇フランシスコの日本訪問と、その前に予定されているタイ訪問が、バチカンと、東京と、バンコクで、同時に発表されました。バチカンは、報道官の短いステートメント、日本は官房長官のちょっと長いステートメント、バンコクではタイ司教協議会主催で、なかなか大がかりな記者発表が行われました(これはビデオを見ることができます

タイは11月20日から23日、日本は11月23日から26日で、日本での訪問先は、東京、長崎、広島となっています。なお日本訪問のテーマは「すべてのいのちを守るため」とされています。これは教皇の回勅「ラウダート・シ」に記されている言葉からとられました。詳しくは、カトリック中央協議会の特設ホームページをご覧ください。東京ドームでのミサの申し込みは、9月20日から特設サイトで、またはすでにツアーを組んでいる旅行会社経由でお願いいたします。

38年ぶりのローマ教皇の日本訪問を、心から歓迎し、喜びのうちに迎えたいと思います。教皇フランシスコは、現代社会を支配する様々な価値観の直中に生きながら、神の望まれる世界を実現する道とは異なっている道へと誘う価値観に対して、厳しく対峙する姿勢を示してこられました。

同時に、使徒の頭(かしら)の後継者として、イエスの福音宣教命令をより積極的に果たしていく姿勢を自ら示されることで、世界の教会共同体にキリスト者として生きる道を明確に示しておられます。とりわけキリストのいつくしみ深い心に導かれ、社会の中にあって助けを必要としている人、困難に直面している人、排除・排斥されている人、希望を失っている人に、積極的に関わり、歩みをともにしながら、いのちを生きる希望を生み出そうとされてきました。

教会の中で待っているのではなく、助けを必要としている人のもとへ積極的に「出向いていく教会」を理想として掲げる教皇は、失敗や喪失を恐れて守りに入るのではなく、失敗を恐れずに積極的に行動するように呼びかけます。実際、教皇自身が、これまでの慣習にとらわれることなく、自らの言葉を行いで示してこられました。

近年は、「ラウダート・シ」を発表することで、皆に共通の家である地球を護ることは、神からの賜物であるいのちを護ることだとして、環境問題に関わり、全人的な人間発展(総合的人間開発)の視点から、発言を続けられています。

同時に、2013年の教皇選挙を前にして開催された枢機卿会での多数意見を受け、バチカン(聖座)の機構改革にも取り組んでこられ、その集大成とも言うべき文書の発表が、待たれているところです。教皇は、バチカンが、中央政府のように教会全体に命令を下すのではなく、教皇を補佐し、また世界の教会に奉仕する場となることを目指しておられます。

教皇フランシスコの日本訪問は、日本の教会に、福音に従って生きることの大切さを繰り返し教える教皇フランシスコの姿勢に学び、それに倣う機会を与えてくれるでしょう。社会の直中にある教会共同体が、より福音にふさわしい生きる姿勢を見いだす機会を与えてくれるでしょう。「働き手を送ってくれるように祈れ」と言われた主の言葉を思い起こし、福音宣教のために奉仕せよとの呼びかけに、多くの人が応える機会ともなるでしょう。いつくしみ深い主イエスに倣って生きる道を、わたしたちに示してくれるでしょう。

もちろん、何も準備をしなければ、ただスーパースターがやってきた一大イベントで終わってしまうでしょう。だから準備が大切です。幸い10月は福音宣教のための特別月間ですし、あらためて教皇フランシスコの書かれた文書を学び、その姿勢の模範に倣い、わたしたちの心を準備いたしましょう。もちろん、教皇様のために祈ることを忘れないようにいたしましょう。

なお、東京に滞在する11月25日と帰国の途につかれる11月26日に関して、様々なご提案やリクエストが東京教区にも寄せられています。教皇様の外国訪問は、バチカン(聖座)の主催行事であり、ミサの典礼の内容も含めて、バチカンの関係部署からの指示で執り行われます。日本の司教協議会や教区は、その指示を具体的に実行する役割ですので、日本側からバチカンに要求することはできません。したがって、残念ながら、寄せられている様々なリクエストにお応えすることは適わないであろうこと、ご理解ください。

また、主にミサの入場券のことで、教区本部やわたし宛にも様々なご注文をいただいていますが、これも東京教区の管轄ではなくて、司教協議会の管轄ですので、その点ご理解ください。

下の写真は、2013年5月17日、国際カリタスの理事会の時に、2ヶ月前に就任されたばかりの教皇様に、日本訪問をお願いしているわたしです。教皇様が住んでおられる、カサ・サンタ・マルタにて。

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2019年8月21日 (水)

教皇フランシスコ 7

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残念なことに、今日に至るまでも教皇様の訪日に関する公式な発表はありません。最終的にはバチカンと日本という二つの国家の外交交渉ごとですので、司教団としてもただただ発表されるのを待つしかありません。公式発表がまだなので、詳しい日程や肝心のミサの参加について発表ができず、様々な憶測が飛んでいるようです。申し訳ありません。

この数年の慣例を見る限り、だいたいどこの国の訪問でも三ヶ月ほど前にならないと、バチカンからの公式発表はありません。ちなみに三十八年前の来日の際の準備の大変さについては、当時広報を担当した水浦征男神父様の書かれた「教皇訪日物語」(聖母文庫)に詳しく、私もすでに何度も読み返しました。これを読まれると、現時点での状況を推し量ることが可能です。ぜひご一読を。いずれにしろ、公式発表がありましたら、即座に中央協議会のホームページなどで、そのほかの詳しいことは公表される予定ですので、今しばらくご辛抱ください。

というわけで、教皇様を迎える準備のために、もう少し教皇フランシスコの言葉から学んでみましょう。

信仰はいわば個人の内心の問題ですから、信じるのか信じないのか、何を信じるのか信じないのかは、それぞれの個々人がその内心において自己決断する事柄であって、決して外部からコントロールされて良いものではありません。その意味で、信仰は非常に個人的な性格を持っています。

それでは何でも好き勝手に自分の好みで信じて良いのかというと、そういうわけでもありません。たとえばキリストを信じると公に宣言する者が、とんでもない異端説に取り込まれ主張するのであれば、教会は同じ信仰に生きるものとして、正しい道を示して導こうとします。それは、私たちの信仰は極めて共同体的な性格を持っているからです。

そもそも聖書を通じて、旧約時代の神による民の選びもそうですし、新約時代にあってイエスが弟子たちの共同体を通じて福音を告げたこと、また弟子たちの共同体に聖霊が降臨することで教会が始まったことなどをみれば、私たちの信仰は共同体の存在を前提として成り立つ信仰であることがわかります。

私たちの信仰は、極めて個人的であると同時に、極めて共同体的でもあります。

信仰における共同体的性格を目に見える形で反映しているのが、私たちが通い祈りを捧げる教会、つまり小教区の存在です。

教皇フランシスコは、『出向いていく教会』を強調しておられました。ヨハネパウロ二世の言葉を引いて、教皇フランシスコは『福音の喜び』でこう指摘します。

「教会の刷新はすべて宣教を目的とすべきです。教会的な内向性というものに陥らないために」(27)

ただし教皇フランシスコは確かに教会の刷新を求めてはいるものの、しかしそれは、伝統的な小教区という共同体をぶちこわして、それぞれが自由に、そしてばらばらに活動すれば良いのだということを目指すのではないということを、教皇は『福音の喜び』で次のように指摘しています。

「小教区は時代後れの構造ではありません。非常に柔軟性があるからこそ、司牧者や共同体が持つ開放性や宣教における創造性が求める、多様な形態を受け止めることができます。・・・小教区は地域社会における教会の現存であり、御言葉に耳を傾ける場であり、キリスト者としての生活の成長の場であり、対話、宣教、愛徳、礼拝、祭儀の場なのです。」(28)

教皇フランシスコが、これまでの伝統的な小教区のあり方から脱皮した教会の新たな姿を模索しようとしていることは確実です。しかしそれは小教区というシステムの否定ではなく、創造性と柔軟性を持って、新たな形での「地域社会における教会の現存」となる存在を生み出すことです。

そこで、教皇ベネディクト十六世が、『神は愛』の中で示した、教会の本質的要素の指摘が重要です。教皇ベネディクト十六世は、こう指摘されていました。

「教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神の言葉を告げ知らせることとあかし、秘跡を祝うこと、そして愛の奉仕を行うことです。これらの三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです」(神は愛25)

福音宣教と、典礼と、愛の奉仕が絶妙に併存している共同体。教皇フランシスコはそれを「御言葉に耳を傾ける場であり、キリスト者としての生活の成長の場であり、対話、宣教、愛徳、礼拝、祭儀の場」と位置づけます。

もちろん皆が同じことをできるはずはなく、皆が同じことをする必要もありません。それぞれの与えられた賜物に応じて、果たすことができる役割は異なっているでしょう。でも、例えば、一人で祈るときにも、共同体の一部として祈っていることを意識し、ミサに与るときも、共同体の一部として与っているのだという意識を持つことは大切だと思います。共同体を中心に据えているのはとりわけ典礼において顕著ですが、愛の奉仕にしても、自分の優しさの故ではなく、共同体の愛の奉仕の一部として行っているという意識が大切なのではないかと、私は思っています。

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2019年7月20日 (土)

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多くの人の命が一瞬にして犠牲となった凄まじい放火事件が京都で発生しました。「京都アニメーション」のスタジオが放火され、34名もの方が亡くなられ、さらに多くの方がやけどなどで負傷されるという凄まじい事件内容の報道に、心が冷え込みました。亡くなられた方々の無念の思いに心を馳せながら、永遠の安息を心から祈るとともに、負傷された方々の一日も早い回復をお祈りいたします。

どのような理由があったにせよ、このようにして人の命を奪い去ることは許されてはなりませんし、加えてこのあまりにも暴力的な手段をとることは、与えられた命を生きているわたしたちにゆるされている選択肢ではありません。人間のいのちは、その始めから終わりまで、尊厳を守られ大切にされなければならないとあらためて主張します。

アニメの制作に必死に取り組んでこられた多くの方々の未来への希望が一瞬にして奪い去された理不尽さを思うとき、本当に心が冷え込んでしまいます。大きな悲しみを抱えられた被害者のご家族のみなさまが、神の愛しみといやしに包まれますように、心から祈ります。

さて教皇フランシスコの来日は、このところしばしば一般のメディアで報道されることが相次いでいますが、バチカンからの公式な発表はまだなく、残念ながら今の段階で、100%確実だとは断言できる状態ではありません。しかしかなりの程度で訪日は確実とみられますから、やはりわたしたちは、教皇フランシスコについての学びを継続して深めていきたいと思います。

教皇フランシスコの呼びかけの特徴のひとつは、難民や移住者への深い思いと同時に、貧しい人たちへの特別な配慮にあります。『福音の喜び』の中には、しばしば現代の経済システムへの批判が、格差と排除を生み出すシステムだと記されています。

加えて教皇は「貧しい人のため、教会は貧しくあってほしい(198)」とも言います。教皇は、具体的に行動する一つの象徴として、自らの側近を「教皇の慈善担当(Papal Almoner)」に任命し、さらに彼を枢機卿として親任して、さらにそれまで教皇の祝福証明などを配布する役割であったこの役職を、実際に外へ出て、困窮する人たちを具体的に手助けする役割に変えてしまわれました。Konrad Krajewski枢機卿です。

教皇は『福音の喜び』で、パウロ6世の「ガウデーテ・イン・ドミノ」を引用し、次のように記します。

「『技術文明社会は、快楽をもたらす機会を増やすことに成功しました。しかし喜びを生み出すことには困難を強いられている』からです。私が人生において見てきた、最も美しく自然な喜びは、固執するものをもたない貧しい人々のうちにあったということです」(7)

楽しいことや心地よいこと、すなわち快楽を現代社会の技術の発展は人類にもたらしたけれど、それらは本当の『喜び』ではないという指摘です。教皇フランシスコは、その本当の喜びを、貧しい人たちの中に見いだしたと言うのです。

私は、その本当の『喜び』とは、生きていくことへの希望であると思っています。楽しいとかうれしいとか、そういう感情的なことではなく、未来に向けて生きていくことへの希望を持っているかどうかであると思います。教皇の語られる『喜び』の本質は、『生きることへの希望』にあると思っています。

まさしく『技術文明社会』は、生きていくことへの希望を生み出しているのだろうか。残念ながら、自信を持って『はい』とはいえません。わたしたちは、いったい何に『固執』しているのでしょう。

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2019年6月11日 (火)

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教皇フランシスコの来日は、その可能性の報道や噂が先行し積み重なり、すでに確定したように語られていますし、教皇様自身も、先日国際カリタスの総会参加者謁見(写真上)の終わりに、謁見室から退場する際、歩みを止められて最前列にいた私のところへ近づいてこられ、「次は東京で会いましょう」と言われたほどですから、かなりの程度で確定に近づいているのでしょう。しかしながら、今の段階では、聖座から公式な決定の発表はなく、実は、完全に確定しているわけではありません。実現するように祈り続けたいと思います。

さてそんなわけで、中断していますが、「福音の喜び」から、教皇フランシスコの考えているところを学び続けたいと思います。

「宣教を中心にした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません。皆さんぜひ、自分の共同体の目標や構造、宣教の様式や方法を見直すというこの課題に対して、大胆かつ創造的であってください。目標を掲げても、達成のための適切な手段の探求を共同体が行わなければ、単なる夢に終わってしまうでしょう」(福音の喜び33)

ちょうどこの聖霊降臨祭を締め切りにして、東京教区の宣教司牧方針への提言をお願いしていました。メールだけでも60通の回答をいただきました。ありがとうございます。

教皇フランシスコは昨年開催された青年のためのシノドス最終日の10月28日、お告げの祈りに集まった人々に、シノドスのプロセスを振り返って、こう述べています。

「しかしこのシノドスの第一の実りは、これから見習うべき、準備段階から取り入れられた手法にあると思います。それは、書面の文書を作成することを第一の目的としない『シノドス様式』です。書面の文書も貴重で有益なものですが、それ以上に、現状に即した司牧的選択をするために、老若男女が集まり、協力しながら傾聴と識別を行う方法を推進することが重要です」

東京教区全体から代表者を集めて、実際に会議を開いて方針を話し合うことは、それに必要な準備も考えれば、あまり現実的な選択ではありませんでした。そこで会議を開かずに、できるだけ多くの人が互いの話に耳を傾け、祈りのうちにともに識別を進める方法を模索しました。それが今回の、祈りのうちに行われる話し合いであり、その実りの集約であります。少しばかり大げさですが、今現在東京教区の宣教司牧方針を識別するために、わたしたちはシノドス的な道を歩んでいると考えています。

これからの道のりについては、後日教区ニュースで詳しく解説いたしますが、いずれにしろ目標を掲げて、その具体化を目指していくことになります。目標を掲げるプロセスで、また具体化する実行で、教皇様の『福音の喜び』の言葉を思い出したいと思います。

「大胆かつ創造的」に、『いつもこうしてきた』という判断基準を捨てて、東京教区のこれからのために、一緒になって道を見いだしていきたいと思います。

 

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2019年4月19日 (金)

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教皇フランシスコは、しばしば『排除』に言及されます。教会共同体が神のいつくしみのあふれる場であり、見に見えるしるしでなければならないと強調される教皇様は、だからこそ、誰ひとりとして排除されない教会共同体を求められています。

わたしたちは、完全な存在ではありません。様々な弱さを抱えています。時に、神の前で罪に定められるような行いを繰り返してしまいます。互いにそうであるにもかかわらず、どういうわけかわたしたちは、他人を厳しく裁いてしまうことがしばしばです。もちろん、いつくしみにあふれる教会とは、なんでもどうでもよいのだ、などという柱のない存在のことではありません。そこには神が望まれる人の有り様という柱があり、常にそこへと向かって歩みを続けるようにわたしたちを促すのが教会です。しかし時として、裁いてしまうことが、教会共同体からの排除となり、神の元へと立ち返る機会を、そもそも奪ってしまうことになってしまうことがあります。

何でもよいわけではないのですが、でも、教会は誰をも排除することなくともに歩みながら、神の望まれる道へと互いに立ち返る努力を、辛抱しながら続ける場でありたいと思います。そしてその思いを、社会全体に伝えていきたいと思います。

「わたしたちは『廃棄』の文化をスタートさせ、・・排他性は・・もはや社会の底辺へ、隅へ、権利の行使できないところへ追いやられるのではなく、社会の外へと追い出されてしまうのです。排除されるとは『搾取されること』ではなく、廃棄物、『余分なもの』とされることなのです」(福音の喜び53)

教皇のこの言葉は、経済体制への警告として記されています。しかし同時に、わたしたちの教会共同体にも影響を及ぼす現代社会全体の傾向への警告です。排除の行き着く先は、その存在さえも認めない『廃棄』なのだと警告されています。この世界に誰ひとりとして『余分なもの』はいないはずなのに。

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2019年4月 3日 (水)

青年のためのシノドスを受けた使徒的勧告が発表されました。

昨年10月に開催された、青年のためのシノドス(日本からは勝谷司教が参加)を受けた、教皇様の使徒的勧告が発表されました。日本語聖式翻訳には少し時間がかかるかと思いますが、以下、その概要を、バチカンニュースの日本語版から抜粋して引用します。ニュースの全文は、このリンクです。また英語版の本文全文はこちらのリンクです。

教皇、若者テーマのシノドス後の「使徒的勧告」発表 (2019年4月2日記事から一部引用)

教皇フランシスコは、昨年の若者をテーマとしたシノドスの成果をふまえ、「使徒的勧告」を発表された。

教皇フランシスコは、若者をテーマとしたシノドス後の「使徒的勧告」を発表された。

「使徒的勧告・クリストゥス・ヴィヴィト」の公式発表をもって、その内容が明らかにされた。

「クリストゥス・ヴィヴィト」のタイトルは、序文の書き出しの言葉、「キリストは生きておられます」から採られている。

書き出しで教皇はこのように記される。

「キリストは生きておられます。キリストはわたしたちの希望、この世界で最も美しい若さです。キリストが触れるすべてのものは、若返り、新たにされ、いのちにあふれます。ですから、わたしは一人ひとりの若いキリスト者にこの最初の言葉を向けたいのです。キリストは生きておられ、あなたが生きることを望まれる、と!」

第1章「神のみことばは若者について何を言っているか?」では、教皇は旧約と新約聖書の記述を豊富に引用しつつ、神が若者をどのように見ておられるかを考察。

第2章「イエス・キリストは常に若い」において、教皇はイエスご自身も青年時代を過ごされたことに注目。若きイエスと家族や人々との関係を考えることが、青少年司牧に役立つと助言している。また、教皇は、「教会の若さ」にも触れ、教会が過去に留まることなく、自由であることを願われている。

第3章「あなたがたは、神の現在である」で、教皇は、若者たちは未来だけでなく、まさに今現在を生きていることを強調。

第4章「すべての若者への偉大な知らせ」では、教皇は、何にもまして大切な3つの偉大な真理を若者に告げることを望まれている。その真理とは、1.「神はあなたを愛しておられる」、2.「キリストはあなたを救う」、3「キリストは生きておられる!」である。

第5章「青年期の道のり」では、福音に照らされた若者たちがどのように青年期を過ごすべきかを考える。

第6章「ルーツをもった若者」で、教皇は、「ある時、若木が希望の象徴のように伸びているのを見たが、嵐の後に見ると、倒れて枯れていた。それはよく根を張っていなかったからである」と述べ、ルーツを持たずして未来はありえず、世代間の断絶は世界によい結果をもたらさないという確信を表している。

第7章「若者の司牧」において、社会・文化的な変化に絶えずさらされ、時に青年たちの不安に回答を与えられない青年司牧を見つめた教皇は、若者たち自身がその主役となり、司牧者らの指導のもとに、創造的で大胆な新しい道を切り開いていくことを望まれた。

第8章「召命」で、教皇は、神が一人ひとりに望まれる素晴らしい計画に触れ、特に基本として、家庭と仕事の形成を挙げ、結婚し、家庭を持つことを恐れないよう励ましている。同時に、教皇は、神に奉献する生き方をも示している。

最終章である、第9章「識別」では、教皇は、自分の召命を発見するために必要な、孤独と沈黙に触れている。

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2019年3月 3日 (日)

教皇フランシスコ 3

教会は、聖霊によって守り導かれているのですから、わたしたちは安心して集っていることができるはずなのです。

しかし現実はそんなに簡単ではない。社会は少子高齢化だ。その直撃を受けて、教会も少子高齢化。戦後に相次いで建てられた聖堂は、そろそろ補修が必要だ。なかには建て替えも考えなくてはならないところもある。災害が相次ぎますから、耐震工事も不可欠だ。

教会共同体の運営に関わってくださる多くの方々は、本当に毎日、心配の種が尽きないことだと思います。そしてそのような配慮と取り組みは、この世界に現実の組織として存在する限り、不可欠であり重要です。感謝です。

でも同時に、教会は、様々な方向を向いていなくてはならないのも事実であり、常に与えられた使命を最優先に果たしていく努力も忘れることはできません。

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教皇フランシスコの、「福音の喜び」にある有名な言葉です。

「自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」(EG20)

物理的に今いる場所が快適かどうかと言うよりも、何も変化させずに今あるままでいることが、一番安心できる、という意味で、「快適な場所」です。

今の教会は、少なくともエネルギーに満ちあふれていると感じています。でもそのエネルギーが、ちょっと後ろ向きの積極性に使われすぎでしまっているのではないか。

前向きの積極性に使うエネルギーも大切です。様々な方向に向かって歩み出す、積極的なエネルギーも必要です。

そして忘れてはならないことは、私たちにはいの一番に考えなければならない使命があること。それはイエスの福音をなんとしてでも一人でも多くの人に伝えること。言葉と行いであかしをすること。そこへと踏み出す勇気が必要です。

教会共同体は、快適にそこに留まるためにエネルギーをため込むのではなく、ともに祈りミサにあずかることで、聖霊のエネルギーを頂き、それを充填し、勇気を持って外へと送り出すためにエネルギーを発生させる。そんな存在であったらばと思います。

教会が、福音をあかしするための、エネルギー発電所になりますように。

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2019年2月 6日 (水)

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教皇フランシスコの言葉から。「福音の喜び」に次のような記述があります。

「神は人々を個々人としてではなく、民として呼び集めることをお選びになりました。一人で救われる人はいません。」(EG113)

教会はいろいろな人の集まりですし、いろいろな人が集まれば、そこには様々な人間関係が生じます。時には教会の中で対立さえみられ、そのために、教会を離れてしまう人も少なくありません。残念なことだと思います。

信仰は自分と神との関係だから、一人でも大丈夫。そうなのかもしれません。でもわたしたちの信仰の歴史は、その始まりから、共同体のうちに育まれてきました。救いの歴史は、私と神とのプライベートな関係の中にあるのではなく、神とその民との関係の中で刻まれています。

教会は、単に礼拝のために人が集まる場ではなく、現実社会の中で神の民として存在するあかしとして存在し、救いの実現のために不可欠なのです。わたしたちの信仰は、教会共同体の中で育まれます。

だからこそ、教会は常に、誰かを排除していないか、対立を生み出していないか、自らのあり方を顧み続けることが必要です。よく言われるように、対話は、互いの自己主張を我慢することではありません。互いに謙遜と尊敬をもって、それぞれの人生の歴史に耳を傾け、唯一の神の懐に抱かれて、ともに救いの道を目指したいと思います。

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2019年2月 1日 (金)

教皇フランシスコ

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教皇フランシスコの来日がほぼ確実となってきましたが、バチカンの通例通り、半年前くらいにならないと確実な発表が行われませんので、まだ100%とはいえませんが、しかし教皇様ご自身がパナマへ行く機中で、「準備していてください」と言われたようですので、準備をしておきたいと思います。

教皇様のご意向のために、是非ともお祈りをこれまで以上にささげてください。同時に、教皇様の考えておられる教会のあり方について、信仰者の生き方について、少しずつ学びましょう。

これから折を見て、特に「福音の喜び」から、特徴的な言葉を、ごく短く紹介していきたいと思います。その一回目。

「私は出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さ故に病んだ教会より好きです」49

少子高齢化の波は、当然日本の教会を激しく飲み込んでいます。そのためか、だんだんと将来の心配ばかりをするようになってしまっていないでしょうか。教会の中に、ある種の積極性があることは確かですが、それが後ろ向きの積極性になっていないでしょうか。確かに今あるものを失いたくないですし、護りたいですし、大切にしたいのですが、それでもやはり、福音を掲げて、前向きの積極性を持ち続け、常に福音における挑戦者であり続けたいと思います。

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